やくそくの

 死ぬなら空の上がいい。

 地上でもでなく、地下でもなく、空がいいのだ。

 なぜ、と問えば、まだ幼い彼は、いっぱしに真面目くさった表情を浮かべて、言ったのだ。

 死ねば皆、土に還るという。

 山で死んでも、海で死んでも、いずれは土と同化する。

 だからどうせなら空がいい、と。

 だから自分が死んだときには、一度空へ連れて行ってほしい、と。

 小さいながらも、なかなか嫌味なものだと思った。

 上手く空を飛べない自分への。

 死して深幽境しんゆうきょう を支える花木の一部となる定めである自分への。

 地下に閉じこもり人のまねをしているだけの幽鬼たちへの。

 だからだった。

 苦手だから、できないから、と理由をつけて空を飛ぶ練習をしなくなった。

 迂闊に彼を死なせてたまるものか、と思った。


 ――たとえ死んだって、本物の空まで連れて行ってもらえないと、死んだことにはならないんだよ……。

 

 そして熱を出して倒れた彼は、次に目覚めたときには、頭の中が真っ新になっていた。

 

 

 約束をしたことすら、白紙に戻っているのだろう。

 ユハはナメクジの中でもがくのをやめ、ぼんやりと、何はなくとも見つめていた。

 自己肥大するナメクジに押しつぶされるように圧し掛かられ、息ができない。

 ナメクジの中というよりは、青紫に濁った泥沼の中にでもいるようだ。

 もがけばもがくほど、ねっとりと絡みついてくる。

 ナメクジといっても所詮は草が作り出した分泌物が一つにまとまっただけのものであるし、ナメクジの中に草の目がびっしりと生えている点を除けば怖いものでもなんでもない。

 無数の蛇の目に見つめられていることを考えただけで、悪寒がする。

 自分の体からも草の目が生え、その目が一斉にユハを見る。

 狙われた獲物は自分であると否応なく知らされる。

 ユハはめげそうになる気持ちを無理やり抑え込み、掴んだままの草を引っ張った。

 ローラムに繋がる草だ。

 すでにどのくらい肥大化しているのか、ナメクジの腹の中でありながらローラムとは散り散りになってしまった。

 草を頼りに、ときには引き寄せながら泳ぐように進む。どちらを見ても目だらけの状況で極力目を合わせないようにするのは困難だったが、邪魔な草の目をかき分け進むうちに、濁った青紫が次第に薄くなっていった。

 はっきりと二層に分かれている境目を潜り抜ける。

 頭を出した途端、自分を包むものが変わった。

 ぷは、と息をする。

 そこはナメクジの中にありながら、空気で満ちていた。液体がただ二層になっていたのではなく、空気が泡となり膜となり、周囲の液体を押し退けているのだった。風さえも吹いている。

 まるで渦巻きの真ん中にいるようだ。

「ローラム!」

 その中心にローラムを見つけ、ユハは転がるように空気の泡の中に落ちた。

 青紫に濁り粘度も高いが個体ではないナメクジの上に立つ。不思議な感覚だ。ぶにぶにとしていて、押せば反発してくるのに、じっとしているとゆっくりと足が沈み込んでいく。

 ユハはずぶずぶと沈んでは一歩踏み出し、ローラムへと近づいた。

 ローラムは相変わらず口から草の目を生やしていたが、落ちくぼんだ眼孔からも植物を生やしていた。

 先ほどはわからなかったが、目から生えた草の目は枯れていた。

 別の植物に巻きつかれ、養分を全て吸い取られてしまったように。

 ユハが手を伸ばすと、突風が吹いた。吹き飛ばされそうになるのを、不安定な足場に膝をついて堪える。

 ビュウ、と吹きすさぶ風は、ローラムから吹いている。

「ローラム、とうとう……」

 無意識ではあるが、押さえつけられていた力が、本格的に戻りつつあるのだ。

 ユハはなぜだか嬉しくなって、風に押し戻されながらも這うようにローラムに近付いた。

 ローラムから生えている草を引っ掴み、力の限りに引き抜く。

 ずるり。

 目からも、口からも、血液や体液と共に、蛇の目玉に似たものが転がり出た。アララギに無理やり食わされ、取り込まされた草の目だ。

 風が止み、空気の膜が次第に小さくなっていく。ナメクジに押されているのだ。

 ごほごほとローラムが激しく咳き込んだ。

 長く大量に繋がっている茎ごと背後に放り捨て、ユハはローラムの顔を覗き込む。

 何度か声をかけると、ローラムが目を開けた。ぼんやりと焦点のあっていない目で虚空を見るともなしに見つめている。

「ローラム」

 安堵に呟いたユハの声に、ローラムが顔を向けた。

「……鳥の夢を見た。いつか一緒に空で死のうなんて、馬鹿な話をしてた」

 どうしようもないや、とローラムが呟く。

 今すぐ死にたい気分でもないし、そんな勇気もないのに、とくつくつと笑う。笑っているのに、泣きだしそうだ。

 そんなローラムを見て、鼓動が跳ねる。

 ユハは堪らなく、鳥の姿になった。全身毛羽立ち、ぞくぞくする。

 彼の頭の中は真っ白になったが、真っ新になったわけではなかった。

 覚えていなくても、忘れているだけでも、別にどちらでもいいやと思う。

 ローラムが夢に見た鳥がたとえ自分ではないとしても、彼の中にあのときの約束はおぼろげながらも密かに根付いている。

 ユハはくちばしでそっとローラムの腹の辺りを押しやった。

 ローラムはぽかんとしていたが、やがてその身を起こし、ユハの首筋を撫でた。

「夢の中の鳥はもっとふてぶてしくて眩しかったけど、ユハも何でもありなの? ――うわっ」

 ユハはローラムを咥えると、翼を広げた。三彩羽と呼ばれる羽で覆われた体は長年なまけたツケが回り、羽ばたいても飛べそうにない。

 ぐ、と身を縮め、ユハは力の限り跳び上がった。

 急激な加速と行動に追いつけず、ぶちぶちと草の目が引き千切れる。

 汁を垂らしながら、二人は青紫のナメクジの中から飛び出した。

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