無謬の獣と真理の肉(後)


 奉納の朝に出た食事は、菩提樹の茶が一杯。参加者はこれを飲んで心を鎮め、厳粛な気持ちで儀式に参加せよと。僕は儀式の後で、昼食を食べる自信がない。


 ガラテヤなら夜も開けぬ早朝に、マルソイン家では三人の贄が死ぬ。

 当主カズスムクが用意したムーカル役・アジガロ。

 イェキオリシ伯爵家が用意したコーオテー役・ミュトワ〔Mhutvaひなた

 ハーシュサクが用意したサガーツト役・ヘレイム〔Cereimいわお〕。


 月の女神であるコーオテー役はもちろん女性で、三人とも二十代の若者である。

 贄たちは控えの間に待機し、奉納の担い手であるカズスムク・ハーシュサク・クトワンザスに先んじて、僕は親族・招待客三十名弱と共に中庭に案内された。


「これよりお一人ずつ十字デーキをお渡しします。印を受けた方からご入場下さい」


 儀式のために呼ばれた司祭と助手たちは、参加者の額に円の中の十字――簡略化された輪廻チャーグラ十字デーキ――を赤い塗料で描いた。

 僕が一番最後に印を授かって入場すると、厨房は隅々まで磨き清められ、壁はつづれ織りで飾られている。祭礼週間の成果だ。


 厨房の一角には、招かれた楽団が陣取っていた。以前、僕が見学の時に入った正面入口から祭壇まで緋色の絨毯が敷かれ、皆はその両側に集まっている。

 僕が手近な所に並ぶと、使用人から「贄が入場する時にお撒きください」と花籠を渡された。中は茎を切り取った季節の花と、花びらでいっぱいだ。

 司祭が赤いハンドベルを掲げ、楽団の演奏が始まった。木と鉄と人骨と人皮の楽器が厳かに合唱し、古祭章アルマキアスの旋律が流れ出す。


「皆さま、おそろいになりましたね。それでは、担い手の入場です」


 ベルの合図で扉が開き、現れたカズスムクは、まさに神の似姿だった。誰かが陶然とため息をつく――その声はもしかしたら、僕だったのかもしれない。


 毛皮のマントを羽織り、黄金の飾り角ハロートは特別製の三本角。左右からは鹿のような枝角が、額からは槍の穂先のように真っ直ぐな角が伸びている。

 中の衣装は筒襟の緩やかなワンピースで、フエミャとは構造が違った。左半身は黒、右半身は白に分かれ、身頃を前で合わせて着ている。

 胸元には、あばら骨のように銀リボンが幾重にも結ばれていた。また房飾りや珠飾りが全身じゃらじゃらと鈴なりで、星の光を人の形に収めたように輝いている。


 彼が絨毯を歩いていく間、僕は巨人が傍を通るような心地だった。地響きかと思うほど心臓が高鳴って、場に満ち満ちていく圧倒的な存在感に息もできない。

 そこにいるのは、まだ十七歳の少年だ。だが、身につけた衣装と装飾が持つ意味、長く積み重なった歴史、彼の父が、祖父が、曽祖父が、連綿と引き継ぎ続けた伝統、それを踏まえて引き受けた彼の内心。そうしたものに思いを馳せるだけで僕は気が遠くなり、山のような巨人を幻視せざるを得ない。


 カズスムクの後には、同じ衣装から装飾を減らした格好で、ハーシュサクとクトワンザスがそれぞれに続いた。コーオテー役・ミュトワの奉納を担当するクトワンザスの飾り角は銀で作られている。僕は厳粛な沈黙でそれを眺めた。


 その背後に儀式短剣・カパラ〔Kapalaさかずき〕を捧げ持って続くのは、聖餐院せいさんいんから派遣されてきた三人の聖厨職人イェルテミ〔Heltemg〕だ。青と紫の法衣を着ている。

 聖餐院と訳したが、ザドゥヤ語ではErinmíraxĝramエリンミラクシグラムと言い、意味としては「聖なる食物を煮る鍋、そのあるべき所」で、神殿の実務機関だ。

 ザデュイラルの優れた料理人はこの聖餐院に属して、聖厨職人の地位を与えられる。その中から更に腕利きが宮廷料理人に選抜され、最上の技量と功績を持つ者が、栄えある宮廷料理長ユアレントゥルとなる仕組みだ。


 最後の聖厨職人が祭場に着くと、司祭が再びハンドベルを鳴らした。

 扉が開いて現れた三人の贄はクロークをまとい、頭まですっぽりフードで隠している。碧血城のタミーラクと同じ衣装だ、あれは。そのことに僕はぞっとした。

 扉の前で司祭らは贄のクロークを脱がせて、控えていた使用人に渡す。


 アジガロは、赤と金で全身を豪奢に飾り立てられていた。髪には糸でつないだ小粒の宝石と真珠が編みこまれ、顔は目元、額、頬と様々な顔料に彩られている。飾り角の代わりにつける額環サークレットは、ザデュイラルではこういう時にしか用いられない。

 繻子しゅす織りの赤い衣装は長袖で、背も肩も覆いながら、胸と腹は開けられていた。腰には宝石をあしらった金の鎖を巻き、ズボンと木靴をはいている。

 その胸、心臓の真上には、意匠化された太陽の絵があった。


 他二人の贄も、美しく着飾られている。コーオテーは乳房がきちんと隠されており、白と銀を基調としていた。サガーツトは白黒金銀。

 彼らが歩き出すと、赤い木靴につけられた鈴と、足首にはめられた金銀の環がしゃらしゃらと鳴る。僕らは花籠の中身を振りまいて、その姿を見送った。

 一ヶ月前、アジガロは結婚式で同じように花吹雪の中を歩いていたものだ。それが今は、死にゆくために足を進めている。


 アジガロは祭場の少し手前で足を止めた。他の二人は祭壇向こうの壁まで進み、僕らは場を半円状に囲う椅子に順次着席する。

 全員がそれぞれの位置に着くと、楽団の演奏が途切れて静寂が降りた。


「ムーカル、前へ出られよ」


 カズスムクが冷たく厳かな声で宣言する。僕は本当に、血に飢えた神が彼に乗り移ったような気がした。アジガロはカズスムクの正面に進み出ると、片膝を立てひざまずく。その動きには一瞬のよどみもない。


 カズスムクは司祭から細い筆と、赤い塗料――贄の赤スタンザ色の入った小皿を受け取った。どちらも精緻な細工が施され、神話に登場する赤き衣の乙女スタンジリヤルが描かれている。


「我らがユワが、なんじの【肉】を受け取られる」


 言葉をかけられると、アジガロは首をかしげて左の角を差し出した。カズスムクは治療にあたる医者のように、しごく冷静に塗料を塗りつけていく。

 これは聖別の儀だ。


 神話にいわく――槍の達人イガルフツ〔Igålchts果てのもの〕は、ある時右の角が赤く変化した。そんな彼を見て、求婚してきたのが赤き衣の乙女である。彼女は太陽から遣わされた聖霊であったが、イガルフツは何も知らず夫婦となった。

 はたして一年後、イガルフツは月追いの大狼たいろう・バーティナムシル〔Bâthinamsr〕と相討ちになって死亡。遺体の角は二つとも赤く変じており、乙女は嘆きながら、彼の心臓を奪って太陽へ帰った。

 このことから、神は特に好んだ贄に、角を赤く染めて印をつけるとされた。かの〝碧血のカナイア〟にも、神はその忠義に対する称揚を賜ったのだと。

 ここから転じて、贄に選ばれた者は右の角を赤く塗られるのだ。


「立ち上がられよ」


 筆と小皿を司祭に返し、カズスムクはアジガロに声をかける。角を塗り終えられた彼は、ゆっくりと身を起こした。


「なんじが生きてきた道を示すように」


 司祭と助手が、それぞれ深めの小皿を持って前へ進み出る。カズスムクは腰から自分のアウク短剣を抜くと、アジガロが差し出した左手首を真横に切り裂いた。

 一瞬何が起きたかと思うくらい、速やかで躊躇のない動きだ。僕が見ている前で、司祭は流れ落ちる血を皿に取った。


「なんじが辿りゆく道を示すように」


 今度は右の手首だ。同じように切り裂かれ、アジガロはしばらく両手を突き出したまま血を流し、司祭らの皿を満たした。

 一つ目の小皿、左手の血を満たした小皿がカズスムクに渡される。二つ目の小皿、右手の血を満たした方はアジガロに。

 一口にも満たないそれを、二人は同時に飲んだ。

 まるで死に化粧のように、血の色が唇を彩る。


「なんじを責める痛みはありや?」

「一つの憂いも、一つの涙も、もはや流した血の中に」


 痛み消しのニフロムは、確かに効能を発揮しているようだ。


「その安寧のうちに、ユワと祖先のもとへ」


 カズスムクは体を横にずらし、片手で大ウプトアの祭壇を示す。まるで貴婦人をエスコートするように優美なしぐさは、贄に対する精いっぱいの敬意なのだ。

 アジガロは進み出でて、輪廻十字型のそれに身を預ける。十字架の交差部分と環の間に手を入れると、助手がその手首に赤い布を巻きつけた。

 彼がこちら側を向いたことで、僕はやっとアジガロの顔をよく見られる。それは微笑とさえ言っていい、穏やかな表情だった。


 これがニフロムの効果なのか? それとも彼は完全に覚悟が決まっていて、何の憂いも恐れもなく、ただ殺されることを受け容れるだけなのか?

 もし、そこに少しでも恐怖や悲哀の色が覗いていれば、僕の胸ははり裂けそうになっていただろう。実際は真逆だというのに、僕はかえって内臓がきりきりと細く絞られる心地がした。カズスムクの言葉が耳によみがえる。


――誰も言わないのです。

――皆そうでした。二人きりの時でさえ、決して死にたくないとは言ってくれない。


 不意に僕は気づいた。言わないのは自分も、それを聞く相手も、無力だからだ。

 今日ここで死ぬ三人の贄も、これまでマルソイン家に捧げられてきた贄も、三年後のタミーラクも、その運命については僕もカズスムクも等しく、〝何もできない〟。


 贄の一人に同情して逃したとして、その人はいったいどこで生きていけるというのか。魔族が人族の元で暮らすことは現実的ではないし、魔族の国家はいずこでも、逃亡贄には厳しい。生きようとあがいた贄は、およそ悲惨な目に遭うものだ。

 贄に選ばれれば確実に死ぬ。その大秩序が守られなければ、【肉】の供給システムが破綻し、飢餓が始まるのだから。もし、同族を食べる仕組みが間違いだと言うのなら、魔族という生物の成り立ちそのものがそうだろう。


 そのことを非難できる人族は――まあつまり、昨日の僕は――安全圏から好き勝手言っているだけの、足元が見えていない馬鹿に過ぎないのだ。

 すべての生き物は、他の命を食べなければ生きていけない。もし魔族が間違った生き物ならば、「正しい」生き物など、最初からひとつも無いのではないか?


 無謬むびゅうなるかなザドゥヤ、に人は無力だ。抗うことのできない原理の中で、アジガロは死ぬ。彼自身もそれを悟っているに違いない。


 聖厨職人が捧げ持つ青い鞘から、カズスムクは短剣を抜いた。

 儀式短剣カパラは刃渡り1ガルカ〔Ĝalka〕。天井から降り注ぐ陽光を照り返すと、その鋭い輝きが、場に残った雑念の糸をふつりふつりと切り捨てる。

 カズスムクはアジガロの前に立った。

 気負いなく短剣を握り、切っ先をぴたりと腹につける。あたりに満ちるピリピリした緊張感で、空気は沸騰寸前の水のようだった。


「よろしいか?」

「何もかも」


 カズスムクの声も、アジガロの声も、震えていない代わりに青ざめたように冷えきっていた。最期の時だ。カズスムクが別れの言葉を告げる。


おしいただくイェル・アグイエ・ユワ」〔Hel aĝie yva〕


 刃が押しこまれた瞬間のアジガロはあまりにも静かで、カズスムクが聖厨職人に短剣を返すまで、僕は「いつ切るんだろう」と間抜けなことを考えていた。

 きらびやかな手甲に包まれた手が突き入れられる。カズスムクはここから内臓をかき分け、横隔膜を破って、心臓の大動脈を探り当てるのだ。


「人差し指と中指でひっかけて、ピンと弾くと即死する」と、昨夜ハーシュサクは説明してくれた。素早くやるのが何より肝要だ、と。


 濁った、耳の奥底にこびりつくような吐息がもれて、アジガロの体が跳ねる。まさにその瞬間が来たのだ。かっと見開かれた目から、僕は光が消えるのを感じた。

 カズスムクは血まみれの手で再び短剣を受け取る。一息に胸を切り裂き、両手を入れて中を探ると、ぶちぶちと何かがちぎれる不気味な音がした。

 それが僕の錯覚なのか、現実にあったことかは分からない。カズスムクが真っ赤な手を引き抜いた時、彼はこぶし大の、かすかに動いている塊を握りしめていた。

 

 銀盆にそれが乗せられると、脱力した体は大ウプトアから下ろされ、横にある石の台、小ウプトアに横たえられる。頭は台からはみ出し、その下に桶が設置されると、聖厨職人がやって来て、斧を振り下ろした。

 ばきん、と頑丈な棒が破断する音、湿った音、誰かがたまらず息を呑む声。

 あっと思う間もない。静けさの中で、祭壇後ろの壁が開かれ、アジガロの首と体はその奥へ運ばれていった。中つ宮ユインデルキャルスへと。


 タミーラクは、このように死ぬのだ。



 残り二人の奉納もつつがなく進行し、辺りは血の臭いに満ちていた。

 僕はやっと終わったという疲れ切った気分と、もう終わったのかというあっけない気分とが同時にやってきて、足元がふらつきそうだ。


「これより汝らの罪なきこと、ユワの審判をあおぐ」


 閉会の前に、司祭が最後の段取りを告げる。


 これまで、ザデュイラルでは死者の遺体は食べて弔われると何度か述べたが、その際に遺族が避けるべきことは「食べるために身内を殺した」と思われることだ。

 食うために人を、とりわけ家族を殺すことは祭礼以外では重罪になる。だから、葬儀の前には身の潔白を神々に証明する儀式が必要となった。

 それが転じて、今日こんにちでは奉納の場でも〝私はよこしまな思いで贄を殺してはおりません〟という誠意の証明と、殺人の罪について神の赦しを請う儀式が行われるようになった。時代と共に、罪悪感が強くなっていったということだろうか。


 用意されたのは、アラカシ〔Alaqas〕という髑髏の杯が三つと、人数分の角杯。マルソイン家祖先の頭蓋骨に、踊る神々や木々の彫刻を施した品だ。

 眼から上は切られて蓋になっており、中は粘土を詰めて銀箔を貼った容器に加工されている。頭蓋の中いっぱいに、贄の鮮血を混ぜた蜂蜜酒が満たされていた。

 髑髏杯アラカシから角杯に血酒が注がれ、全員でそれを飲み干す。もし吐き出したり、苦しむようなら、その者は邪心を持って奉納の場に居たか、贄に不当な苦しみを与えたとみなされる。人間でなくとも血の酒なんて、僕は初めてだ。


 数時間後には贄の解体から調理が行われ、僕はそれを見学して人肉を食べる。今さら、これぐらいで戸惑っている場合ではないのだ。僕は一息にそれを飲み干した。

……ガムルよ、お許しください。

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