兎丸の新歩 参

 丸太屋という材木座の店にいた頃を思い出す。

 火事の被災現場から丸太屋の娘を救い出し、居候になった。家出をした兎丸にとって幸いだった。

 初めの頃は、大事に扱われたが、青虫の捕食が見つかった頃から風向きが変わった。

 嘉平の目が届かないところで、突かれて、無視されて、食事も下男の残り物だ。

 屋根があれば良いかと思う。残念なのは、澪と遊ばせてもらえないことだ。澪の泣き声に近寄れば、きっと梅が梅干を噛み潰した顔で意地悪をする。

 その度に、生まれた飯島の屋敷を思い出し、母なる人の哀し気な顔がぼんやり浮かぶ。おれを置いて嫁に行ったのだと胸の辺りがせり下がる。空きっ腹に、重りが加わり目が回る。ここも出て行った方が、いいのかな? と考えると、更にお腹が空いて、お腹のことしか考えられなくなる。澪母子は、兎丸をかばう力がないのだ。澪が成長するのを待つべきか? それまで、空いてしまったお腹は、どうすれば良いのか?

 材木座海岸に出てみる。江ノ島が夕闇に沈む頃で、お日様が富士山の向こうに消えようとしていた。江ノ島も富士山も丸太屋へ来る前から見知っていたが、その名を教えてくれたのは、丸太屋の人々だ。ここへ来て、沢山の人に出会い、沢山の言葉が兎の耳に流れ込んだ。これで、お腹さえいっぱいなら、楽しいばかりの家なのに。

 賑やかだった丸太屋の店先も内に向かって動きを収め、表戸を閉めようとしていた。店に駆け込み、お腹が空いたと云えば、誰かが何かをくれるかもしれない。でも何だか、それをしてはいけないような?

 沖に停泊した船も影絵になる準備に入った。あの船まで泳いでいけば、お腹がいっぱい食べさせてもらえるかもしれない。でもそんなの無理、兎丸は泳げないのだ。


 そんなある日、嘉平に客があった。何となく覗いた店の奥だ。

「お初にお目にかかります。わらわは、安倍晴秀さまのご嫡男晴隆はるたかさまが乳母佐紀と申します。突然にお訪ねいたしましたこと、どうぞお許し下さいませ」

「どうぞ、お楽に。丸太屋嘉平でございます」

「お忙しいと存じますので、早速、お尋ね致します。こちらにおわします幼童どのは、我が主晴秀さまのお子だと云う噂でございますが、本当のことでございましょうか」

「さて、乳母どのがご存知ないことを商人風情の丸太屋が知るすべもなく、お答え出来かねます」

「ごもっともで、ございます。少し人を使いまして、窺わせて頂きましたが、かの幼童どのは、着古しを着た切りにて、脛も露わに、常に腹を空かし、木々に集う虫など食していると報せがございました」

「なんと? それは‥‥‥」

「お忙しゅうございましょう。裏にまで目が届かないは致し方ないこと。決して決して、文句を云いに来たわけではございません。晴隆さまのこの乳母に弟君も預からせ頂ければ幸いとまかり越しました」

「‥‥‥」

 穏やかではあるが、ずんと押してくる決意のほどが伺えて、嘉平は言葉を見つけられない。

「丸太屋さまの日頃のお働きも聞き及んでございます。晴秀さまが留守宅にて余り豊かな生活は出来かねますが、お残しになった書物などもございます。妾がお育て申しておれば、お爺さま安倍親職あべのちかもとさまの耳にもいずれは届くと存じます。先々をお見通しいただき、どうぞ、この乳母にお任せをお願い致します」

 佐紀は、慇懃に両手を付いた。


 兎丸は呼ばれた。

 直ぐに出て行ったので、話を聞いていたのが、ばれたかもしれない。

 嘉平は、少し目を放した隙に、兎丸の背がグンと伸び脛もニョキと出ているのに驚いた。

 頬がこけている。なんと女どもは、この幼童に飯を与えてないのか。

 澄んでいたその目も、幾らか曇り、女どもの虐めの影か射していた。

「お初にお目にかかります。妾は、安倍晴秀さまのご嫡男晴隆さまが乳母佐紀と申します。兄上さまの着残した衣を持参いたしました。どうぞ、お召しいただき、この乳母と稲村ケ崎にある父上さまのお屋敷へお越し下さいませ」

 兎丸は、目を見張り、嘉平の顔を覗き見る。

「行きたいか? 己で決めて良いのだぞ」

 乳母は、良く手入れされているが着古した地味な水干すいかんを広げてみせ、兎丸に笑顔を向けた。

「兄上さまの?」

 兎丸は、両手を差し出し古い水干に顔をうずめた。

 見も知らぬ兄の匂いがした。

 嘉平は、黙って頷いた。家業が忙しく、目を放した隙に幼童の目の色は変わってしまった。

 娘の澪を確り抱いて、裏口に飛び込んで来た時の覇気がない。

 このままでは、幼童の未来も潰しかねない。そんな罪なことは出来ない。

 目の前で、両手を揃える初老の女房から兎丸の将来を見据える強い意志が伝わってくる。

 兎丸は、女人の顔を真っ直ぐに見た。

(お腹いっぱいご飯くれる?)

 緊張した面持ちの顔が少しずつ赤味を帯び、小さく頷いた。笑みを隠したままだが、兎丸の知らなかった温かな目をしている。

(この人は味方だ。それに強い)


 兎丸は、乳母と稲村の坂道を上った。後ろには爺やの弥助が丸太屋からの土産を持って続く。

 乳母の後ろに付いていたが、「ほれ、あれがお屋敷ですぞ」の声に顔を上げれば木立の中に家が見える。

 にっと前歯を露わにした兎丸が、先頭を駆け出すと、佐紀と弥助は満面の笑みで頷き合った。

 稲村ケ崎の山中での生活の始まりだった。


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