a door to the world yet to be seen 5
「それで?」
「ひまわりによろしくって」
「そうじゃなくて、『じゃあまた、気をつけて』って帰したの?」
葵の口調は明らかに非難の意が込められていた。
「そういうわけじゃない」
「何も言えなかったわけだ」
そのセリフに俺が何も言えないでいると、「図星か」と呆れたように笑った。笑ってくれたのがまだ救いだった。
「でもさ、そもそも私たち付き合ってたわけでもなんでもないじゃん?」
「そりゃそうだけど」
「ただ、ちょっと眩しすぎただけ」
「うん?」
「思い出ってただでさえ美化されるじゃない? いい思い出はより鮮烈になるし、忘れたい思い出は曖昧になっていく」
そこまで言って、葵は通りかかったウェイターに「私もブルームーンちょうだい」と声をかけた。それまで葵はアルコールを飲んでいなかった。
「太陽の日差しはより眩しく。砂浜はより熱く」
そう呟いた俺の言葉に葵は二度頷いた。
運ばれてきたブルームーンを瓶から直接飲もうとする葵を制し、瓶を奪い取ると、グラスに注いでやった。
「俺が東京の大学に通い始めた時、おまえも東京に来てたんだって?」
「あぁ」
「三百万貯めたって?」
「まぁな。文字どおり朝から晩まで働いてた」
「どこにいたんだ?」
「親戚の家。この近くなんだ。東上線でちょっと行ったとこ」
同じ東京とは言っても、俺が住んでいた吉祥寺周辺からは電車で小一時間かかる距離だった。それでも、もちろん高知よりははるかに近かった。
葵はグラスを一気に半分ほど空けた。
「何の仕事をしてたんだ?」
「質問攻めだな」と笑う。「色々だよ。ここでも働いてた」
「ここ? ここって、この店?」
「そう。ウェイター時々パフォーマー。てかさ、よくわかったな。私が今日ここで演奏するって」
「俺は知らなかった。ゆかりが見つけてきた」
ふぅん、と葵は無表情に呟いた。
「ゆかりさん、ニコのことが好きなんだな」
「え? そりゃ、付き合ってるから」
「そうじゃなくて、本当に好きなんだなと思って」
俺は首をかしげたが、葵はなぜか嬉しそうに口元に笑みを浮かべていた。
「よし! 私が特別に一曲、何か演奏してやるよ。リクエストは?」
「え?」
そんなに急に言われても何も思いつかない、と言おうとした矢先にある曲が脳裏をよぎった。「いつだったか、自転車で外海に行った時に演奏した曲」
「ずいぶん昔の話だな」
葵は思い出す素振りも見せず、まるで常にその光景が頭にあったみたいに言った。
「却下」
「きゃ……なんでだよ?」
「さっき言ったばっかりだろ? そうやってまた思い出に浸ろうとする」
「別にそういうわけじゃ」
「ただでさえ眩しい思い出がまた眩しくなる。その曲は、ニコがゆかりさんとの約束を果たした時に好きなだけ吹いてやるよ」
「約束って?」
「あなたが思い出に囚われなくなった時、でしょ?」
そう言うと葵は立ち上がり、フロアを降りていった。「私がやりたいのをやる」と言い残して。
「じゃあ、初めから訊くなよ」
フロアの責任者と思しき男性に声をかけると、置いてあったサックスを拾い上げ、何の前触れもなく演奏を始めた。曲は「Blue Moon」だった。店名と同じ曲。今日のアルコールと同じ曲。そして、「めったにないこと」という意味の慣用句。おそらく、今夜のような夜は「めったに」ではなく、二度とやってこないのだろう。
サックスの音色を聞きながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「シカゴっていうのはどんな街なんだ?」
俺たちは店を出て、駅を目指していた。結局、ゆかりが帰ってからの一時間ちょっとの間にかなりのアルコールを飲んでいた。
「何て言うか、無機質な街よ。冬は寒くて風が強い。ピザがおいしい」
そんな街で葵は三年半暮らしていたという。東京で朝から晩まで働いて貯めた三百万円とサックスを片手に。俺はそっと横に並んだ葵を盗み見た。こうしてサックスケースを背負った葵と肩を並べて歩いたのは、もうずいぶん昔のことだった。
世界が熱く、切なく、輝いていたあの夏。あれから七年の年月が過ぎた。その間に、葵は世界を飛びまわるアーティストになっていた。俺は……俺は何になったのだろうか?
「じゃあ、私はその親戚の家に泊まるから」
池袋駅の前に着くと、葵はそう言った。別れの時だった。
「あぁ、またな」
そう言ってから、俺はふと思いついて言った。「そうだ、連絡先」
「ニコは、WhatsAppやってる?」
「わっつ……何だって?」
「ある意味、意味あってるけど」と葵はおかしそうに笑った。
結局、葵をツイッターでフォローし、DMを送ればいいということで落ち着いた。ツイッターだってやったことはなかったけれど、俺は言われるがまま葵のアカウントをフォローした。ユーザーネームは「AOI Sunflower」だった。なんだか、一ファンと変わらないな、そう思った。
「なぁ、ずっと気になってたことがあるんだけど」
「なに?」
「ニコって、『にこやか』の『ニコ』なんだろ?」
「なによ、いまさら」
当たり前じゃない、というように葵は言った。
「なんで、『にこやか』なんだ?」
「なんでって……あなた、
「そうなのか?」
「そうよ」
そのあとにわずかに生まれた空白の時間がもどかしかった。
「じゃあな」と俺が言うと、葵はにこりと笑い、おもむろに両手を広げた。
「え?」
そう言いながらも、俺は葵の意図をすでに理解していた。自分の気持ちが葵の気持ちと重なるのを感じた。二歩。歩み寄ると両手で葵を抱きしめた。葵の開かれた腕が俺を包み込む。雑踏の中で静かな時間が流れた。
「いまのうちらにはハグが必要な気がする」
「なんだよ、それ」
改札を越える前で短く手を振ったきり、葵は振り向かなかった。その背中が階段の先に消えるころに、俺は独り言のように「またな」と言った。
「もしもし」
「もしもし?」
見えない線でつながったスマホの向こう側から、沈黙が漏れ聞こえるようだった。
「終わったの?」
ゆかりが尋ねた。
「うん。いま別れた」
「そう」
「ゆかり?」
「うん」
「近いうちにゆっくり話がしたい」
「……いまでいいじゃない」
「え?」
「いまなら時間ある。明日休みだし」
いつになく思いつめたような物言いだった。
「わかった。じゃあ、いまから行く」
「いま、言ってよ」
「え? だから、いまから……」
「来てくれるのは嬉しいけど、言いたいことはいま言って」
「でも、然るべき場所とタイミングがあるかと……」
「いまをおいて他にはないわよ。それに、もうほとんど言ってるようなものだから」
そうか、と俺は思った。俺は、思っている以上にゆかりを待たせてしまっていたのだ。たしかに、いまをおいて他にはないのかもしれない。
「じゃあ、言うよ?」
深く息を吸い込むと、ビルの合間にぼんやりと光る夜空を見上げた。目に移る景色は昔のように鮮明ではないかもしれない。けれども、大切なものはいつだって目の前にあった。
街の明かりに照らされ、青白い月がひっそりと浮かんでいた。
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