賭けの鍵

 少々別の形ではあるが、夢が一つ叶ってしまった。

 シャノンはおずおずと両手をエルトンの腰に回した。

 馬が跳ねるたびに転げ落ちそうになり、離れそうになる手をエルトンがきゅっと引き戻す。状況がこんなに悲惨でなければ、切羽詰まっていなければ、もっと時間をかけて現実もかえりみず堪能したいところではあるのだが。

「エルトン様、あれ!」

 ぽつぽつと建物の数が増え、郊外から町の中にやって来たとあるとはっきりと言えるようになったころ、遠くに火の手を見つけてシャノンは叫んだ。夜道を照らす街灯ともかがり火とも違い、炎の勢いが凄まじい。

 あの方向と距離は、町の中でも比較的貴族の屋敷が集まっている一角である。

 マコーレーの町屋敷があったのも、あの辺りではないだろうか。

 シャノンの不安を読み取るように、馬が速度を落とす。それを無理やり叱咤することもなく、エルトンは馬に任せ、やがて止まった。

「エルトン様、あちらへ行きましょう」

 火事のほうへ、と言ったシャノンの声は次第に消え入りそうに小さくなる。

 エルトンが馬を止めたのは、馬が止まったのは、ただ主人の逡巡や不安を感じ取ったからではなかった。

 大人一人分と離れていない距離に、涎を滴らせ大きな口を開けた魔物がいた。

 歌劇場を塞いでいた鬼ほどではないが、馬に乗っていてなお見上げるほどの大きさだ。広く分厚い胸板は服も布もなくむき出しで、強靭な筋肉がついているのが嫌でもわかる。

 一つの体に、頭が三つもついている。しかしそれぞれの頭に目は一つしかなく、一度に全部の目を使えないのか、一つの頭が目を開けると、別の頭は一斉に目を閉じる。

 ぎらりと涎に塗れる牙は、頭の数だけ口があることに比例して、多い。

 左の頭の目がぱちりと開き、エルトンとシャノンを見つめ、にたりと笑う。するとすぐに右の頭が隣の頭に頭突きをし、連鎖的に一番左の頭にまで刺激を与えると目を開けた。

 やはり、視力を交代で使っているのだろう。

 三つ頭の魔物は交互に二人を見定め、それぞれが満足げに下卑た笑みを浮かべる。

 三つ頭が品定めをしている間に、シャノン殿、エルトンがと小声で呼びかけてきた。

「なんでしょう?」

 同じく小声で応えれば、エルトンは目の前の三つ頭から注意を逸らさず、背後にいるシャノンの手を取った。

「火事の場所へ行ってください。大騒ぎになっているので誰かしらいるでしょう。……黒い頭の男は知ってますね」

「はい。ローラム様ですね」

 エルトンはこくりと頷いた。

 品定めを終えたらしい三つ頭の魔物が、誰が得物を仕留めるかで揉め始めた。

「サヴィアンか、ローラムを探してください。きっと火事場の近くにいます。騒ぎを放っておけない性質だから」

「エルトン様は?」

 その言い方だと、まるであとは任せたと言われているようだ。

 焦ってエルトンに尋ねれば、エルトンはシャノンに手綱を握らせ、するりと滑るように馬を降り、ようやくシャノンを見た。

「仮とはいえ、私はあなたの騎士ですよ。見くびらないでいただきたい」

 エルトンがシャノンを安心させるように優しい声を出す。

 その背後で、三つ頭の魔物が両手を組み、喉の奥で唸りながら高々と振りかぶる。

「エルトン様!」

「行って!」

 エルトンが馬をぴしゃりと叩く。その途端全速力で駆け出した馬から振り落とされまいと必死にしがみ付き、シャノンはエルトンを振り返った。

 もうもうと砂塵が立ち込める。舗装された道だというのに、砂を舞い上げるほど力強く振り下ろされた拳は強烈だ。直撃したら文字通り命とりになる。

 だが、砂塵の中で小さな影が動いた――気がした。

「まだ協力関係は解消してないんですからね、エルトン様」

 解消も、発展も、相手がいなければできないのだから。




 嫌なことは重なるもので、火事場はマコーレーの町屋敷だった。

 シャノンが辿り着いたときにはすでにごうごうと火が燃え盛り、庭で火柱を立てていた。

「どういうこと……屋敷は燃えていないの?」

 町のあちこちでボヤ騒ぎのようなものから比較的大きな火災までいくつか発生しているが、見たところ一番大きな火の手は、マコーレー家の庭からだった。屋敷は無傷とは言えないが、少なくとも火がついてはいない。

 その火柱を境に手前と奥とで、景色が一変していた。

 手前側は小さな老人たちがせっせと行きかい、火を絶やすまいと燃えるものを手当たり次第にそこら中から拾い集めてきてはくべている。

 火の向こう側は、光源として火があるのに真っ暗だ。

 黒い絵の具を何重にも重ねたように不透明で、漆喰を塗り固めたように分厚く、ざらつき、闇が実体としてそこにあるようだった。

 闇として蠢いているのは、魔物たちだ。所狭しと宙を飛び交い、隙間なく逃げ場を塞いで、火の向こう、庭にいる者を襲っている。

 じわじわと苦しめて、苦痛を蓄積させるためだけに行われている行為だ。すぐに命を奪おうとしているわけではない。

 嬲り、引っ掻き、叩き、耳元で叫び、ケタケタと笑い、不気味な悲鳴を上げて追い込んでいく魔物たちの間で、巨体が腕を振り回し、きらりと銀のきらめきが見えた。

「誰がいるの」

 あまりにも魔物の数が多すぎて、隙間からでさえ見通すことは困難だ。サヴィアンか、ローラムか、それとも全く別の誰かなのか。

 必死に目を凝らしていると、背後から声をかけられた。

「よお。手こずってるか」

 リリュシューだ。

 傍らに体格の良い男を従えている。あいさつ代わりとばかりに銃口をシャノンに突きつけてくる。

「何かご用でしょうか」

 す、と表情を消し、馬上からできるだけ冷静な声を絞り出す。

 リリュシューはシャノンに突きつけた銃を下ろすと、腰に装着していたホルスターに収めた。何もやましいことはないと主張するように、黒い手袋をした両手を上げる。

「そうカッカなさるなって。恋人でもないのにあんたを見かけた途端甘いセリフなんて吐くわけないだろ。必然的な声掛けじゃねぇか」

 必然とは。

 別にそんな関係になりたくもないが、と続くのだろう。シャノンとしてもリリュシューにそんなことを期待してはいない。

 リリュシューはズボンのポケットから鍵を一つ取り出すと、シャノンの目の前でぷらぷらと振って見せた。

「あんたにいいもんやろうか。バケモンを倒せる一品ってやつなんだが」

「気前がいいですね。タダで頂けるのでしたら頂きます」

「金はいらん。あんたが領主になったらいくつか頼みを聞いてもらえればそれでいいぜ。出世払いってやつだ」

「私を領主に推すということですか」

 てっきりリリュシューはサヴィアンについているのかと思っていた。

 リリュシューは肩を竦めてみせた。わざとらしい大袈裟な言動は、見ていて心を荒ませる。

「あんたを推してるわけじゃない。今のところサヴィアンのほうが相手にしやすいからそうしてただけで、あんたが悪者に歩み寄ってくれるんなら、それなりにこっちも応じるってだけの話だ」

 当然、サヴィアンにも同じような話を持ち掛けているのだろう。

 どちらが領主になっても、リリュシューはうま味を吸い取れる。たとえこの町が滅びたとしても、リリュシューのような者は別の町でも上手くやっていけるのだろう。

 だが、この町にしか居場所のない者もいる。

 手のひらの上で転がされているようではあるが、様子を窺い長考する愚だけは犯してはならないことはわかる。

 シャノンはリリュシューに手を差し出した。

「寄越しなさい。それが本当に魔物を倒せるのだと保証できるのであれば」

 リリュシューが傍らの男に合図をする。ジャグファと呼ばれた体格の良い男は、びしょ濡れの剣を手に進み出た。近くを歩いていた生き物に斬りつける。

 じゅ、と音を立てて、せっせと火にくべる物を運んでいたノジーの一人が倒れる。肉の焼ける匂いに混じり、ノジーから悲鳴が漏れた。斬りつけられた箇所が爛れるよりも先にぼろぼろと崩れ始め、あっという間に腐り落ちてしまった。

「ちょいと濃度を高くしすぎたか……まあ、こんなもんだろうな。傷口からぶっかけてやれば、ご覧の通りだ」

 手間を省くためにこいつは剣を先に濡らしちゃいるが、とジャグファを示すリリュシューは得意げだ。

 シャノンが必ず話に乗ると確信しているような態度は気に食わないが、シャノンはリリュシューの提案を呑むしかない。魔物に対して何も有効な手段を持ち合わせていないことが、酷く歯がゆかった。

「確かなようですね」

 シャノンに見せつけるためだけに斬りつけられてしまったノジーには申し訳ないが、提案を呑むと伝えれば、リリュシューはシャノンの手に鍵を握らせた。

「ある場所の鍵だ。そこにバケモンをどうにかできる薬がある」

「薬?」

 引っかかる。先ほど、同じような品を求めていたからだろうか。

 なぜそんな薬を持っているのかと問えば、リリュシューはただ「貰いものだ」とだけ答えた。

 正規のルートで入手したものでないことは明らかだ。

 そもそも正規ルートで手に入れられる品なら規模は小さくとも市場に出回っているはずであり、人々の中にもそれを使う者がいてもいいはずである。けれど現実にはそんな絶大な効果を発揮する品を使用している者に出くわしていない。

 一人だけ例外があるが、以前見たのは今リリュシューの隣にいる男だ。あの男は予めリリュシューから薬を分けてもらっていたのだろう。

 リリュシューはサヴィアンとつながりを持っている。エルトンの持っていた薬を持ち出し、リリュシューが利用しているのだとすれば。

 あるいはエルトンから盗み出されサヴィアンが持っていた火蜜を、さらにリリュシューが勝手に持ち出したのか。

「それは、火蜜かみつと言う名前の薬なのでは?」

「さあ? 効果がありゃ、名前なんてどうでもいいだろ」

「よくありません。とある家が所持していた魔物に効果のある火蜜という名の薬が、先日何者かに盗まれました。それを今はあなたが所持しているのならば、あなたが窃盗の容疑者となります」

「こんな状況で窃盗罪だなんだと騒がれてもな。町の半分の人間は、遅かれ早かれ手を出すことだろ。そいつら全員ぶちこめる牢獄でも用意してから言えよ」

「それはそれ。こんな状況で、あなただからです。火蜜があればこの町は救われます。事態も収束するでしょう。それをあなたが余計なことをしたばっかりにさらに酷い有様になってしまいます」

「だから?」

「……だから?」

 平然と、それがどうしたとリリュシューが言う。完全に他人事だ。

 血も涙もないやつだ、と思う。

「だから、火蜜をすぐに渡しなさいと」

「俺はあんたたちのどっちが領主でもいいと思ってる。決めかねてるんだ。でもどうせならいい領主様にこの町を治めて貰いたいと思うのは臣民にとって普通のことじゃねぇのか。だから決められるように、あんたたちが動いてくれよ」

 要は、賭けをするから競走馬になれということか。

 シャノンはリリュシューを睨み付けた。サヴィアンとの領主争いを見せてほしいのならばいくらでも演じてやろう。だが、今このときではない。

「そうそう、その薬な、そのまま使ったんじゃあ強すぎるってんで、水なんかに溶かして使えば雑魚の魔物なんかにゃいいらしいぜ。もうわかっちゃいるだろうが、サヴィアンにも同じことを伝えてある。早い者勝ちだな」

 じゃ、健闘を祈ってるぜ、とリリュシューは手を振る。

「あなたは自分でその薬を使わないの?」

 自分で使えば、一躍英雄にだってなれるだろう。使い方次第では、ひょっとすると領主候補の二人を差し置いて自分がその位に、あるいは同等の地位を得ることだって可能だ。

 ジャグファを連れて引き上げようとしていたリリュシューは、ちらりと振り向いてシャノンを見た。

「俺だったら、薄めるなんてことはしないで親玉の口ん中に捻じ込むね。ま、どいつが親玉なのかなんて知らねぇし、バケモンの親玉なんだからそれくらいじゃあ死なないとは思うが」

「答えになっていません」

「うるせえな。俺は今じゃ悪名高きサルトリのボスだぜ? まっとうに答えてもらえると思ってんなら、そりゃ頭のねじが緩み切ってる証拠だな」

 とっとと行け、と追い立てるようにリリュシューが手を振って見せる。

「そういや、東のほうであんたによく似たやつを見た気がするぜ」

「場所くらい教えたらどうなんですか!」

「マコーレーのやつらがバケモンを飼いならせる薬を持っていたってことが公になったら、世間様はどんな反応をするんだろうな? 俄然興味があるんだが。一口乗らないか?」

 マコーレーは自分たちだけ助かる可能性も持ち、すぐには使わず、ぎりぎりになってからやっと持ち出してきたと言われるだろう。自分が英雄になるために事態が大きくなってから使ったのだと言われるかもしれない。

 その薬で魔物を調教し、飼いならし、この事態を引き起こしたのだと、言いがかりをつけられるかもしれない。

 自分のものだったから返せと言うよりも、リリュシューのやりかたに乗ったほうが、マコーレーの名誉は守られる。

 こんなときにそんな勘定をしてしまう自分を、シャノンはつくづく人でなしだと思った。

「……あなたなんて大嫌いです!」

「そりゃ光栄だ」

 声を立てて笑うリリュシューの視線を感じながら、シャノンは何とか馬を方向転換させ、リリュシューの横を再び通り過ぎて走り出した。

 闇雲に向かうのなら、西ではなく東だ。



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