花のセスティーナ、あるいは第三スタンザ

 人を殺すほどの美しさを持った人間がいる。アメイニアスは美少年ナルキッソスに恋したが、アプロディーテーの呪いで彼を手にできないことに絶望して自ら命を絶ったという。アメイニアスは死ぬとき、ナルキッソスの家の前で彼を呪いながら「ナルキッソスを叶わぬ恋に落とし苦しめてほしい」と義憤の神ネメシスに嘆願した。そして予言者テイレシアースはナルキッソスを占って、自分の姿を見なければ長く生きるだろうと言った。そのとおり、ナルキッソスはネメシスによって、自分以外を愛せぬように呪われ、ムーサの泉へ呼び寄せられる。ナルキッソスが水を飲もうと近づくと、みずからの顔を見て恋に落ち、泉から離れられなくなって痩せ細り、死んでしまった。彼の美しさは彼を愛する人だけでなく、彼自身をも滅ぼしてしまったのだ。ナルキッソスが死んだあと泉にそれは美しい水仙が咲いたというが、神話の美しい少年たちはみな、まるで命と引き換えに花を咲かせることが知られている。花の美しさはそうした美しかった人々の落とした命の美しさかもしれないということだ。


 ジェニとベルは広間での生活に慣れ始めていた。食事は朝食デジュネ昼食ディネ夕食スペと日に三度欠かさずあるし(村では特別に豊かでないときはたいてい昼を食べなかった)、眠るときもベッドとはいかないが柔らかい毛布がそれぞれに与えられている。外に出ることは禁じられていて、館のほかの部屋へ行くのも用を足すとき以外はなかった。ベルは廊下を歩くとき教会でしか見なかったような絵画の数々を見た。ほかにも灯されていない燭台やランプは精緻な細工の銀器や彫刻だった。また広間に置かれたいくつかのテーブルは艶々と輝く深い紅色のクロスで覆われ、古い木理の剥離片ささくれを隠している。ジェニはさまざまなものに触れたり、ベルの目を借りて見たりしながら、少しずつこの館の姿を描きつつあった。そしてある日、広間に例のメネラース伯が訪れた。

「妻の話し相手を探しているのだが、あなたたちの中に来てくれる人はいないかな?」

 彼は珍しい長い金髪を今日は束ねていて、闇のように深い色のローブを着ていた。そのとき広間全体が妙な雰囲気に支配されたようにジェニは思った。誰もが密かに声を秘めていたが、それを露わにすることはなかった。

「ふむ、ではきみと──きみに来てもらおう」

 そう言ってメネラースは近くにいた女ひとり──ジェニが最初に絵をやった女だ──と、ジェニを指し示した。

「お言葉ですが」ベルはおずおずと声をあげた。「妹は目が見えません、私がついていなければ……」そのときジェニは自分が話し相手に選ばれたのだと悟った。

「大丈夫、私が手を貸すから。あまりたくさんの人が行くと妻は驚いてしまうからね」

「でも妹は不安がるかも」

 ベルはそれでも食い下がったが、

大丈夫サヴァ!」

 メネラースの魔力じみた、やはり大きな声によってついに言葉を失った。

 こうしてジェニと女のふたりはメネラースに連れられて広間を出た。それからは長い廊下を何度も曲がって歩き続けたが、ジェニはメネラースに腕をとられて長いこと歩いたので、やがて道を忘れてしまった。やがてメネラースが足を止めたが、ジェニは歩き続けようとしたのでつまづき、倒れかかるのを彼はその逞しく力強い両腕で抱きとめた。ジェニは短くお礼を言ってそっと地面に降ろしてもらった。メネラースは蝶番の音を立てて、見るからに重いドアをいとも軽そうに押し開けた。

 扉の向こうの部屋は女たちの広間よりも少し狭いくらいの、それでも大きな部屋だった。中心には館全体を包み込む例の深い色の大きな天蓋のベッドが設えてある。しかし特筆すべきことはその部屋の明るさだった。まるで同じ世界とは思えないほど、扉の向こうは明るかった。ジェニとともに連れてこられた女はその灯に誘われるように、誘蛾灯に群がる虫けらのようにふらふらと、覚束ない足取りで部屋の中に歩いてゆく。メネラースはそれを横目にしながらわずかに唇をゆがめたが、目の見えないジェニにわかるはずもなかった。それどころか彼女にわかることなど、その手を引いて部屋の中に導く男の掌の硬さだけであった。ジェニはその手を剣を握る手だと直感した。彼は伯爵というより騎士であると。今度は初めて聞く女の声がジェニの耳にふれた。

「おいで、おいで。近くへ来て顔を見せて」

 女は躊躇うように足を止めながら、それでも抗えない引力にしたがってベッドのそばに跪いた。天蓋から垂れ下がるヴェールの中から、しなやかな細い腕がのびる。女は変わらず視線は下げたまま、しかし愛撫をねだる仔猫のように怯えと、そして何より歓喜のために震えながら顔を差し出した。ベッドからのびる手は、そっと焦らすように頬に触れ、首すじをなぞり、唇を撫でた。女はいまにも絶頂しそうだった。

「ああ……可愛い可愛い、

「あ、あ、あ……」

 女の声はうわずって言葉を紡がない。

「ふふっ、かたくならないで。わたくしの前では無理をしなくていいのよ」ヴェールの中からくぐもって聞こえる声は、その恐ろしい魔性を隠しきれない。「エレーヌはすべての美しいものの庇護者。あなたたち美しい子供たちを、美しくないすべてのものたちから、永遠に守ってあげる……」

「おや!」ジェニのすぐ近くで、大きな声が空気を震わせる。「エレーヌ、美しいものの庇護者の役目は、このメネラースのものではないかな!」

「メネラース!」

 さきほどまで穏やかだったエレーヌの声は不意に刃のように鋭くなり、メネラースは大袈裟に肩を竦めてみせた。

「ああ! 《棘のない薔薇はないNulle rose sans épine》!」

 ところで、女はエレーヌの鋭利な声によって怯懦と期待との危うい平衡を失ってしまい、すっかり青ざめて卒倒するばかりだった。

「あなたのせいで彼女を怖がらせてしまったのよ」声はすでに柔らかさを取り戻していたが、良人への非難の色はいまだ色濃い。「大丈夫……落ち着いて。血の気が引いて美しい顔が歪んでは、わたくしは悲しいわ」

「エレーヌさま、わたし、わたし……」

 そっと女の目に浮かんだ涙を白く細い指で拭いとり、エレーヌは微笑んだ。それだけで女はまた深い夢の中へ沈んでゆくのだった。

「メネラース、あなたのそばにいるのは」エレーヌはジェニの方へ目をやった。「今日の私のお相手かしら? もしそうなら、もっと近くにきてお顔を見せてくれるようにあなたからも促してほしいわ。大丈夫、緊張してしまう子もめずらしくはないから」

 伯爵は笑った。これまた大きな声で。

「世界で最も美しく、また世界で最もおそろしい薔薇のためなら、私は何でもしよう! さあ、お嬢さんマドモワゼル。私のエレーヌがきみをお望みなんだ。ベッドの近くまで手を引こう。そしてどうかその顔がよく見えるように、彼女の近くに行きたまえ!」

 ジェニは依然おそるおそる腕をとられながら歩いた。ベッドの前に来ても親切だったはずの女はジェニに目もくれなかった。そしてジェニはただ跪いたのだった。

「もう少し顔をあげて」エレーヌはほんのわずかの苛立ちが滲む声で言った。「俯いていては顔が見えないの。私はあなたの顔が見たいわ」

 ジェニは顔を上げた。そのときこの部屋には二つの決定的なことが明らかになった。まずはジェニが、不思議な魔力にとらわれてしまった隣の女とはまったく違い、少しも平静を失っていないことだ。そしてエレーヌが、それまで俯いていたことから気付かずにいたものの、ついにジェニの顔に無粋にも巻かれた布の目隠しを見つけたことだった。

「ああ!」エレーヌは反射的に手を伸ばしジェニの目隠しを剥がした。「なんてことでしょう……あなたは、目が見えないの?」

 エレーヌには当然そうわかった。仮令そこにいたのが他の者だったとしてもすぐにわかるだろう。というのもじっさい露わになったジェニの顔は突如として目隠しを剥がされ呆然とするまま、その両目がそれぞれでまったく異なる方法を向いていたからだ。右の目はぼんやりと正面を見ているようであったが、左の目は左の側に大きく逸れていて、焦点を結んでいるようにはみえなかった。彼女に何かが見えているとしたら少なくとも片目だけであるとみてとれた。

「エレーヌさん、私はXXXX村のジェニです」女画家は怖じながら答えた。「あなたのおっしゃるとおり……私は生まれつきもぐらトープのように盲です。両目とも見えません。不具者として両親や姉の手を借りてなんとか生きてきました。むかし母の話を聞いたことがあります。母は若いころ、まだ父とも結婚していなかったころに、村を訪れた放浪民族ジタンの予言者にある予言をされたということでした。曰く、母がいずれ産むだろう娘は、生まれつき目の見えないものだろうというのです。引き換えに世界で最も美しい絵を描くだろう、とも。母は信じませんでした。なぜなら姉が生まれたとき、姉はごくふつうの子供だったからです。それから二年経って、予言のこともほとんど忘れていた母のもとに生まれた二人目の子供が、私です。両親と姉に大きな負担をかけてきましたが、絵を描くようになって恩返しもできるようになりました。その両親もいなくなって、姉と二人で困っています。私はエレーヌさんに助けていただけたことをとても感謝していますが、さらに私たちをもとの生活に返すため取り計らってくださるように、あなたに懇願することを許してください」

 何度もつかえながらジェニは言い終えた。盲者の中に燻り続けてきた目の前の存在に対する怯懦は、いまもって最大まで膨大しつつあった。

「うふふ、もちろん」エレーヌは気味の悪いほどの優しい声を出した。「あなたの願いはしっかりと聞き届けられましたわ。私の夫メネラースも、伯として人民に果たす責任に対し全力を傾けることでしょう……ねえ? 大丈夫よ。ジェニ、あなたはここでが来るまでゆっくりと休めばいいわ。この屋敷やいまの待遇に満足している? そうでなければこのメネラースになんでも言いなさい。きっとあなたの力になりますよ」

もちろんだともビアン・シュール!」とこの領民の庇護者は肯んじた。

 それから、ジェニはゆっくりと大きな騎士の手にひかれて部屋に戻った。盲の妹を心配していたのであろう姉がすぐに駆け寄ってき、なかばひったくるようにメネラースから妹を取り戻した。

「大丈夫だったの、あなたたちが行ってすぐ、やはりあなたを一人で行かせるべきじゃなかったと……」

「なんともなかったから大丈夫だよ、おねえちゃん」

 心配性の姉は目元の涙をぬぐった。ベルは慎重ではあったが、妹のこととなるととりわけ臆病だったからだ。ひとしきり妹と話していると伯はいつの間にか部屋から消えていることに姉は気がついた。

「――あら」そして、もうひとつのことにも。「ジェニ」

「なあに、おねえちゃん」

「あなたと一緒に行った女の人は、戻ってこなかったの?」

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La Restauration de L’Esthétique くすり @9sr

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