第4話 三枚目の銀


 兄とはそのまま口を利くことなく、家族の日常は変哲のない月日を積み重ねていった。


 ぼくが国立大学への進学を決めた日、環境を変えたいと兄は一人暮らしを始めた。費用はもちろんすべて親が持った。


 ぼくは大学で文芸サークルに所属する傍ら、ステーキチェーン店でアルバイトを始めた。

 遊興費だけでなく、教科書代も交通費も四年間、自分のバイト代から捻出した。

 兄とは違う。夢を追い続けるだけの兄とぼくは違う。

 あれ以来、一度だって将棋は指さなかった。


 すでに三段まで昇格していた兄は、残す四段の壁を超えればプロ棋士というところまで迫っていた。順調かどうかはわからない。だけど、才能があることは間違いない。三段というだけでも全国で一握りの将棋指しだ。「つかさ将棋クラブ」のマスターや茂さんの目に狂いはなかった。

 茂さんは本当に強かった。もちろんマスターも。

 だから疎ましく、心底嫌っていても兄はいずれプロ棋士になるのだと思っていた。


 ぼくは二十一歳で初めて恋人ができた。将棋のルールさえ知らない一つ年下の後輩だ。

 四回生になって広告代理店への内定が早々に決まると、卒業旅行は友人たちと北海道にまで足を延ばした。


 そして、就職と同時に家を出た。


 家族はバラバラになったけど、ぼくのこれはしかるべき旅立ちだと思った。



 二十六歳までに四段のプロ棋士になれなかった者は奨励会を退会しなければならない。


 その日、その瞬間になっても、家族が期待し続けた朗報は聞こえてこなかった。



 週明けから残業が続いていた金曜日の深夜。

 母から電話を受けたぼくはタクシーに飛び乗って高速道路を急いだ。

 電話口ですすり泣く母を必死になだめる。

 気が動転していたのはぼくも同じで、どうしてか子ども時代に大切にしていた「銀」のキーホルダーをどこにやってしまったのか、そればかりが頭の中を巡っていた。

 小学二年生だったぼくは、あの「銀」に将棋の強い兄を重ねていたのだと思う。


 母はワンルームマンションの玄関で泣き崩れていた。

 廊下の向こうに一目ですべてを理解できてしまえる悲惨な光景が待ち受けていた。


 兄が一人暮らしの部屋で首を吊っていたのだ。


 奨励会の退会が決まり、プロ棋士への夢が閉ざされたあくる日の出来事。

 生活感に乏しい室内。ベージュ色に染まるカーペットの中央に置かれた薄い将棋盤。

 だらりと伸びた兄の腕の先には相手方の「銀」が力なく握られていた。

 かつて兄を最強ならしめた、非情な指令を受けた「三枚目の銀」。


 尖るようなその冷たさを凌駕するほどに夢を失った兄の手はひんやりとしていた。



 兄には将棋しかなかった。告別式を伝えるべき旧友も恋人もいない。


 茂さんは兄が二十歳になる年に亡くなっていた。

「隆司がプロ棋士になる瞬間を見届けられなかった」というのが臨終間際の言葉だったらしい。

 おそらく弟がいたことは憶えてもいなかっただろう。

「つかさ将棋クラブ」にとって兄は一筋の希望であり、皆が捨ててきた夢を託した子であり、ぼくと同じく真っすぐな憧れだったのだ。



 兄がこの世を去ったあと、奨励会からこれまでの棋譜を受け取った。

 今さらながら兄はたった十歳でプロ棋士への道を歩み始めたことに驚かされる。


 棋譜には白星の先行する立派な兄の姿があった。

 だけど、細かいところは将棋をやめてしまったぼくにはもうわからない。

 盤面を支配し、相手の王将を追い詰めるはずの「攻守の銀」はどことなくなりをひそめ、八十一マスの中で精彩を欠いているような気もした。


 ただ一点、そこにあるべき「色」や「音」がないことは、ぼくの知る兄そのものだった。


 棋譜を見返すたび、すべての手にあの日の兄の声が重なって聞こえる。



 強くなりたい――



 将棋を愛し、将棋を指す役目だけを与えられた人間。


 将棋クラブの大人たちと奨励会の幾名かを倒した兄はひんやりとした「三枚目の銀」のように、二十六年という人生をやり遂げた。




(了)

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三枚目の銀 真乃宮 @manomiya

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