六譚ノ壱 事始大競り騒動

 年が明け、年始の三日を休業にして糸猫庵は本日、通常通りに開店した。

「お休みも束の間だったわね。坊や、ちゃんと休んだんでしょうね」

 肩にとまった灰色の文鳥──手鞠が、私の頬を自慢の整ったくちばしでつつきながら訊いてくる。

「休んださ。少し飽きてくる程にはね」

 この文鳥、風邪を引いて暫く知人の家で養生していたのだが、復活するや否や、反抗期の息子を持つ母の様に物を言う。

 しかし手鞠が居なくなれば、私には五月蝿い獄卒が残されるだけなので、無条件で労りたくなる。

 傍目に見れば若く見えても、妙齢な方だ。人語を流暢に話し、理解する程度には年月を重ねた。

 それは兎も角、そろそろお昼時に差し掛かるので誰か来るだろうと、厨房に火を入れた。

 手鞠は肩から飛び立ち、カウンターの隅に置かれた鳥籠に陣取る。そこがいつもの定位置だ。

 矢張、月日の中で決められた順序で物事が進むと落ち着く。

 これからも続く様祈りながら手を動かしていると、入口の硝子戸が開かれる音が聞こえた。

 条件反射で入口の方に視線を送ると、今日の一番客がそこに立っている。

「明けましておめでとうございます! 糸さん、今年も宜しくお願いします」

 店内に入って来るなり、丁寧に頭を垂れたその子供は小鳥遊たかなしと言って、この店の常連である。

 週に三日か二日、私の作る弁当を買いに来る。

 私も同様に頭を垂れた。

「明けましておめでとうございます。今年も、糸猫庵を宜しくお願いしますね」

 互いに新年の挨拶を交わすと、小鳥遊さんは鼻歌でも歌い出しそうにご機嫌で、こちらに歩んで来る。

 大晦日は馬鹿ましかに絡まれていたので、気分が良さそうで何よりだ。

「今日は何にしますか?」

 いつもはお任せか幕の内弁当を注文するのが、この小さな常連客だ。

 答えは判り切っていても、当たり前になった交流を大事にしたい。

「お任せでお願いします」

 承りました、と言って頷き、小鳥遊さんに背を向けて厨房に立つ。

 戸棚から取り出した弁当箱は使い込まれている。それと言うのも、弁当箱は返却する決まりにしたからだった。

 弁当を詰め、食べ終わればお客様に洗っていただき、店まで返却して貰う仕組。

 面倒に思うかもしれないが、これも、またこの店に来ていただく口実作りに過ぎない。

 卵焼きを弱火で熱している間に惣菜を詰めて行く。

 四角に区切られた箱を彩り、折紙の動植物がカウンターに上がった。

 毎回交換に出される折紙作品は本当に精巧で、私達の世界では価値が高い。

 紙さえあれば、この世界を十分に渡り合える程だ。

 一刻も早く作品を見たい気を抑え、調理の手を進めて行く。

 色取り取りの惣菜が詰まった弁当箱を、小さめな風呂敷で包んだ。

 風呂敷包みを手渡すと、小鳥遊さんは実に嬉しそうに目を輝かせる。

 もうこの笑顔の為だけに弁当を作れる。

 手持ち無沙汰なので、欧米のエスコートよろしく硝子戸を引き開いて待つ。

「またお越しください」

 そう言って口角を軽く上げると、向こうも、来たときよりも明るい表情かおで二段坂を上って帰って行く。

「やっぱり今まで閉鎖的だったのが、明らかに改善されてるわね。あの子もあなたも」

 手鞠の言葉を深く考える事はせず、半異界化した空間から脱け出して行く、小鳥遊さんの後ろ姿を見ていた。

 白の空気が空に舞い、この時季にしてはよく晴れ、鯨が泳いでいた。

 その姿が完全に消えると、すぐ後に二人連れの女性らしき影が見えた。

 二人連れがこちらに歩み近寄るに連れ、像の形がはっきりとしてくる。

 その片方はこちらに手を振り、肩まで届く小麦畑の様な金髪と、大きな狐の耳を持った女性。

 もう片方は知らない顔で、白いカンカン帽をあみだに被り、琥珀色の長い髪を三つ編みにして纏めている。

「おーーーい!」

 手を振っていた野干の女性──鉄穴さんが、これまた大音声で声を張上げた。

 これが新年の挨拶などと言わないだろうか。

「明けましておめでとう!」

「明けましておめでとうございます。その……そちらのお方は?」

 私がカンカン帽の女性について尋ねると、鉄穴さんが紹介しようとしたが、それより早く、その人が自ら名乗った。

「私は四月一日わたぬき。鉄穴とは幼少からの知己よ」

 そう言って柔らかく微笑んだ。

 私は硝子戸を開いて二人を店内に誘導する。

「四月一日は二口女でね。見た目は細いけど後頭部口が滅茶苦茶食べるの」

 鉄穴さんがカラカラと笑いながら言うと、四月一日と名乗ったその人は、鉄穴さんの頭をペシッとはたいた。

 さながら、鉄穴さんを止める春秋さんの代理、と言った人なのだろう。

 新規の四月一日さんと鉄穴さんを席に誘導した。

「あらご主人、このお店はニンゲンも入れるの?」

 唐突な四月一日さんからの質問に驚いたが、私は、ええ、と落ち着き払ってそれに答える。

「一応、ここは境界線が比較的緩い場所の一つですから。気分を悪くされたのなら……」

「いえ、気になる程ニンゲン臭くないもの。ごめんなさい」

 丁寧な謝罪に飾られた礼は美しかった。

 内心胸を撫で下ろし、改めて私達の存在を識る。

 そうだった。この店が異常なのだ。

 こんな境界線の隅で、ヒトと直接触れ合える距離に居る。

 小鳥遊さんと鉢合わせ無い様に、何か対策を打って置くべきかもしれない。

 重要事項、と脳内に書き込んだ。

「あぁでも、良い香りがするわね。藤の花かしら……」


         *


 翌日小鳥遊さんが弁当箱を返却しに、来店。

 外は雪が降っており、昼下がりにも関わらず、空は厚い雲が立ち込めて暗い。

 店内の柔らかい照明が妙に際立っていた。

「味はどうでした?」

 お茶請けに南瓜かぼちゃを使った饅頭、それに合う煎茶せんちゃを出しながら問う。

「美味しかったですよ! ぼくはあんなに美味しいのは……あまり上手に作れなくて」

 苦笑いしながら答える。

 ご両親は不在勝ちな分、何でも作れそうな印象だったのだが。

「今度、良ければ秘伝のレシピをお教えしましょうか?」

 提案すると、パッと雲が晴れた様に表情が晴れた。

「良いんですか!?」

 ええ、と口角を上げると、

「是非お願いします!」と言って頭を垂れた。

 良い意味で貪欲な小鳥遊さんは初めて見る。

 雪が小降りになるまで、と引き止める為に用意したお茶請けだが、実は試作品なのである。

 思いの外反応は良いので次から出してみるか、と考えたが、小鳥遊さんはほとんど何でも美味しく食べる人だったことを思い出した。

 ……鉄穴さんあたりにでも試食して貰いましょう。

「ああそうだ、忘れていました……」

「? どうかしたんですか?」

「いえ、昨日さくじつあるお客様がいらっしゃった時の話なのですが。少々人間を嫌っている様でして」

「気をつけます……」

 話の理解が早くて助かる。

 この様な事態が起きた場合の処理は、こいさんから叩き込まれた。

 私としても対応していく覚悟だ。

 お茶を啜る静かな音が空間に響いた。雪は止む気配を見せないままに。

 長細い窓の外はひたすらに、耳鳴りがする程静かで、生物の動きを全く同じ感じられない。

 水分を含んだ重い白雪が、時間すらも止めてしまいそうだった。

 小鳥遊さんは暖を取っている。

 私は雪に埋没された人影に、気付く事が出来なかった。

「糸~今日も来たよ!」

 防寒具を身に纏った鉄穴さんが硝子戸を勢い良く開く。

 その背後に、問題の四月一日さんが見えた。

「あ! 鉄穴さん。今日こんにちは」

 完全に四月一日さんの口許はひきつっている。

 鉄穴さんも微妙にひきつっているが、切り出す好機をはかりかねている様だ。

「どうしてよ……」

 四月一日さんが何か呟いた。

「どうして今、ここに! ニンゲンがいるの!」

 それは絶叫に近かった。

 ヒトが嫌いな妖怪はいる。どうしても共存出来ない、という者も勿論。

 私の考えが甘く、この様な最悪の事態を引き起こしてしまった。

 小鳥遊さんはこの剣幕に、すっかり怯えきっている。

「っ……ごめんなさい」

 それだけ言うと即座に帰り支度をして、店を出ていってしまった。

「あっ、待って下さい!」

 私は追いかけようとしたが、降りしきる雪が姿を隠してしまっていた。

 すると四月一日さんは、まるで我に帰ったかの様に剣幕から震えた声に変わり、蚊の鳴く程小さな声で、ただ一言、御免なさい、とだけ言った。

 私は何が起きたか理解が追い付かず、立ち尽くすばかりで。


「本当に御免なさい」

 落ち着いた四月一日さんは、深々と頭を垂れて謝罪を述べる。

 あの後二人に店に入れてお茶を出し、何とか落ち着かせる事に成功した。

「どうかお気になさらないでください」

「恥ずかしいわ……また」

 また、の一言が気に掛かる。

「うん、わたちゃんは二口だからね、仕方ないさ。気軽に行こうよ」

「きっとあの子は、謝るくらいじゃ許してくれないでしょう?」

「大丈夫だよ。小鳥遊くん……って言うんだけどね、事情が全て判れば、納得出来る子だから」

 ふと、口伝えに聴いた話を思い出した。

 ──二口は二面性を表す。

 必ずしも全員そうとは限らないが、会話の最中に突然、柄が変わる時がある。

 四月一日さんは二口女だ。そして先刻の言動は話と合致する。

 つまり先程の言動は、二面性が現れただけだった?

 明らかに、先刻の四月一日さんと今お茶を啜っている四月一日さんは異なる。

「兎に角落ち着いて。今度、私から事情を説明しておきますから……」

「ありがとう。──ねえ、所でここは藤のお香でも焚いているのかしら? この間からずっと気掛かりで」

「いえ。香の類いは全く」

 質問の意味が判らなかったが、何かあるのだろうと直感し、思考を巡らせた。

 この店で香を焚く事は、絶対と言って良いほど無い。

 ならば考えられるのは外部から持ち込まれたモノ。

「──……あ。居ますよ。香袋を持ち歩くお客様が、一人だけ」

「本当ですか?」

「はい、小鳥遊たかなしさんと言う方です。……先程の」

 告げると、四月一日わたぬきさんは口許を両手で抑え、やっちゃったわ……、とか細く呟いた。


          *


 明日からどうやって糸猫庵に行こう。

 あの人が居る限りは、暫く行けないかもしれない。

 美人な女性だったけど、多分あの人はの人だ。

 ぼくが今まで向こう側と付き合ってこれたのも、人間に対して友好的であったり、寛容な妖怪達ばかりで、今日みたいな人とは、あまり接する事がなかった。

 今はお互いに離れていた方が良いのだと思う。

 その為には、糸猫庵に行くのも我慢しよう。

 でも、いつまでも行けなくなりたくない。あのお店があったと言う事実を、これから先大人になって、子供時代の妄想にしてしまいたくないから。

 先を不安視しながら蒲団に潜り込む。

 自分の影が心配するかの様に見ているのに、気付かなかった。


 朝は鳥が起きるより早く起きて、霊園の植物を手入れし、仕事が一段落すれば糸猫庵にお弁当を買いに行き、昼食を済ませてまた再開。

 たまに、お墓参りに来る方や、自ら先祖代々のお墓を手入れする人。色々なヒトが来るけど、両親が残してくれた帳簿を開かないと、そのヒト達の詳細は分からない。

 夜は少し遅く寝る。ぼくと同じ様な年齢のヒト達の多くは、もう寝ている様な時間。

 そんな生活の循環が繰り返されて、飽きる事は無かった。

 変わることは怖い。

 今日も生活は変わらないことを願っていた。


 前略。ぼく──小鳥遊りんどう──には影が無い。

 もっと詳しく言うなら、分離している。

 ぼくと離れてからは、ずっと地縛霊みたいに家についている。

 ぼくと同じ様な自我があって、話し掛ければ答えるし、簡単な挨拶程度なら自分からする。

 その影が、今朝は居なかった。

 朝起きて、いつもの様に「おはよう」と挨拶をする相手は、ぼくの場合はぼくの影だ。

 しなくても、向こうから言ってくれる。

 それが今朝は居ない。

 自室、かつての両親の部屋、書斎、居間、勝手、浴室、縁側、客間、廊下、屋根裏、玄関、倉、裏庭。

 家のどこを捜しても居ない。

「どうしたんだろ?」

 昔一度だけ、こんな風に行方不明になった事はあったけど、翌日になれば帰ってきた。

 多分今日もそうなるだろうと、仕事に没頭して三日が過ぎていった。

 或る日の夕方の事。

 玄関の戸を軽く叩く音が聞こえて、見に行ったら、糸さんが来ていた。

「今晩は」

 そう言って口許に笑みを浮かべた顔は、まるでいつかの再現だった。

「……どうして来てくれたんですか?」

「最近、お店に来られてなかったでしょう。それでお夕飯でも、と思いまして」

 片手に提げた籠は、僅かな隙間から覗く食材で膨れているらしい。

 糸さんの料理を久し振りに食べられる。

 考えると、急激にお腹が空いた。

「お願いします」

 頭を下げると、快諾してくれた。

 玄関から勝手に案内している途中、糸さんがしきりに辺りを見回していたので、何かと尋ねる。

「……影がいないと思いまして」

「ぼくも今、どこにいるか判らないんです。どうしてそんなことが気になるんですか?」

 問うと、何でもありません、と言って顔を背けた。


 お勝手で糸さんが調理するに任せて、ぼくはいつかみたいに居間で待つ。

 外では相変わらず雪が降っていて、雪見障子の窓部分から雪明かりが仄かに見える。

 今年はまだ降りそうだ。

 居間はストーブが灯いて暖かく、炬燵も出してある。完璧。

 ストーブの上では薬缶がお湯を沸かしている。

 ほの灯りの下読書を始める。

 自分の名前の押花の栞を挟んでいたページを開き、昨夜まで読んでいた続きを思い出す。

 本の題は掠れて読めない。

 確か昨日は、主人公が丸の内の本屋に行くところまで。

 勝手からはいい匂いがする。

 物語は本屋が檸檬によって爆発し、語り手は誰にも気付かれずに本屋から出ていった。

 読み終わって満足し、頁の狭間に栞を挟むと、丁度勝手から足音が聞こえた。

「お待たせしました」

 いつもの声。糸さんの料理が出来た事をしらせる合図。

 それと同時に漂う匂い。

 お茶漬け、みたいな。

 居間と勝手を隔てる障子が開き、皿の載ったお盆を片手に糸さんが入って来る。

「お茶漬け──ですか?」

「いえ。そうですが、違います」

 どういう事かと首を傾げると糸さんは、ふふっと笑って机にお盆を置いた。

 ぼくは思わず息を飲んだ。

「わあ……」

「驚きましたか? お茶漬け風スープパスタです」

 自信に満ちた糸さんの声音は、安心する要素が詰まっている。

 ──それにしても、

「お茶漬け風スープパスタ……ですか?」

 お店でも出された事の無い未知の料理に、更に首を傾げるばかりだった。

「はい。持ち込んだ私的な食材で作りましたので、店の様な味は出せていないと思いますが……それに、これはたった今考案したものです」

「たった今ですか!? 凄いですね」

 素直な感想を溢す。

 だけど糸さんは首を横に振り、謙虚な姿勢を貫いて止めない。

「いただきます」

 合掌をして、カトラリーに手をつけた。

 白い磁器の器に緑茶色のスープが入って、そのスープには細いパスタが浸かっている。

 鮭中心の具材が浮かび、刻み海苔と丸いぶぶあられはまだふやけていない。

 フォークにくるくると一口分の麺を巻く。

 スプーンの上で収まるくらいに巻くと、大体一口分になる。

 口に運ぶと鮭と出汁の匂いが広がって、麺も柔らかい。

 鮭の塩気が染みだしている。

「いくらでも食べられますね」

 言うと、糸さんは少しだけ恥ずかしそうに顔を伏せた。


 空になった皿を前に、糸さんが重々しそうに切り出した。

「本題に入りますが……その」

「あの、女性の件ですか?」

 思い当たる記憶を引き出すと、黙って頷く。

 そして独りごちるかの様に話し始める。

「悪い人ではありません。少し難儀な特性を持っているだけで、どうか誤解しないでください」

 そう言って糸さんは机に両手を付いて頭を下げる。

 まるで弁明する様な口振りだ。

 話を聞く限り、誰も悪く無い。

 悪いのは、あの時お店に長居して居たぼく。

「考えていないとは思いますが、どうか自分を責めないで下さい」

 まるで心を読んだかの様な言葉に、胸が痛くなった。

「えっと……その、わたぬきさんに、もう一度逢ってみたいです。それでお話を……あの、頭を上げてください!」

 必死になりながら言うと、糸さんはようやく頭を上げてくれた。

 どうやら糸さんも緊張していたらしく、子供みたいに口許が緩んだ。可愛い。ぼくよりずっと背丈が高いのに、可愛い。

「ご理解いただけて本当に良かったです。……では、どの日が望ましいですか?」

 お仕事が空いている日はいつだったかと、椅子から立ち上がってカレンダーを捲る。

「この日が空いてます!」

 ぼくはカレンダーに書かれた日付、その中の赤丸がついた日を指さした。


          *


 四日後、ぼくは一週間ぶりに糸猫庵を訪れた。

 指定された時間に間に合う様、二段坂を駆け下りて行く。

 坂の間にある小路を行くと硝子戸が見えて、決意する様に取っ手に手を掛けた。

 硝子戸を開いてお店に入ると、まず最初に鉄穴さんが出迎えてくれた。

「わ~久し振り~! 小鳥遊くん元気だった?」

「久し振りと言っても一週間ですよ。あんまり抱き付かないでください……」

「いやぁあもう可愛いなあ~!」

 ぼくの中で、唯一支えになる場所に来られただけでも少し泣きそうなのに、そこに、ただでさえ大きい胸を押し付けられるのは辛い。

「鉄穴さん、そろそろ離してあげて下さい」

 糸さん、本当ありがとうございます。

 助け船を出してくれた糸さんにすがり付き、解放されると共に、奥の席に通される。

 大晦日、馬鹿さん主宰で鍋料理を食べた広い席だ。

 席につく前に外套を脱いで、気持ちを切り替える。

 そして大晦日の記憶を作った席に座って居たのは、紛れもなくあのひとだった。

 一礼して座蒲団に腰をおろす。

 すると、いつの間に用意していたのか、お茶の載ったお盆を運んで来てくれた。

 受け取ろうとした瞬間、

「ごめんなさい!」

 驚く程の声で初めに言われた言葉は、謝罪だった。

 それも懺悔の様な。

 その人は机に両手を付いて頭を深々と垂れている。

「顔を上げてください。ぼくは事情が判って、何も気にしていませんから」

「いいえ。あなたは許しても、それでも、出会い頭にいきなり怒鳴り付けた私を許せないのよ」

 思っていたよりも頑固な性格だった。

「ぼくは昔から──こう言うことはよくありました」

 頭を下げ続けるわたぬきさんを前に、切り出した。

「そうなの?」

 言うと、意外そうに首を傾げる。

 形がどうであれ、頭を上げさせることに成功した。ぼくはそのまま続ける。

「はい。もっと小さい頃から、この世界と交流をしてきましたし、今更これくらいの事件が起きても気にしません。寧ろ、落ち込むより解決策を探します」

「過去は振り返ったり、悔やんだりはしないのね。ちょっと羨ましいわ」

 そして少しでもたくましく見える様に笑ってみせると、わたぬきさんも、ふんわりと笑ってくれた。

「話終わったー? 終わったなら小鳥遊くん返してよ」

 不意に、衝立ついたてのむこうから鉄穴さんが顔を覗かせる。

「いやよ。暫く私のお話に付き合ってもらうのよ」

 二人は言い合ってぼくの腕を掴んで引っ張りあう。

 糸さん、助けてください。

 顔が青ざめていくのが判る。

 声を聞いた糸さんが駆けよって来るのを最後に見て、視界が暗くなった。


          *


「判りますか?」

 異常な眠気から解放された後みたいな気分で目が醒めた。

 眼前では糸さんが片手を振って確認している。

 重い体を半ば無理矢理に起こすと、頭が大きく揺れた。

 耐えきれなくなって、また倒れこんでしまう。

「急に起き上がると危険です。もう少しこのまま……」

 呆然としながら辺りに目を巡らせると、まず目の前に糸さんが、その横には鉄穴さんと四月一日さん。

 ぼくは、畳んだ座蒲団を枕に、着ていた外套をかけて、畳の上に寝ていた。さっきの広い席だ。

「大丈夫?」「突然倒れたのよ?」

「ご迷惑をかけてすみません……」

 時間をかけてゆっくりと起き上がり、手渡された湯飲みを受けとる。

 現状を徐々に把握しつつある頭を垂れて、ごめんなさい、と謝った。

 突然視界が暗くなって、その後のことはあまり覚えてない。

 だけど四月一日さん曰く、話終わった後突然倒れたと言う。

 原因は何なのか、全く心当たりが無い。

「君……影が無いことが原因じゃないの?」

 首を傾げながら四月一日さんが尋ねた。

「いや? 小鳥遊くんは前から影が無かったよ。あ、分離してたって言う方が正しいか」

「それはどれくらい?」

 もういつからだったかも、思い出せない。

「思い出せません」

 首を振って答えると、そう言えば、と糸さんが思い出す様に呟いた。

「三日ほど前から……ご自宅にも居ない様でしたが」

 今ぼくの影は一週間ほど居ないけど、それがどうしたのだろうか。

 すると、風船を割る様な驚いた声が店内に響いた。

「三日!? あなた何が起こるか判っているの?」

「ここ一週間、気分が悪くなることはあったけど、倒れるまでは……」

「待ってください。今一週間と言いましたか?」

「? は、はい」

 答えると、突然頭を抱えて何か呟き初めた。

「小鳥遊さん! 暫くはご自宅と此処を往き来しない方が良いです」

「へっ?」

 唐突な宣告に驚いている間にも周りはどんどん動いていく。

「どうするの? 境界がしっかりした場所に送ります?」

「有事の際、元の場所に戻せる方がいいかも知れません」

「そっかじゃあここで良いんじゃないの? 居住区ぐらい分けてあるでしょ」

「そうですね。では私の所で保護する方針で」

「保護者への説明はどうするの」

「神隠しってことで良いでしょうに」

 ──まただ。

 じぶんだけが置いていかれて。

 昔みたいに拠り所を求めて、結果的に大切なモノを奪われる。

 でも、嫌悪感を覚えてもぼくに何かをする力なんて無いの。

 ぼくが俯いている間にも結論は出ていた。

小鳥遊たかなしさん」

「……はい」

 顔を上げると、髪に触れられる程近い距離に糸さんがいた。

「小鳥遊さん、説明は後です。事が収まるまで私の下で保護させてください」


 その後もぼくが全く参加せずに物事が進んだその夜。

 結局家には帰らず、糸猫庵で晩御飯を済まして、糸さんの家で暫く過ごす事になった。

 糸さんの家はお店のカウンター、その奥にある階段から勝手口に繋がっていて、古さは多分、ぼくの家よりも上。

 お風呂にも入れさせて貰った。

 ぼくには、自由に使って、と客間をあてがわれ、寝間着の着物も着付けている。

 客間はそれほど広くは無いけれど、一人で宿泊するなら丁度良い。

 ほとんど正方形な畳張りの部屋に、家具はこの家同様に古い調度品で溢れている。

 畳に置かれたベッドがあり、寝間と分ける為なのか、障子があった。

 セピア色の本棚と低めの机。それに合った籐椅子。

 なんと籐椅子は回転式らしい。

 自分の家と似た様な部屋で、少しだけ安心する。

小鳥遊たかなしちゃん」

 そしてあてがわれた客間には、手鞠さんの籠も置いてある。

「どうしたんですか」

「本当にごめんなさいね。後であの坊やにはきつく言っておくから。急にこんな事にしてしまって。ちょっとお話に付き合ってくれないかしら」

「坊やって……?」

「あら、糸のことよ。言ってなかったかしら。あぁでも、あの子は必死で隠そうとするでしょうね」

 思わぬ秘密を知ってぼくがくすくす笑うと、

「この事は言わないことね」と念を押された。

 ぼくは口の前に指でバツを作ると、手鞠さんはその流暢な人語で笑ってくれる。

 しかし、幸せな時間はいつもすぐに壊れてしまう。

「所で本題に入るけど、小鳥遊ちゃん。影が無くなったらどうなると思う? 今の場合、正確には影が本人から離されたら、だけど」

 切り出された言葉でお互いに真剣な表情になり、息を飲む。

「……判らない。でも、良い方向には向かわないと思う」

「そうよ。本人から影を引き離すと、まず起こるのは身体の不調。今日の小鳥遊ちゃんみたいにね」

 それと影が離れることが、何の関係があるのか。

「昔からヒトの魂は背中から逃げていくと言われているわ。そして、いつも背中側にあるのは?」

「影です」

「そう。つまり影さえ取ってしまえば、私達はあなたの影を中継なかつぎに、小鳥遊ちゃんの生気を奪って、果ては魂までも奪ってしまえる」

 それなら最近の気だるさについても説明がつく。

 でも、一週間程症状は軽かった。

「影と言うのは自身の片割れ、普段くっついている分離れれば離れるだけ、お互いの繋がりが薄くなる。そうなると、この世界の他者に狙われやすい」

「もしもその状態で誰かに捕まったら、どうなるんですか?」

「すぐに取って喰われたりはしない。ただ、時期が来るまで相手は待つわ」

 待つ? 何の為に。

「小鳥遊ちゃんが完全に消耗しきって、喰べられる時をね」

 恐らくそうなったら、死ぬ。

 嫌だ。

「それなら、今までにも奪える好機はあった筈です。なのに何で今……」

「影は物体と結び付いて初めて形成されるものでしょう? でもあなたは今まで離れていても、大した問題は無かった。それはね、常にあなたの近くに居たか、或いは、からよ」

「確かに、ぼくの家から出られませんでした」

 それで今まで無事でいられたけど、一体誰が縛り付けたのか、疑問は残る。

「あと、そこの机に手鏡があるでしょ?」

「? はい」

「柱のすぐ側に姿見があるわね。それも使って、自分の首の後ろを確認してみてちょうだい」

 意味が判らず、促されるままに自分の首を見やる。

 信じたくなかった。

「何が見える?」

あざ、みたいな黒いモノが見えます」

 今までこんな痣は無かった。一切見覚えの無い黒い痣。触っても痛くない。

 嫌な悪寒が背筋を駆け抜けた。

「それはあなたの影に付けられた印、の様なモノよ。砕いて言えば標識マーカー

「これ、広がっていくんですか?」

 うなじの痣を手で触れながら質問する。

「広がっていくわ。小鳥遊ちゃんの消耗の度合いによって広がって行くから、狙う奴はそれを見計らってあなたの命を取っていく」


 それから、この先起こり得る事象を手鞠さんから訊いて、時間が過ぎた。

 柱の掛け時計が深夜を打つ。

 遅くまで起きている方だけど、流石に睡魔に襲われる時間だ。

 意識せずあくびが出てしまう。

「もう寝てしまいなさい」

「そうします……」

 船をこぐとはこの事を指すのかと、下らないことを考えながら蒲団に潜り込んだ。

 そしてそのまま落ちていく。


          *

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