だれよりさきに

 すっかり落ちた日の影の中で、蠢くものがある。

 オレンジの明かりを灯したランタンを手に、町民たちが町の中を駆け回っている。悲鳴はあちこちから絶え間なく聞こえるが、時折、一際甲高い悲鳴が妙なところでぶつりと切れる。

 町の上空には空を飛べる魔物たちが漂い、不気味な雨雲と化していた。ふらりと雨雲から離れた幽鬼が地上へ降り、人を襲っては満足そうにケタケタと笑いながら、あるいは獲物をぶら下げて上空へと戻っていく。

 夜間で見えないというのに、そこだけはどす黒い雨が降っているようだった。

 遠くで噴煙が上がる。音を立てて崩れた建物は隣の建物の一部を巻き込み、瓦礫となって地上に落ちていく。

 我先にと逃げ出し、逃げた先では魔物が口を開け、爪を研いで待っている絶望的な状況に逃げ惑う人々は恐慌状態だ。

 彼ら全てを、助けてやることはできない。

 ユハは階段を駆け足で上り、歌劇場のバルコニーに飛び出した。ここへ来るまでに窓から見えていたのと変わらぬ、全く同じ地獄のような景色が広がっている。

「ローラム! アララギは? どこだ!」

 欄干に身を乗り出すように忙しなく町中に視線を走らせる。追いついたカシーが今にも落ちそうなユハの腕をぐいと引いた。

「落ち着け、勇隼いさはや !」

「ああ、わかってる。でもローラムが! アララギだって俺が止めないと! あの目を取ってやらなきゃ」

「落ち着け! 一人じゃ無理だ」

「じゃあほかに誰がローラムを助けるって言うんだ! ローラムは今じゃ人間からも悪だと思われてる。悪魔の手先、魔物の大将、こんなことになった全ての元凶! 最悪な存在となってるローラムを人間たちの前に放り出したらどうなるかわかるだろ!」

「勇隼!」

 カシーが強く名を呼ぶ。両腕をがしりと捕まれ、大丈夫だ、と言い聞かせるように囁く。

「大丈夫だ。エルトン様たちがもう町にいる。俺だって。町の中にいる幽鬼の中で、すぐに話を理解してくれそうなやつだって何人かいるだろう」

「何人だよ? そいつらを探して、説得して、味方にしている時間があると、本気で思ってるのか? それも説得に応じてくれるやつらばかりじゃない。落ち着くんじゃなくて焦らないとなんないのはお前だろ、カシー。アララギはずっとローラムを欲しがってた。ローラムの血を! ローラムには後継者として王が待っているとか言ったけど、本当はそうじゃない。生きていようが死んでいようが、あいつらには血さえあればいいんだ。だから俺が先に来て、ローラムを匿ってしまえばって思って! 全然なびいてくれなかったけど! どういう風にすくすく育てたんだよ!」

「あー……、まあ、その点は弁明のしようもないが。じゃあ、お前はやっぱり一人で動いてたんだな?」

「そうだよ、悪かったな。なあ……今まで深幽境が正統じゃない王によって存続できたのはなんでだと思う? 人間みたいに政治的なこととか統治能力とかだけが深王に必要なわけじゃないのは知ってるだろ」

「ああ。年に一度、深王しんおう朱璽鬼しゅじき深幽境しんゆうきょう の柱を育て、邪気払いをするからだ」

 幽鬼にとって住みよい環境を作り出すのが深王と朱璽鬼の主な役割だ。人のように計画的に治水工事や道路の舗装工事をするのとはわけが違う。

 人が呼吸をするために空気が必要なように、幽鬼たちも生きるのに必要な成分がある。自然界から無くなりつつあるそれを強制的に作り出せるのが王と朱璽鬼であり、それがあるからこそ幽鬼たちは深幽境という地下の一所に大人しく収まっているのだった。

「その儀式に必要なのは朱璽鬼と王の血なんだ。称号なんて関係ない。アララギは正統な王じゃないのに、もう何年も王としての務めを果たしてきた。それは、王の血を使っていたからだ」

 深幽境を存続させるのに必要な儀式を通して、深王はその真価を発揮し、力を魅せつける。幽鬼たちが求めるのは儀式についての詳細ではなく、その成果だ。結果さえきちんと出ていれば詳細など知らなくとも不足はないのだから、行うほうとしても請われもしないのにわざわざ教えてやることはない。

「王の血? アララギには王の血は流れていないんじゃ? だから時期を見てローラムを連れ戻そうって。お前が来たのもてっきりそのつもりなのかと」

 ユハは頷いた。事態は当初の目的や時期と大きく変わりずれてしまったが、ローラムにこちらでの生活を捨てさせるため、領主との関係を打ち切りたいと言い出したアララギの策に乗っただけだった。

 そのアララギは王の側室の子であるが、先代の王との血の繋がりはない。極秘事項であるとされ公にはなっていないため、この事実を知っている者はごく一握りだ。ユハはカシーにさえ黙っていたことを口にした。

「アララギは生まれてすぐに深王の血を飲まされている。だから偽物であっても、ある程度の能力は持ってるんだ。でも本物ではないから領主の証の指輪は作れなかったし、本当なら儀式も出来ない。アララギは、先代の王の血を備蓄し、それを使っていたんだ」

 備蓄している、という言い方は少々誤解があるかもしれない。アララギは先代の王に取って代わった際に、先王を生け捕りにした。

 王の代替わりを宣言し、先王の血を使用して行った儀式で、幽鬼たちに自分こそがと知らしめた。朱璽鬼であるユハが隣にいたことも一役買っていただろう。

 だが、細々と使用していた深王の血は、枯渇してしまった。

 いつか訪れると予期されていたことではあるが、やってきてしまえばあっという間だった。

 生け捕りにされた先王は、十分な待遇で秘密裏に保管されていた。よく言えば隠居生活であるが、そこに自由はない。必要なときのみ血を抜かれ、定期的に食事は与えられるが逃げ出すことは叶わず、歩き回ったり話をしたりもできない。孤独な軟禁生活によって先王は緩やかに緩やかに衰え、先日とうとう、亡くなった。

 生ける貯蔵庫から抜き取った血の在庫は、もうほとんどない。

 酷いことをしていた自覚はある。ユハは積極的に関与していたわけではないが、咎めもしなかった。

 先代の王は、ユハの王ではなかったから。

 だからなのか、訃報を聞いても涙はなかった。どこか遠いところに行ってしまっただけのようで、ただ会わなくなっただけのようで、胸が痛み息ができなくなるような喪失感はない。

 そもそも、先代の王と深い所縁などありはしない。ローラムの父であるという事実でのみ、ユハの中で存在しているのだ。ユハは数えるほどしか会ったこともなく、どんな形であれ、ローラムの安全が守られ、ローラムのためになるのなら、と思っていた。

 それがローラムが厭うことであったとしても。

 ユハの抱えた秘密を聞いて、カシーは特に批難もせず、だが容認もしなかった。

 無言で町を見下ろすカシーが、俺も、と呟いた。

「俺だって似たようなものだ。そうやって続いていた深幽境でしか作れない薬を甘受していた罪はある。気にするなとは言わないし、言えないが、今になって急にローラムに手を出してきたわけに納得はした。でもだからと言って、どうぞと渡すわけにはいかないよな」

「ああ。先代の二の舞になんてさせない」

 それに、殺させもしない。

 ローラムを連れ去ったのがアララギであることが不幸中の幸いに思えるくらいだ。もしもあのガラに捕まっていたら、絶望的であることは間違いない。

 ガラはアララギと共に深幽境を支えるふりをして、その実、破滅を目論んでいたのだ。深幽境の希望であるローラムを生かしておくはずがない。

 ガラの行方はようとして知れないが、あの傷だ。あの傷ではそう素早く動けないし、失血死の可能性も考えられる。幽鬼や魔物よりも弱い人間の体ではなおさらだ。深幽境の破滅が目的であるのなら、あの男の目的はほぼ遂げられたと言えるだろう。アララギを突き放し絶望させ、ローラムまでも窮地に追いやった。

 早く見つけなくては。

 ガラよりも、誰よりも、先に。

 遠くで再び噴煙が舞い上がった。ぼう、と建物の下の辺りが明るく浮き上がって見える。

 火の手が上がったのだ。

「あっちはエルトン様の町屋敷があるほうだな」

 カシーが歌劇場からの方向を確かめながら呟く。それがどうしたと思ったが、カシーはバルコニーの欄干の上を叩き、「あれだ!」と叫んだ。

 欄干を越え、軽々と飛び降りるカシーが早く来いと身振りで伝える。ユハも欄干を乗り越えると、落ちている間に息を止めた。ふわりと体が軽くなり、羽のように滑らかに着地する。器用貧乏な朱璽鬼の特技の一つだ。

「何がどうした?」

 駆け出したカシーは、ローラムの居場所に確信があるらしい。走りながらその背に問いかければ、カシーは振り返りもせずに答えた。

「エルトン様の別邸! 中に入ってないお前は知らないかもしれないが、甘い香りがした。あれは深幽境の匂いだ!」

「はあ? なんで深幽境の匂いが誰かの屋敷からするんだよ」

「お前は最初になんであそこに現れたんだ?」

「お前らをつけていたからな! 果樹園の屋敷を出た辺りから!」

 実は彼らが仲良くお茶と菓子を頬張っていたところも見ていたのだが、それを言うととても羨ましがられていると思われそうなので、伏せておく。

「……ああ、そういうやつだったな。とにかく、町屋敷からは匂いがしたんだよ。それに、落書きのようだったが下向きの花もあった」

「下向きの花?」

「時間がなくて簡略化したものだと考えれば、あの花はミカガリだ!」

 ミカガリは深幽境を支える柱のような役割をしている花木だ。

 深幽境でしか育たないミカガリは、その一部を持っていることで迷わず深幽境へと帰れると言われている。朱璽鬼は帰巣本能で戻れるのでユハには必要ないものであるが、ときどきミカガリのかけらを持ってどこかへふらりと出て行く幽鬼がいると話に聞く。

「それって、その屋敷から深幽境に通じる道を作ろうとしていたってことか!」

「恐らくな。俺たちがエルトン様を探しに訪れたときに捕まえて深幽境に連れて行こうとしたんだろう。深幽境に行けば人間から攻撃されることもないし、アララギの味方になる幽鬼たちもたくさんいる。アララギにとって今からでも深幽境に行くのは遅くない。こちらとしてはさらに不利になる」

 深幽境が幽鬼にとって住みよい場所となっているのは、そこが本来のままでいられるからだ。人の間に隠れることもせず、力を抑え込むこともない。人間の側へと勢力が傾いている世界で肩身の狭い思いをすることもなく、幽鬼の好む影や邪も適度にある。アララギが今の姿のままで深幽境へと行ってしまえば、アララギに生えている草の目は、今よりももっと繁殖し、肥大し、増殖し、寄生し、ぎょろりとし、阿鼻叫喚の地獄と化してしまうだろう。

 草だけならば火でも放って焼いてしまえばそれまでだろうが、それではアララギまで丸焼きになってしまう。それに腕に捕らわれたままであるローラムまでも危険だ。

 ユハは先を曲がったカシーまで全力疾走し、その服の背を掴んだ。息を止め、朱璽鬼の特技の一つを使って自分よりも重たいカシーを空へと投げ飛ばす。間髪入れず自分も飛び跳ね人の姿を捨て去った。

「やるならやるって言えよ!」

 ――悪かったよ! 走るのは得意じゃないんだ――と言う代わりに、ユハはせめて申し訳なさそうに聞こえるように、一声、か細く鳴いてみせた。

 落ちてきたカシーを背で受け止める。両腕を力強く上下させる感覚で動かせば、両翼が風を切る。

 朱璽鬼のもう一つの顔である鳥の姿。

 その鳥に変化したユハは、激しく火の手が上がっている場所を目指した。

 

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