2、

 一度父と母のもとへ行き、付近を散策する旨を伝えて浜辺を離れた。ビーチの周辺は、観光地なだけあってそこそこに賑わっている。ホテルや露店が並び、観光客がそれぞれ、思い思いの商品を見定めていた。まだ午前だというのに太陽はギラギラと元気だ。しばらく歩いていると額に汗が滲んだ。


 どこか涼しいところに入ろうかと何度か迷って、けれど人混みははばかられたので飲食店を見つけるたびに断念した。どこか、静かな場所を探そう。そう思ってさらに道を行くと、コンクリートだった道は土に変わり、車や人の数も減っていき、最後には崖のような場所にたどり着いた。崖といっても、ドラマチックな断崖絶壁ではなく、すぐ下の岩場で、海水が穏やかに波打っているような場所だった。もちろん、僕と海水の間には、白い塗装がところどころ禿げたフェンスもある。あまりロマンチックな場所ではない。それでも、遠くの方に目を向ければ何組かのカップルが見えた。楽しそうに笑い、こそこそと話をしている。ともあれ、少なくとも僕の周囲は静かそうだったのでそこで休むことにした。規則的に並ぶベンチのうちの一つに腰かけ、樹に渡された使い捨てカメラを観察する。それはどうやら日本製のようで、古めかしいデザインに見覚えがあった。幼いころ、祖父に使い方を教わったことがある。


 祖父は生粋のイギリス人でありながら、妻と、娘である僕の母を連れて渡日した。初めこそ仕事で半ば強制的に連れてこられた場所だったが、彼はどうやら日本が気に入り、イギリスに帰ってもいいという通達が来ても帰国しなかったという。そんな祖父は、僕が夏休みに小学校の自由研究のために写真が撮りたいのだと言うと、近くのコンビニでこれと同じ使い捨てカメラを買ってきてくれた。そのとき僕はひまわりの観察日記をつけていて、二十七枚撮影できるフィルムをすべて日記のために使い切った。懐かしい、こことは違う国の匂い。


 僕は祖父に教わった通り、右上のダイヤルを巻き上げた。じじ、じじという音が、脳内の時間を巻き戻していく。「そう、それを、止まるまで巻き上げる」それ以上動かないところまでダイヤルが回された。「ここは外だからフラッシュは焚かなくていい。ファインダーを覗いて、切り取りたい範囲がどこなのか、よく考えて」目の前に広がる世界の、必要なところと、いらないところを分ける。「決めたらシャッターを切る。ブレないように気をつけて」カチ、と音がなった。


 カメラを顔から離すと、数秒前とほとんど変わらない風景が目の前に広がっていた。ほとんど変わらない。海の色も、空の雲も、遠くの地平線も、ほとんど変わらない。しかし、僕がシャッターを切った瞬間の景色とは、絶対に違う。絶対に、同じではない。あの瞬間は、僕が切り取ってしまったから。切り取って、手元のインスタントカメラに閉じこめてしまったから。あの瞬間は、もう、僕のものになった。――カメラの黒い胴体を親指の腹で撫でていると、そうした妙な高揚感が湧いてきた。もしかすると、写真家はこの感覚を追いかけているのかもしれない。そう、樹のような、写真家は。――彼は、この感覚を、きっと知っている。これと同じ感覚を、知っている。妙に確信めいて、そんな気がした。


 顔を上げて目の前の世界をもう一度見ると、そこはやはり綺麗だった。四角い箱に切り取って仕舞っておきたい。そういう、衝動。彼は、忘れてしまったのかもしれない。だから、もう撮れないのかもしれない。





 後にも先にも、その日僕がシャッターを切ったのはそのとき限りだった。あのあとしばらくぼうっと海を眺めていたら次第に腹が減って、正午を過ぎたころに両親たちのもとへ戻った。彼らと昼食を買いに行って樹のいるパラソルまで運ぶと、彼は一度だけ僕に視線を寄こしたが、特に何も言わなかった。僕からも、何か伝えることはなかった。ただいつものように冗談を言い合って、フィッシュ・アンド・チップスを囲って談笑した。


 午後になってからも数時間、僕たちはビーチにとどまった。父と母はどうやらビーチバレーが気に入ったようで、気づいたら円陣には知らない人が多く加わっていた。僕はパラソルの下でそれを眺め、樹は隣で本の続きを読んでいた。その間も僕らに会話はほとんどなく、ページを捲る音ばかりが聞こえた。


 その後、早めの夕飯を済ませてから僕らは家に戻った。帰りは行きと同様、父の運転する車だった。母は助手席に座ると眠ってしまい、父も疲れた顔をしていた。樹は窓の外をずっと眺めていたため、話し相手はおらず、僕も少し眠ることにした。





 肩を揺すられて目を覚ますと、車はすでに止まっていた。揺すった手の主に視線を向けると、相手は「やっと起きた。着いたぞ、はやく降りろ」と言って去り、車内には僕が取り残された。少し眠るはずが、どうやら熟睡していたらしく、外を見るともう真っ暗だった。重たい瞼をどうにか開いて、僕は車から降りた。


 車は家の前に停められており、さっきまでいたビーチとは打って変わって、周囲はとても静かだった。このあたりは家も少なく、一番近いご近所さんまでは歩いて三分ほどかかる。そのためか、人の気配は家に籠り、外にはこうして夜が存分に広がっている。


 すぐそばの草原からは虫の音が聴こえた。夜になったので、草原の主役は真っ白の羊たちから姿の見えない夏虫に変わったのだ。この空気が、僕は少し恐ろしかったりする。とても静かで、寂しい。誰かさんに似ている。

 しばらく暗闇を眺めていると、風が足元を通り過ぎ、身震いした。夏とはいえ夜は冷える。中に入ろう。


 家内では、リビングで母が荷物を片づけていた。手伝おうかと訊いたが大丈夫だと言われたので、その日は風呂に入って早めにベッドに横になった。寝室に行く途中、対面にある客間を振り返ったが、やはり思い直して自室に向かった。


 寝転がりながら、ビーチで樹にもらったカメラを触っていた。シャッターを切った感覚が指から離れなくて、なかなか眠くならない。瞳を閉じても瞼の裏に昼間の海が映し出されるので、天井を見ては自分が家に戻ってきたのだと脳に教えこんだ。


 仰向けだった身体を横に倒し、照明を消した部屋の暗闇にレンズを向けた。ファインダーを覗いても当然そこは暗闇で、外の暗闇とはまた質の違う静けさだった。こちらの方がたちの悪い感じがするのは、きっと、生き物の匂いがしないからだろう。無機質、という言葉が似合う。

 フラッシュのスイッチを入れて、シャッターに人差し指をかけた。この暗闇を僕の手でカメラに閉じこめれば、樹の心が少しでもわかるだろうか。二年間会わなかった間に変わってしまった彼の感じていることを、欠片だけでもわかるだろうか。――才能とはどういうもので、それに見限られそうなとき持ち主は、何を思うのか。ここ最近、僕はそればかり考えている。


 カチッ。人差し指に力をこめて、夜を切り取った。フラッシュで目が眩み、少しだけ瞼を押さえる。フラッシュを焚いたこと以外は同じ手順でシャッターを切ったはずなのに、昼間のような高揚感はなかった。ただ、暗闇という、あまり好ましくないものを撮ってしまった。現像したときの不気味さを思って嫌な気になるだけで、それ以外に感じたことはなかった。スランプに陥るのは、こういう気分なのか。わからない。シャッターを切っても、わからなかった。





 翌朝、まだ暗いうちに目が覚めた。二度寝することも考えたが気は進まず、五分ほどベッドで悩んだ末、立ち上がった。足元に注意しながら窓辺まで向かい、風に煽られるカーテンを開く。夜中に雨でも降ったのか、息を吸うと草の匂いがいつもより強く感じられた。しかしまだ陽は昇っておらず、二階の僕の部屋から見えるはずの付近一帯の草原も、ただの闇のままだった。――もしかすると、朝を撮影できれば何かわかるかもしれない。なぜか急にそう思えてきて、次第にそうとしか思えなくなった。僕は急いで服を着替え、枕元にあったカメラをポケットに、部屋をそっと飛び出した。客間が気になったが通り過ぎ、階段を一段一段、音を立てないように降りていく。


 一階のリビングにたどり着いて、僕は驚き足を止めた。向こうのダイニングの四人がけのテーブルに、樹が一人で座っていたのだ。普段は僕が座っている窓側の席に腰かけ、ゆったりと、窓から外を観察し、ときどき紅茶をすすっていた。その姿は寂しく、文字通りで、僕は本当に居た堪れなかった。


「どうした、アベル。早起きは老人になってからだぞ?」

 僕の気配に気づいた彼は、振り返りもせずにそう言った。

「……そういう樹も、ずいぶん早起きじゃないか」

「まあね。でも、お前と違って俺は、きちんと目的があって起きたから」

「どういう?」

「これ」

 振り向いた彼がテーブルから持ち上げたのは、僕のポケットに入っているのとまったく同じ、インスタントカメラだった。

「本も読み終えたし、やることがないから。ひさびさに撮ってみようかと思って。昼間、自分の分も買っておいたんだ」

 無表情でそう呟く彼の、真意が僕にはわからない。そもそも、わかることなどできるのだろうか。知らぬ間に「天才」と呼ばれるようになってしまった、彼の真意など。


「そんな困った顔するなよ」樹は苦笑した。「アベルは? 昨日カメラを買ってやったろう。いいものは撮れたか?」

「……一枚だけ。海が綺麗だった。もう一枚は、部屋の暗闇を」

「部屋? 変わったものを撮るなあ」

 樹の気持ちがわかりたくて、なんて言わない。代わりに肩をすくめてみせる。

「僕は君よりも高次元のセンスを持っているんだよ」

「お、言ったな? 見てろ、今にすごい写真を撮ってやる」

「そういえば、君の写真を一度も見たことがない」

「それはお前が拒否するから。中学のころ見せようとしたのにお前は断るんだ」

「ああ、覚えてるの」

「なんだ、馬鹿にしてるのか?」

「そうじゃないよ」

「じゃあなんだ」

「なんか、安心した」

「安心? なんで」

 答えようか少し迷って、まあいいかと本心を語った。

「君の雰囲気があまりに変わっていたから、本当に僕の知ってる樹なのかな、って、不安だった」

「なんだそれ」

「わからなくていいよ」

 今度は樹が肩をすくめて、変なやつ、とつけ足した。

「それより、外に出ようよ。僕も朝を撮りに来たんだ」

「ああ、そうだな」


 残っていた紅茶を一気に飲み干すと、彼はカメラを持って立ち上がった。「行こう」と僕の前に立ち、足音を立てないように玄関を出た。

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