十六夜に会いましょう/1

 いつまでもやってこない衝撃と濁流の音。貴増参はそっと目を開ける。すると、青いほのかな灯りに包まれた、広い空間にまっすぐ立っていた。


「…………」


 足元はしっかりとしていて、白い四角いものが散らばり、あんなに強く吹いていた風もない。


 振り返ると、淡いオレンジ色の光がひとつ薄闇にポツリと灯りを落としていた。


「…………」


 白い幕――レースのカーテンが左手にさざ波のように広がり、本特有の湿った紙の匂いが体の内へかすかな呼吸のように入り込んでくる。


 床の上を反転して、乱雑な書斎机を真正面にすると、鍵のかかる引き出しは開け放ったままだった。


「……戻ってきた……みたいです」


 確信はなかったが、人生の大半を過ごす教授室に魔法でもかけられたように再び立っていた。


 散らかった紙の上に無造作に置いてある、腕時計を引き寄せ、時刻を瞳に映す。


 ――二時八分。


「丑三つ時……」


 過ぎたはずの時間は、ループしたみたいにそのままだった。土砂降りの茂みの中に立っていたのに、髪も服も濡れている場所はどこにもなく。嘘みたいに何も痕跡が残っていなかった。


「夢……?」


 あのひどく痛んだ頭の傷もない。狐にでも化かされたようだったが、右手から青緑の光を発しているものだけが、唯一現実だったと教えていた。


 必死に握りしめていたようで、指先の痺れと震えの中で、姿を現したものの名を貴増参は口にした。


「翡翠……」


 逆巻く波を横から見たような曲線を描く勾玉――


 あの別世界へ行く前は石だけだった。だが今手の中にあるものは、白の巫女が肌身離さず首につけていた、皮の紐がついていた。


 深夜にも関わらず、帰ることなど忘れて、貴増参はあごに手を当て、優しさの満ちあふれた茶色の瞳を影らした。


「人々はどうなったのでしょう?」


 他国の陰謀である可能性は非常に高かった。そうなると、白の巫女が守ろうとした弱き者たちは、無事とは限らない。


 多くを語れず、防ぐこともできず、傍観者として、過ごした数時間だった。だが、歴史はそこに大きく息づいていた。


「過去のどちらの時点にも、手を加えることは僕に許されていません」


 手を貸して、一人でも多くの人が幸せになるように物事が運べばいい。それは願いであって、決して確実な事実ではない。


「その先のいくつもの未来まで変えてしまう可能性があります。天文学的数字に登る人々の行末までも変えてしまう」


 人に未来は見えない。誤って、悪政を敷く指導者が代替わりすることが続き、数世紀も人々が悪戯に苦しむ未来へとつながらないとは言えない。


 まだ光り続けている勾玉を握りしめて、深夜の教授室をかかとをかつかつと鳴らしながら、修復作業をしていた土器があるテーブルへとやってきた。


「今、研究室にある出土品も、この大学という制度さえもなくなってしまうかもしれない……」


 この部屋に大量に置かれた本。表現の自由も許されず、人々が知恵をつけることも制限されてしまうかもしれない。今着ている服さえも提供されないかもしれない。


 同じ世界の過去でなかったとしても、あの時間の延長上が存在していることを考えるからこそ、貴増参はため息をもらすしかできなかった。


「だから、僕は君に手を貸せませんでした――」


 目の前で人が死ぬ。尊い心を持った人がいなくなる。やるせない気持ちでいっぱいになり、貴増参はテーブルの上に両手をついて、固く目をつむった。


「できるのなら助けたかった……」


 一人の人間としてはそう思っていた。だが、人の勝手な判断で、変えていい未来ではなかった。


 あの牢屋から出る時につないだ、白の巫女の手の温もりが今も強く残っている。


 だが、もうどこにもない。どこにもいない。他の誰かでなく、彼女でなくては意味がない。


 それなのに、あの濁流にお互い投げ出され、引き離され、二度とめぐり合うことができないように、探すこともできない。


 素直で柔軟性があるかと思いきや、頑として引かない強情な性格。それは誰かを守るためのものであって、決して自分のためではない。キラキラと輝く心を持った少女。


「っ……」


 貴増参は少し苦しそうに唇を噛みしめ、白い布地をぎゅっと握りしめると、歪みができて土器のカケラがカラカラとむなしく音を立てた。

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