いつか、あの灰色のむこうで

1、

 彼が僕の住む街に留学してきたのは、二週間ほど前のことだった。

 イギリスの、羊が人口よりも多いような田舎町。彼の通うこととなる高校まで自転車で一時間はかかるにも関わらず、なぜかその街の、僕の家が宿泊先に選ばれた。というのも、彼の訪問は名目上留学だが、実際のところ現実逃避のようなものだった。彼はそのころ、高校生にして写真で数々の賞を総なめし、一部の界隈では天才とまで謳われていた。しかし数ヶ月前からスランプに陥り、一枚も写真が撮れなくなった。見かねた周囲の大人たちが気分転換にでも、と夏の間だけの留学を紹介した結果、彼は中学からの友人である僕を頼ることとなった。


 彼と出会ったのは中学生のとき。まだ僕が日本にいたころ、席が隣になったことがきっかけだった。見た目と名前がいかにも西洋人だからと周囲から普通とはどこか違う目で見られていた僕にとって、ほとんど唯一と言っていい友達だった。彼はそのころからカメラを手にしていて、色々なものを撮っているのをよく見かけた。気まぐれで一度、写真はそんなに楽しいかと訊いたことがあった。すると彼は迷わず楽しいと答え、撮った写真を見るかと訊き返した。僕はなぜかそのとき、無性にくすぐったくなり、その誘いを断った。彼はそれにがっかりとした表情はせず、そう、とだけ囁いた。僕の父の転勤が決まったのは、一年後、三年生に上がるときだった。今回は、それから二年ぶりの再会となる。


 彼は語学留学ということで、日中は高校に通い、英語の授業を受けていた。留学生向けに設定された授業は、彼曰く「日本の授業よりは為になる」そうだが、本当のところを僕は知らない。彼がまだこの家に来て間もないころ、夕食に呼ぼうと寝室の扉をノックすると、彼はサリンジャーの原著を抱えて部屋から顔を出した。授業でそれを読むなんて粋だなと僕が感心すると、首を横に振られ、「これは俺の趣味だよ」と言われた。そのとき彼の机に置かれていた宿題と思しきプリントよりも、サリンジャーの綴る文章の方がよっぽど難しいように僕には思える。


「アベル」

 名前を呼ばれて慌てて顔を上げた。

「なに、いつき

「なにって」ため息混じりに彼は言う。「せっかく海に来たのに、一日中そこに突っ立っているつもりか?」

「そんなつもりは……」

 もう一度ため息が聞こえた。色付きのサングラスに花柄のTシャツを着こなす声の主は、やれやれといった顔をした。端正な顔立ちをしているからか、そんな表情までもが似合っている。


 自宅から数十キロ離れたところに、観光客用の広いビーチがある。今日は、毎日勉強漬けだと気持ちが浮かないだろうと、樹のために、僕の両親が日帰りの旅行をセットしてくれた。


「はやくしないと置いていくぞ。――それとも、ナンパでも待っているのか? それならやめた方がいい、その田舎臭い服装では誰も相手にしてくれないよ」

 僕よりも身長の高い黒髪の頭は、こちらを見下ろして薄く笑った。切れ長の真っ黒な瞳はサングラスの奥で細まり、僕を挑発する。

「君は皮肉ばかり上手くなるね」

「そりゃどうも」

「来たばかりのころはまだ大人しかったのに」

「今も家では大人しいだろ」

「僕の前ではこんななのにね」

「こんなってどんな?」

「皮肉屋の野郎」

「ひどいな、これでも純粋なのに」

「言ってろ」


 隣で笑う人間が、天才と呼ばれていることが未だに信じられない。それこそ、来たばかりのころは大人しくて、どちらかというと無口な方だった。僕はスランプというものを経験したことがないからいまいち想像がつかなかったが、きっと辛いのだろうと、何かと彼を気にかけていた。しかしその心配も無駄に終わり、一週間もすると彼は多少下品な冗談も口にするようになり、笑顔もよく見せるようになった。そして今ではこの有様だ。本当にスランプなのかと疑いたくもなる。自分の中の天才という言葉の崇高なイメージが、ここ数日で急速に崩れていくのを感じる。


「俺はここにいるから、アベルは行ってきなよ。お母さんがビーチボールふくらませて待ってるぜ?」

 パラソルの下に座りながら、彼は海の方を視線で促した。

「樹は行かないの?」

「俺はいい。ここで見てる」

「……わかった」


 彼のための旅行だというのに彼が遊ばないのはどうかと思ったが、そういうことは考えだすとキリがないのでやめにした。彼を置いて浜辺を進むと、きらきらと光る海を背に、母が手を振って待っていた。思わず手で陽射しを遮って、サングラスを忘れた自分を呪った。イギリスのくせに天気がいい。日陰にいる樹にサングラスを借りるという選択肢もあるのだろうが、馬鹿にされる予感しかしないので嫌だった。一日だ。我慢するしかない。


「樹は来ないの?」

「来ないみたい」

 肩をすくめて見せると母はあからさまにがっかりとした顔をしたが、すぐに立ち直って海に向かった。


 僕は振り返って樹を探した。浜辺にはそこそこに人が集まっていて、さっきまで自分がいた場所なのに、探すのに少し苦労した。見つけた彼は、どこから取り出したのか例のサリンジャーを読んでいた。家族連れやカップルで賑わう真夏のビーチで、一人パラソルの下。一体なんの皮肉だろうか。彼が無自覚でやっていることを祈り、いやしかし無自覚でもかなり恥ずかしく思えた。止めに行こうかと悩んで、母に急かされたこともあり、結局は放置することにした。


 父と母と円陣を組んでビーチバレーをする合間に、ときどき彼を観察した。僕の見た限り彼はずっとパラソルの下で過ごしていて、淡々とページを捲っていた。誰にも声をかけられず、誰にも声をかけなかった。

 彼は一人のとき、独特な雰囲気を纏っている。普段喋っているときは普通の嫌味な高校生なのに、一人になると、急にになる。一人だけどこか違う場所にいるような、違うものを見ているような、ふわふわとした、そんな、寂しい気配。時折、ありもしないもやが視界を遮って、彼の姿を見失いそうになる。手を伸ばして声をかけるも、向こうに僕は見えていないし聞こえていない。彼が、自分の世界を切り取る芸術家だからだろうか。芸術家は、孤独だと聞く。――しかし彼の気質がそうであったとしても、少なくとも中学生のときの彼に、そんな雰囲気はなかった。僕の知る彼は、みんなから慕われる、ただの明るい学生だった。


「アベル! 前を見ろ!」

 樹の叫ぶ声がして、はっとした。顔を上げるころにはビーチボールが目前まで迫っていて、そこまで来ると、もう避けようがなかった。顔面に命中させ、しかしボールが柔らかいからかあまり衝撃は感じなかった。それよりも、頰にピリッとした痛みが走り、ボールで引っ掻いたのだとわかった。少し血が出ている。

 傷は大したことがなかったが、いい言い訳だったので両親たちに話をつけて、樹の座るパラソルまで移動した。


「ナイスレシーブ」

 樹はあからさまに僕を笑ったが、「傷は痛むか?」と冷えたペットボトルトを差し出してきた。こういうところは変わっていない。

「ただのかすり傷だよ。たいしたことない」

「なんだ、そんなことで戻ってきたのか? アベルもやわだな」

「うるさい。少し休みたかっただけだよ」

「さっきから上の空だからな。何か考え事か? どうせ好きな子のことでも考えていたんだろう」

「そうじゃないよ」と口ごもった。

「じゃあ何を?」


 樹はサングラス越しに僕に視線を向けた。ほら、その目。彼は自身の独特な雰囲気を、僕といるときにも発することがある。それは主に、僕が隠し事をしていて、彼が白状させたいときに起こる。そして、この真っ黒な瞳に見つめられていると、すべて話さないといけない気になってくる。そうしないと、彼がいなくなるような。――そんなはずは、ないのに。

 こうした技を、彼は一体どこで身につけたのだろう。それともこれも、天才の特権というやつだろうか。いずれにしても、平凡な僕にはわからない。


だよ。本当に、ぼーっとしていただけ」

 そこまで言うと、さすがの彼も黙った。僕から視線を外し、遠くを見やる。下がってきたサングラスをかけ直し、「ふーん?」と口を尖らせて拗ねたふりをしていたが、僕にはそれが演技だとわかった。こうして茶化す方法も、いつの間に覚えたのだろう。


「まあいいや。ちょっとジュース買ってくる。誰かさんのおかげで俺の分がなくなったんでな」

「それなら僕が買いに行く」

 立ち上がろうとした僕を、彼は手で制した。

「いいって。ついでに似合いそうなサングラスも選んできてやる。怪我人はゆっくりしてな」

 後ろ手にひらひらと手を振る様子を見送って、僕はついに諦めた。彼に任せると、どんなサングラスを買ってこられるか目に見えている。自分の不運に手を合わせた。


 それにしても、彼は軽薄に見えて、ひどく察しがいい一面を見せることがある。サングラスがほしいなんて一度も口に出さなかったのに、気づいたら見破られている。どうせ、僕が彼との距離を測りかねていることも、気づいているのだろう。心底面倒な人間に育ったなと思う。


 浜辺に視線を移すと、炎天下、父と母が無邪気にボールで遊んでいるのが見えた。これではどちらが保護者なのかわからない。パラソルで陽射しが遮られているとはいえ、海に反射する光はまるで嫌味のようにきらきらと眩しかった。はやくサングラスがほしい。


 ふと手元を見ると、さっきまで樹が読んでいたサリンジャーのペーパーバック版が置かれていた。表紙には「The Catcher in the Rye」と手書きのような文字。綺麗な装飾だ。しおりを見る限り三分の二ほど読み終えたらしい。本当に、日本に住んでいながらすらすらとこれを読むのなら、嫌味なやつだ。語学留学なんて言わず、普通に旅行として来ればよかったのに。授業に出るだけ時間の無駄だろう。


 僕は仰向けに寝転がって本を開いた。冒頭の数行を読んでみるもすぐに恥ずかしさに負け、本を閉じる。皮肉たっぷりのニューヨークの話を、イギリスの田舎町のビーチで読む。僕の心はそれほど強靭ではなかった。ため息をついて寝返りを打つ。

 このまま、寝てしまおうか。目を閉じて、周りのざわめきを耳にしながら思った。子どもの楽しそうな笑い声や、女性の嬉々とした悲鳴。どちらが先に海まで走れるかなどのどうでもいい会話。すべて脳の中を通り過ぎるように、耳から耳へと受け流した。


 そうして徐々に眠気が襲ってきたころに、頭上から声がかかった。

「なに、サリンジャーごっこ? 厭世的えんせいてきに振舞っちゃって」

 これもまた、適切なご指摘で。

「そうだよ。樹のマネ」

「なんだそれ」


 ほら、と彼が僕に渡してきたのは、やはり随分と派手なサングラスだった。赤いレンズに黄色いフレーム。横の方にはよくわからない模様の装飾までついていた。「こりゃどーも」と受け取って、仕方なくかけた。樹はまさか僕が受け取るとは思っていなかったのか、一瞬意外そうな顔をして、すぐに吹き出した。もう知ったことではない。と、存分に笑われることにした。


「悪かったよ。俺のをやる」

 ひとしきり笑い終えると、彼は自分のサングラスを取ってこちらに差し出した。僕は身体を起こして答える。

「いらない。これで十分だ」

「そう拗ねるなって。こっちの方がきっとモテるぜ?」

「それなら君の方がお似合いだ、


 樹は肩をすくめる動作をして、ご機嫌ななめだな、と別のものを取り出した。それを見た僕は、思わず、短く息を吸った。

「素直じゃないアベルにはこれをやろう。きっと皮肉も言えないくらいに、世界が素敵に見えてくるよ」


 彼が手にしていたのは、どこでも手に入るようなインスタントカメラだった。そう、袋に入って、日本でもコンビニで買えるような、使い捨てのカメラ。それを、彼は手にしていた。スランプに陥ってから、彼は一度もカメラを手にしていないのだと僕は聞いていた。だからこの留学にも彼はカメラを持ってきていなかったし、写真の話もいっさいしなかった。彼が話さないのだから僕らが訊けるわけもなく、この話は家では暗黙のうちにタブーとされていた。それなのに彼は、今、インスタントカメラを持っている。何でもないような顔をして。


 僕が黙っていると、樹は独り言のように続けた。

「サングラスを買いに行った店で見つけたんだ。いまだに売っているものだな。さすが観光地。――使い方はわかるだろう? ここを回して、シャッターを切る。ちゃんと限界まで回すんだぞ」

 言い終えると、彼は僕の横に座り直して再びサリンジャーを開いた。The Catcher in the Rye――ライ麦畑でつかまえて――直訳すると「ライ麦畑で捕獲する人」のようになるのに、訳者というのは絶妙な言葉選びをする。


「樹は撮らないの」

「……俺はいい。しばらくこの続きを読む」

「そんなにその本、面白い?」

 樹は表情を変えずに顔を上げた。

「面白いよ」

「そう。なら、いい」

 僕はカメラを右手に立ち上がり、「それじゃあ」と吐き捨ててその場を去った。「楽しんで、樹」

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