五譚 船頭鍋

 三途の川に、一人の青年が木船に仁王立ちになり、流れに任せて船体と共に揺られている。

 あけに染まった様な短めの蓬髪ほうはつ、金色の猫目、そして何よりも目を惹く、内側に曲った羊の角が二本在った。

 彼は三途の川で亡者を岸から岸へと渡す船頭の一人であった。

 青年は普通よりは大振りな、舟を操舵するかしを肩に担ぎ、一塊の白い吐息を吐いた。

 そして誰ともなく呟く。

「年末の仕事終わりぃっと……」

 京弁の訛りが残された、鐘をつく様な、低くそれでいて響く声。

 口許に三日月の様な笑みを浮かべ、その姿は霧中に溶けた。


          *


 年末と聖夜を挟んだ或る日の昼下がり。

 雪が歩道にけられた二段坂を、一定の間隔で駆け下って行く。

 日和は良好、快晴也なり

 石垣の隙間、そこに狙いを定めると、雪を巻き込んで滑り込む。

 視界の端に湿って重い雪の舞うのと、『糸猫庵』の三文字が見えた。

 口の端から白い吐息をらし、硝子戸を蹴飛ばす様に開け放った。

「おら今年も来てやったぞ糸お!」

「うっわ、今年もバカがいらっしゃった」

「誰がバカじゃあい!! 俺の名前は馬鹿ましかじゃごるぁあ!」

 カウンターに置かれた籠の文鳥が騒ぎ、激しい羽ばたきで羽毛が舞った。

 店に居た店主は炬燵に潜りつつ昼食の最中だったらしい。

 炬燵の天板に載った盆には、空になった食器が幾つかと、未だ惣菜がちらほらと残った皿もある。

「あーうるさいうるさい。それより、施錠はしてあった筈ですよね?」

 糸の奴は後ろ頭を掻いて、炬燵に左手をついて気だるそうに立ち上がった。

 完全に口がへの字である。

 こいつは鼻から上が布地に隠されている為、口許と身振り手振りで感情を読み取らねばならない。

 まれに三毛の尾を見せることもあるが、矢張やはり気付かぬ感情表現が多いから、初対面であれば寡黙な奴に見られるだろう。

「で? 今年は何の用です」

 露骨に不のオーラを醸しつつ威嚇する糸を、両手を掲げてなだめて近寄っていく。

 俺は刺激しない様切り出すと、警戒範囲のギリギリに踏み込んだ。

「今年はな、俺が全て準備するから勝手を借してくんねえ?」

 一瞬の間に満ちた静寂。

 糸は口にしなかったが、「はあ?」と大口を開けて言いたげである。

 それは、俺の料理下手を知っているからこそだろう。しかしそれも昔の話だ。

「心配しなくてもなあ、鍋を爆発させたりしねえから。な?」

 昔一度だけ調理中に鍋を爆破し、ここの勝手を大変なことにした事がある。

「年末の忙しい時に転がり込んで来るんじゃないわよ! ぁあびっくりした」

 落ち着きを取り戻した文鳥の手鞠が、苛立った声で咎める様に言った。

 すまんすまん、と受け流し、籠の戸を開いて手を差し出す。

 喋る文鳥手鞠は、とても鳥類とは思えぬ貴族らしい優雅な動きで俺の指に乗った。

 手を顔の近くに持ってきて目線を合わせると、手鞠は、ふん、と鼻を鳴らす。優しい方だ。

 手鞠は毛繕いしながら俺に訊く。

「それで、今年は急にどうしたって言うのよ。いつも坊やに任せきりじゃない」

「今日はちょっとな」

「不穏な未来しか見えないのですが」

 信用0である。

 俺は一つ息を吐いた。

「ま、今日は知らせに来ただけだから一先ひとまず俺は帰るぜ」

 言うと、糸は相当驚いたらしく、口が開いたままで硬直している。

「……何もしないんですか?」

「なあ、寧ろ何が起こると思っていたんだよ」

 肩をすくめると糸と手鞠は顔を見合せ、声を揃えて答えた。

「ガス爆発」

「による店の倒壊」

 ……。

「あのなあ、糸」

「はい」

「店まで倒壊しねえし、させねえよ」


           *


 嵐が過ぎ去った後の店内は平和そのものだった。

「今年も馬鹿ましかが来たね」

 竹籠の手鞠に言うと、そうね、と素っ気なく答えて言う。

「毎年年末の忙しい時期狙って来るけど、やっぱり寂しいのかしらね」

 彼は──馬鹿は、私が幼い頃からの旧知だ。

 丁度これくらいの時期、こいさんの所に転がり込んで来たのである。

 曰く、私とこいさんが出逢うかなり前から互いを知っていたと言う。

 その点は少しだけ羨ましいと思う。

「取り敢えず、土鍋とか用意するべきかな」

「そうね。今年もあの子が満足出来るものにしましょ」


           *


 今年も師走が過ぎ、睦月に手が届く時期になった。

 早朝から市に出掛け、新鮮な物を大量に買い込む。少し買いすぎた位が丁度良い。

 それに今年は趣向を変えようと考えているので、例年の倍買い込む。

 そんな理由をかざし、ひたすら買い込んでいる自分に気づいた。

 普段は地獄に獄卒として勤務し、暮らしている所為か、こうして現世の物品を見て触れて回るのが楽しい。

 同僚の獄卒の中には、現世を──厳密に言えば人間を嫌っている者も居る。

 幸い俺の友人は大体が現世への旅行が好きで、それほど現世を嫌っている奴は居ない。

 両手に大量の紙袋を抱え、ビニール袋を提げ、上りの坂道を延々と登って行く。

 足取りは重いが、顔は嬉々として緩んでいるのが判る。

 傾斜のきつい坂道を登頂すると、解放感で荷が軽くなった錯覚を覚えた。

 そこは住宅街の裏民家町で、昭和の景観が色濃く遺された長屋が並ぶ区域である。

 影と日が混じり合い、ヒトのみならずヒトならざる者が棲む、数少ない町だ。俺の家も此処に借りてある。

 地獄に往き来するのも楽なので、こう言う場所にを持つ者が多い。かく言う俺もその一人だ。

 態々わざわざ現世にまで家を用意しなくても、と言う獄卒も居るが、俺はこの為だけに仕事に精を出していると言っても過言ではない。

 地獄から現世を往復する通行証も決して安くは無く、俺が現世と往き来するのに掛けている金額は並みではない。

 仲間内ではトップだ。

 現世へ来る度にそれを思いだし、帰って通帳を見てはため息を洩らす。

 そんな生活に気付いては苦笑して済ますの繰り返しなのである。

「よう」

 長屋の溝に張られた板の通路を歩いて行くと、丁度今日来ていた同僚に声を掛けられた。

 こいつもまた、この長屋に部屋を借りている。

「お前も来てたのか」

「まあな。お前さんは今年も買い込んでるな。去年より多くないか?」

「別に悪かねえだろ。それより、テメエは事始ことはじめ大競おおぜりに出品するんだろ?」

 他愛ない会話を暫く交わし、また仕事で、と別れ、同僚は部屋に戻って行った。

 その去り際、言葉を残して。

「お前さんも酔狂だよな。往き来するためだけに金積んで」


 俺も部屋に入り、すぐ火鉢と炬燵に火を入れる。

 部屋は十畳の二間で、見た目よりも内装が広いのは現代科学では説明のつけられない所だ。

 茶室の様式を取り入れた数寄屋造りで、太い梁に支えられた構造だ。

 玄関を入ると狭い板間があり、板間を上がると右手に小さめな勝手がある。障子一枚隔てて畳の張られた居間がある。

 居間には《ちゃぶだい》卓袱台と火鉢、それから今は炬燵を出してあり、朝長屋に来る炭売りから炭を買って火を入れる。

 居間と襖を一枚隔ててもう一つ部屋があり、俺はそこを寝室として使っている。

 暖まるまで昼食の用意だ。

 今日は饂飩うどんと決めている。

 買い物籠から冷凍饂飩を一玉取り出し、鍋に水を入れて湯を湧かした。

 便利な時代になったものだ。

 一時期八寒地獄に勤務していた時もあったが、外に放置した食品が全て、今で言う冷凍食品の様になっていたのを思い出す。

 熱湯に放り込んだ冷凍饂飩をぼうと見詰めながら、毎回考えたことをまた考える。

 調理中にいやな奴の顔を思い浮かべると、煮て焼かれている食材にそいつが投影されて、調理が終わった後、酷く頭が爽快としていた。

 何でだ?

 饂飩を待つ間方手鍋に熱湯を用意し、卵を一つ入れ、蓋をして十分ほど放置。

 油揚げの油抜きを済ませ、油揚げで

と豚細切れ肉を一口大に切る。それらを砂糖醤油で煮詰め、甘辛く味付け。

 茹で上がった饂飩を軽く水で締め、どんぶりに黄金色鰹出汁とを入れていく。

 先程の油揚げと肉を盛り付け、方手鍋に放置した温泉卵を割った。

 好きなモノだけ詰め込んだまかない風饂飩だ。

 湯気を上げる饂飩を手に、ニヤケながら机に向かう。

 ふるきセピア色の卓袱台ちゃぶだいに丼と箸を同時に置き、紺の座蒲団にどっかりと座った。

 卓上に乗せられた調味料の中から炒り胡麻を手に取り、四振り振り掛けた。

 部屋中に響く様な合掌。

「──いただきます」

 箸をがっと掴み、それと同時に丼を片手に持ち、麺を口に運ぶ。ここまで僅か0.7秒。

 麺を持ち前の肺活量で啜れば、身体中に鰹出汁が染み渡る。

 汁に肉の油が浮いているが、それもまた良い。

 油揚げを噛みしめ、肉を卵の黄身に絡めて口に運べば幸福で満たされた。

 麺に飽きれば肉を、またそれに飽きれば鰹出汁を飲み、炒り胡麻がそれに引き立て役になっている。油揚げは既に食い付くしてしまった。


 5分で饂飩を食べ尽くしてしまった。

 皿も片付けないままに、畳の上で畳んだ座蒲団を枕に寝転んでいた昼過ぎ。

 微妙に満たされなかった小腹を満たす言い訳

は十分だ。

 冷蔵庫脇の段ボール箱を適当に漁ると、馬鈴薯と薩摩芋をそれぞれ三つずつ発掘した。

 少し頭をひねり、それから戸棚から古びたビニール袋を一枚取り出す。

 馬鈴薯と薩摩芋を一つずつ取って洗い、水気を帯びたまま袋に入れ、そのまま口を閉じて思い付いたレンジに五分ほどかける。

 こうすると時短で蒸かし芋の出来上がりだ。

 袋をオーブンレンジから取り出し、冷水につけて暫くの間冷やす。

 冷やしたら皮を半分ほど剥き、皿に載せた。

 冷蔵庫からバターを取り出し、バターナイフなど洒落た物は無いから、スプーンで抉り取って芋の露出した部分に乗せる。

 すると、触れた部分から徐々に溶けていき、湯気と共に溶けていく様な錯覚を覚えた。

 そこにかぶり付くと、味気ない馬鈴薯がバターを吸ってほろほろと口内で崩れた。

 程好い塩気が馬鈴薯本来の素朴な味を引き立て、また馬鈴薯が濃厚なバターを引き立てている。

 これほど素朴で、つ旨いモノは無いだろうと思う。

 薩摩芋もまた旨い。

 薩摩芋の甘さをバターが最大限まで引き出している。

 馬鈴薯も薩摩芋もそれぞれ二つ食べた頃、ふと良いことを思い付いた。

 残していた残りの芋が冷めてしまった為、如何にして美味しく食すか考えていた。

 既に程好く冷めているので、そのまま素手で皮を剥いて行く。

 野菜皮剥きは無心で作業出来るから良い。

 この作業中もまた、厭な奴に見立ててするとすっきりする。

 皮が剥けたら一口大に切って底の深い耐熱皿に入れ、その上から溶けるチーズを大量に、欲の赴くままに掛けた。

 それを200度に設定したオーブンレンジに掛ける。最高だ。

 六分待ってオーブンレンジから皿を取り出すと、グツグツと煮えたぎる様な熱いチーズが芋を覆い隠していた。

 火傷を防ぐ為布巾を二枚使って皿を卓袱台に運ぶ。布巾の一枚はそのまま下敷きとして使う。

 横着して箸で口に運んだ。

 チーズが伸び、千切れ、箸を入れた箇所から湯気が立ち上る。

 火傷をしそうな程熱く熱された芋とチーズに最初は苦戦しながらも、時間の経過と共に冷めて来た所をがっついた。

 旨い。兎に角旨い。誰が何と言おうと旨い。不味いなどと言わせない。

 皿が空になると俺の腹と心は満足した。

 片付けもしないままに、座蒲団を枕に広い畳の上に寝転ぶ。

 特に何と言う事も無く、ただ天井にある猫の顔に見える染みを見詰めていた。

 不意に、今になって思い出した事がある。

 そう言えば、チーズ焼きはこいさんが糸の奴に作っていたお八つの一つだった。

 糸の奴、こいさんが亡くなってからずっとこいさんの料理を食えて無えんだよな……。


 糸は元から俺達の様な妖怪や幽霊と言った類いの者ではなく、むしろごく普通の人間だった。

 影を所有して居なかった事以外。

 本人は、いつから無かったのか検討もつかない、と言っている。

 その所為か他の何かは今となっては判らないが、糸は短命で、幼くして死亡した。

 その後、不運なことに魂が回収されず、現世に暫く留まっていたらしい。

 その留まっていた期間に剥離していた影が、妖怪化してしまったのである。自我はそのままに。魂は既に回収されていた。

 しかし妖怪や幽霊と言えど、何者にも魂は必要だ。それが糸には無いのだ。

 妖怪にも、幽霊にも成りきれず、かと言って最早ヒトでも無い。魂のない空の器だ。

 それでいて他の魂を受け付けず、器は常に影で満たされている様な状態。

 何者にも成りきれない、と人知れず嘆いていた所を、偶然通り掛かって耳に入れてしまった時は後悔した。

 そんな所を拾ったのがこいさん──もとい、“鯉”と言う猫又だった。

 鯉、と呼ばれていた由縁は、三毛柄が錦鯉の様だったから、と言う。

 それに加えてこいさんは京都の生まれと育ちだった為、京都の風流に基づいた思想によってその様に名づけられた。

 その名の通り、こいさんは美しかった。

 こいさんと俺は京都時代からの数少ない旧知である。

 糸にはその事を羨ましがられたりしたものだが。

 兎に角、昔からこいさんの性格を知っていた俺は、糸を拾った事を知らされた時驚いた。

 こいさんが自ら孤児を、まして何者でも無いを。

 こいさんは元来ヒトを嫌っている傾向にあり、ヒトに飼われていたが、半外猫の扱いになっていた。

 その気高い気性から、当日彼女がヒトと密に関わる事は無いだろう、と噂されていた程である。

 こいさんはその後京都を出、この地に落ち着いた。

 真逆まさかその翌日に、と言われていた奴を拾った、と電報を貰ったのである。

 俺は何事かと慌ただしくこちらに来てみれば、そこに糸が居た。その時が俺と糸の出逢いだ。

 こいさんからは、ほんの気紛れで拾ったのだと聞いている。

 実は糸とこいさんが出逢った経緯について、俺は全く何も知らない。

 ただ、成りきれない影を拾ってどうするのかと、不安と疑問だけが募っていた。


          *


 一度地獄に戻り書類仕事を片付ける。

 亡者を何人向こう岸迄まで運んだか、またその亡者が生前何を為した人物と名前か、船上で聞き出した詳細を書き記して行く。

 三途の川の船頭は、何も亡者を天国閻魔の膝元まで運ぶだけが仕事ではない。

 渡す亡者の名簿を最初に再確認・管理する様な役職だ。

 最初に管理するのは魂を回収する役の仕事だが。

 船で運ぶ前、船頭には毎朝回収役が制作した名簿を手渡される。

 船頭衆は乗せた亡者の素性を聞き出し、その名簿の名前を埋めていく。

 終業迄に名簿を纏め、それを回収役に提出すると、翌日にまた再編された名簿が手渡される。

 その中には、昨日から記されていた者、数年、数十年前から残っている者や新たに記された者。

 どれも違うが、一つ共通することがある。

 俺達は名前しか知らず、また知らなくて良いことだ。

 

          *


 獄卒には宿舎が提供されている。

 五階建ての素朴な造りだ。

 持ち家のある獄卒も居るが、特に若い、新人で比較的給与の低い獄卒が部屋を借りる事が多い。

 俺自身は中堅層の中で、頑張れば持ち家を持てる位の収入はある。しかし家を持たないのは、単なる不精だ。

 そう言った獄卒が宿舎の部屋を潰している、と揶揄やゆする分らず屋も居るから存外に肩身が狭かったりもする。

 だが俺は現世と地獄に二つの住巣を持っている為、それを免罪符に残っている様な感じだ。

 現在世話を任されている新人は、俺と同じ事をして宿舎に残る権利を得るべきか、悩んでいる。

 十畳二間の和室。それなりに入る押入れがあり、襖で仕切られている。

 二間の内訳は四畳と六畳に別れていて、俺の場合、四畳の方を居間、五畳の方を寝室──個人的な空間と定めている。

 京風の作りで、畳が床のほとんどを占めている。

 簡易的な台所はあるが、宿舎の一階に食堂が設けられているため、そこは滅多に使われる事はない。

 宿舎の食堂では平日週五日一日二回の食事が提供されている。なので昼と休日は自分で買うか、この狭い台所で済ます他は無かった。

 明日から週末で予定も詰まっているから、今日は夕飯を食堂で摂ってとっとと部屋に戻る事にした。


 俺の部屋は幸運にも二階の角部屋かどべやで、窓が二面にある。しかし北と東に面しているから夕方から薄暗くなる。

 東側の窓の外は木に遮られており、丁度日陰になって朝日も遮光された。

 夜は尚暗くなって、寒い。

 怖い。淋しい。


 俺の家系図は特殊だ。

 何処にも存在しない程特殊で、どう言う意味かと言うと、兎に角繁雑としているのだ。

 俺が知っているのは祖父の代までだが、残っている家系図を漁ればまだ出てくるだろう。

 まず祖父はごく普通の鬼で、祖母は雪女。どちらも八寒地獄の出身だ。

 次に俺の父親は、中欧の北方から来た山羊の角を持つ悪魔、母親は、祖父母の娘である。

 孫の俺にはほとんど全ての遺伝を受け継ぎ、金目は祖父、山羊の角は父、赤い蓬髪は歴代の誰かは知らない。

 それは家系図をめくる事だ。

 しかし不思議なことに、全員八寒地獄や外国も北方など、寒冷地の出身なので寒さにだけは異常に強い。

 父や祖母の様な混血ではないの人物は、馬鹿家の家系図では珍しいのだ。

 何代か前にも外国産の血が混ざっているらしく、それを示すかの様に祖父は鼻が高かったし、目も黄金色だった。

 この様に馬鹿家は混ざり過ぎている。

 京都で代を重ねた格高い家ではあるが、それでも混血に混血を重ねた家系である。

 特に俺は、混ざり過ぎたあいだ。

 他に兄妹は居ないから、今は俺が四五代目馬鹿家家長よんじゅうごだいめましかけかちょうである。

 名字ゆえ、混血のバカ、と揶揄される事には慣れている。

 慣れていた振りをしているだけの餓鬼がきだった。

 家長として最低限の体裁が求められ、合の子ゆえに差別され、出世は見込めず、苦しい日々が続けど自殺も、踏ん切りがつかないままに。

 昔、死場所を求めて現世を歩き回った時があった。

 さりとて、見た者を不快にする俺には何も見つからず、路上の野良猫、野良犬にまでも敬遠され、飲まず食わずの末に、路地裏に倒れ込む始末だった。

 そんな時だった。

 京都時代からの知己だった、鯉と再会したのは。


 ──あらぁ何してはるんやこないなとこで。


 そこまで思い出して、朝、目が醒めた。

 中途半端な目醒めに苦情の一つも言いたい気分だが、夢にそんなことは言えない。

 冷え込む日陰と北方から渡って来た白鳥の鳴き声の下、渋りながら起き上がる。

 酷い寝癖のついてしまった蓬髪を掻き、欠伸あくびを一つ。

 それから蒲団を畳み、万年床にしておく訳にもいかないので、押入れに無理矢理押し込む。

 寝間着を着替え、冬物を三枚着込み、裏地の付いた羽織を羽織った。

 ここは、地獄は八大でそれなりに暖かいが、冬は矢張冷える。

 一時期を過ごした八寒よりはまだ良い、と聞かせて部屋を出た。

 部屋を出ると、昨日現世で会った同僚に見つかった。

「よっ。お前は八寒の生まれなのにやっぱり寒いのか?」

「うるせえよ、だあってろ」

 こいつのからかいに付き合っている暇と情は生憎あいにく持ち合わせてい無い。

 無視して廊下を小走りに過ぎ去るに限る。

 同僚は、おぉ怖い怖い、と苦笑して俺の背を見送っていた。

 朝食は食堂で手っ取り早く済ませ、その足でそのまま現世に向かう。

 現世と地獄を繋ぐ黄泉比良坂よもつひらさか関門せきもんに通行証を提示して通過。

 通行証も決して安くはない。

 だが既に慣れた。

 ただでさえ人通りの少ない黄泉比良坂を駆け上り、最高点に達すれば、目が潰されるかと思う程の白光びゃっこうと濃霧に包まれる。

 その途端重力や物理法則と言ったものが消失し、浮遊感と目眩に襲われた。

 それでも光と濃霧の先を躊躇いなく進んで行くと、不意に足許の地面を踏む。

 これこそが、現世と地獄のさかいなのだ。

 現世に往き来する地獄の住民は少ない。その所為か、この幻想的な風景を知る者もまた少ないのである。

 個人的だが、非常に勿体無いと思う。

 そんな事はさておき、時間は無尽蔵ではない。急がなければまた地獄に帰る時になってしまう。

 ほとんど不老に近い俺達が、時間は無尽蔵ではないと言うのも可笑しな話だが。


 現世の裏民間町により、部屋に置いた食材と、その籠を両手に提げた。

 その足で糸猫庵に足を伸ばす。

 久々の帰郷だ。帰郷と言うより、親友か、そうでなければ悪友の家に遊びに行く様な感覚を覚える。

 

 白い吐息を吐き、坂道を駆け上がる。

 珍しく雲の無い空を、鯨が泳いでいる。

 石垣の隙間に狙いを定め、草野球のホームランの様に滑り込んだ。

 硝子戸の取手を軸に上半身を捻って体勢を変え、体重を使って戸を開け放った。

「来てやったぞ!」

 静寂。

 の店内にわびしく反響する俺の声。

「おい、糸何処言った? 手鞠も……おい? なあ」

 店内は文字通りがらんどうで、常にカウンター近くの専用台に居る手鞠も、文鳥の籠すら無い。

 両手を塞いでいた荷が床に落ち、くぐもった音を立てた。

 二人の面影を探し、暫くの間、無意味に店内を彷徨うろつき廻る。

「いねえな……」

 一段高い畳席に腰を下ろし、一度息を吐く。

 提灯の灯も、煮炊の煙も、話し声もしない、俺の知らない糸猫庵。

 寒く、暗い、むじなの穴蔵の様な狭い店内。

 落ち着かない圧迫感に、息が苦しくなりそうだ。

 落ち着け。

 大丈夫。

 一人じゃない。俺は──

「馬鹿さん?」

 頭を抱えていた所に、入口から聞き慣れた声がした。

「糸……」

「何で店に居るんですか?」

 逆光で糸の姿は霞んで見えた。幻覚だろうが。

「いや、あのな……。まあ察しはついてるだろ。年末恒例のあれだよ」

 糸は後ろ頭を掻きながら、硝子戸の付近に放置された袋を指して言う。

「それはどうでも良いです。それよりこれは何ですか。店先を散らかさないでください」

「…………すまん」

 そこからはほとんど無意識な談話が始まった。

「今年は何をするんですか」

「そうだな。取り敢えず鍋だ鍋!」

「恒例ですけどね」

「あーそう言えば手鞠はどうした? さっきから姿が見えないんだが」

「それについては……実を言うと風邪を引いてしまって」

「成る程な。じゃあ今は別の場所に居るんだな」

「はい。こいさんの旧知に預かって貰っています……悪い事をしました」

 俺は糸の背中をバンバン叩いた。

「落ち込むなって」

 こいつの周りでは、こいつの執着が強い分、失うモノが多いんだ。


 厨房に立ち、ついでに糸にも手伝わせる。

「今年は何鍋ですか?」

「豆乳鍋だな」

 会話を交わしつつも手は休んでいない。

 糸は人参を花形に切り、俺は白菜の葉を刻んでいた。

「豆乳鍋は品書しながきに追加したばかりなのですがねえ」

「あ? そうだったか……?」

「長いこと来ていないから情報が入って来ないだけですよ」

 突き放す様に言って、今は俺にしか追えない視線をそらす。

 俺はそんな糸を久々に見て、意識しないままに顔が緩んだ。

「やあっぱり手前てめえ、俺が来ないと寂しいか? ん?」

 糸は尚も目をそらして人参を切り続ける。

 

「」

「……」

「はぁあっ!? お前、年重ねるごとに俺に辛辣になってねえか」

 頬の掠り傷を右手で軽く撫でると、即座に傷は塞がった。

 回復力が高く、壊れにくいのが獄卒に付加された特殊能力でもある。

「横で逐一ちくいち小うるさいんですよ」

「くっそ可愛くねえの……」

 その後は必要な事以外は一切口を開くこと無く、鍋を火にかけた。

 俺は鍋の番がてら、火の入った炬燵で暖を取っていた。

 糸は厨房で何品か作ると言って、小休止も断って今も手を動かし続けている。

 その一挙手一投足を目で追ってしまう。

 糸の取る所作一つ一つに目を配れば、こいさんのそれと全く同じなのだ。

 俺の中で糸は、こいさんを連想し、記憶を再生させるトリガーになっている。

 

 時刻は午後六時を周り、腹の虫が抗議をし始めるころだった。

 壁に投影された窓の外は完全に日が落ち、空を覆う厚い雲から新たに雪が舞始めている。

 雲の向こうには鯨が泳いでいるらしく、鳴き声が僅かに聞こえる。

 あれが何なのかは全く知識が無い。

 あれはただ空を泳ぐだけの鯨なのか、或いは、もっと違う。或志を共有する者達の象徴か。

 判ることは、別段知らなくとも良いことである。

 厨房ではまだ煮炊の煙が上がっているが、糸にその手を止める気は無いらしい。

 十分程前、火にかけた鍋は具材が増え、食欲をそそる匂いがそこかしこに立ち込めている。

 白滝しらたき榎茸えのきだけ牛蒡ごぼう、更に油揚げと肉団子が追加された。

 具材が多い分少し不恰好になってしまったが、構わない。

「これまた随分と具が多いですね」

 不意に視界外から降った声に振り向くと、背後に糸が立っていた。

「いつの間に終ったんだよ」

「つい先程ですが」

 流石に手が早い。

「具が多くても別に構わねえだろ」

 俺が言うと、糸は分かり易く顔をしかめる。

「これは二人分の量ではありませんよ。成長期ではないんですよ」

 俺はその答えを待っていた。

「それに関しては問題ない」

「は?」

 時計に目をやる。もうすぐ来る筈だ。

「来たよ~糸!!」

 硝子戸を押し入って来たのは、野干の娘だった。

 小麦畑の様な金髪を持ち、目は紫で、光の加減よって黄金にも見えるから不思議だ。

 声は高いが時折低くもなり、感情の動きをそのまま体現している。

「鉄穴さん? 閉店時に来ることはないですよね。どうしたんですか」

 鉄穴と名乗る野干は、愛想の良い笑みを浮かべて長外套に付いた雪を払って言った。。

「え? 糸からこんな手紙貰ったから有給とって来たんだけど」

 言って、懐から一葉の葉書を取り出して掲げて見せる。

 糸はそれをまじまじと見詰め、数秒して、顔をひきつらせた。良く注視しなければ判らない程だが。

「招待状ですか……」

 そして葉書に一通り目を通し、こちらを睨んだ。それこそ目隠しの下に隠されて視えないモノだが。

「他にも何人か出してる筈だけど……まだ来てないみたいだね」

 鉄穴は店内を見回しながら呟いた。それに糸は過敏に反応する。ぎこちなく鉄穴の方を振り向き

「……今……何と、言いましたか。鉄穴さん」

 と、まさしくぜんまい仕掛けの様に言葉を紡いだ。

 常に余裕が浮かんでいる口許はひきつっている。

 彼女は勝手知ったる他人の家、と言った風に俺の隣に座り、炬燵で暖をとり始めた。

 悪戯いたずら卓上瓦斯焜炉たくじょうがすこんろの火に息を吹き掛けて、糸の反応を楽しんでいる様に見える。

 糸は無言の圧力でもって、俺に弁明と説明と言い訳を訴えている。

 察しはついているだろうが、事は話さなければならないと思い、面倒で重い口を開こうとした。

「こんばんは!」「鉄穴は来とるかの」

 入口から二人分の台詞せりふと幼いのと年老いた声が響き、糸は勢いよく首を捻った。

 そこには子供と老年が二人立っていて、どちらもこの店の常連だ。

 子供の方は、外套で隠されているが痩せていて、背丈が低く、年齢の推測がつけづらいところがある。

 白に近い銀髪で、髪一本一本が細い。

 目はくすんだ苔色のモノを持ち、それは陰っている。

 男子にしては声が高く、幼いとは言え稀な程だった。

 一方老年は嗄れていて、背が高い痩せぎす。

 しかし身に付けている着物は上品なモノで、時折見せる所作も、それに見合った上品なものだった。

 服に着られている、と言う感じはしない。

 ざらついてあまり抑揚の無い声で話すところは歳を感じさせるが、優雅な所作によってそれはかき消される。

 そして炬燵を目にするや否や、鉄穴と同様に、一段高い窓際席を囲む。

 糸はゆっくりと時間をかけて俺の方を振り向いた。

「どう言う訳でしょうか? 馬鹿さん?」

 不可視の視線が痛い。

 構図が完璧に聴取か尋問か、さもなければ拷問である。

 俺は息を吐いて、再び重い口を開いた。

「……えーとな、……すまん。」

 顔の前でパンッと両手を合わせ、頭を垂れて言う。

「お前がここ最近で仲良くなった常連達の個人情報調べまくって、お前の名前で手紙送った」

 上目遣いで糸の顔を見ると、その瞬間、頭を叩かれた。角を避け、頭頂部に綺麗なチョップが決まった。

「何をしてくれているんですか……本気で殴りますよ」

 いや、お前がここ最近自ら口を開く様になったから理由を調べたかったんだよ。

 だから握り拳を作んのは止めろって!

「待った待った待った! お前のグーは結構痛いから本当に止めろって、おい! 料理をする手を痛めても良いのかよ」

 必死になって叫ぶと、糸は震わせていた手を開き、深いため息を吐いて、諦めた様に卓につく。

 その様は、さながら疲弊しきった営業人サラリーマンだ。

 そしてため息混じりに、漸くと言った風に口を開く。

「豆乳鍋」

「……あ?」

「もう良い塩梅あんばいなのでしょう、これ」

 そう言って湯気の噴き出す鍋を指差す糸は、口許が緩んでいた。

 俺は、ああ、とだけ言って頷き、傍らにあった濡れ布巾で蓋を掴み、開けた。

 堰を切った様に立ち上る湯気が収まれば、その全貌があらわになる。

 白く濁ったつゆに浮かぶ具材は様々で、飾り切りにした人参を初め、豚肉、萌やし、青菜、豆腐が入っている。

「糸さん、今日は何鍋ですか?」

 その時、常連の一人、名前は忘れたがその内の子供が糸に話し掛けた。

 良く見ればその子供にはあるべき影が無い。

「そうですよ。今晩は豆乳鍋なので、シメはお粥にでもしましょうか」

「えっ? やだ何それ美味しそう」

 その子供の横に座っていた野干の娘がよだれを垂らさんばかりに食いつく。

「これ鉄穴、相変わらず行儀が悪い。悪癖はとっとと直せ」

 鉄穴と呼ばれた彼女をぴしゃりと叱りつける老人は、見るところ百年近く生きた付喪神らしい。

 今卓を囲んでいる面々は、俺の右隣に子供、その隣──俺の正面に糸、次に鉄穴、最後に俺の左隣が老人である。

 三人の常連客を順々に見回し、つくづく奇妙な関係性だと思う。

 付喪神と野干に影の無い子供。

 昔は話すのすらやっとだったって言うのに、ここまで交流を広げるとは。

「あの……」

 訳もなくしみじみと回想していたところに、影の無い子供が俺に声を掛けた。

「んあ? 何か用か?」

「えっと、その……」

「馬鹿だ。馬に鹿って書いてな」

「はい! 馬鹿さん。馬鹿さんは、糸さんとどう言った仲なんですか?」

 訊いてくる目は、年相応な好奇心の色で満ちている。

「んー……そうだな、古い馴染みってとこだな。多分お前が思ってるよりも古いぞ」

 そう答えると、そうだったんですか? と以外そうに言う。

「所で、お前さんは、何て名前なんだ?」

「はい、ぼくは小鳥遊と言います。小鳥が遊ぶ、で“たかなし”です」

 珍しい名字だな、と自分の事は置いて、名字だけ名乗った事に違和感を感じたが、今は言い出せなかった。

 小鳥遊は丁寧に頭を垂れて礼を言うと、小皿に鍋の具材を取り始めた。

 しかしその量が外見年齢にしては少なく、心配になるので玉杓子たまじゃくしでよそってやる。

「もっと食っとけ。これからまだ育つんだ」

 言って、俺も玉杓子で一気によそる。

 小鳥遊を横目で見ると、少し、いや割と困った表情を幼い顔に浮かべていた。

 やってしまった、と悟った。

 折角の卓を濁してしまい、誤魔化そうと小皿に多く具を入れる。

 それを口に掻き込むが、熱くて味は判らない。

 そんな時、鉄穴の隣に座った老人が手を置いた。

 振り向くと、既に酒瓶は開封済らしく、右手に酒杯を掲げている。

「獄卒さん。冥土の土産を肴に一杯どうじゃ」

 俺は黙って頷くと、いつの間に用意していたのか、硝子製のカップに酒瓶から注いでくれた。

「ありがとうございます」

 年上相手には条件反射で口調が落ちつく。

「構わんよ。ああ、まだ名乗ってもいなかったな。奇妙なことだ。儂は春秋と申す。付喪神じゃが、古物屋をやっとる」

 春秋と名乗った付喪神の、しわの多く刻まれた顔に浮かぶ笑みは綺麗だった。

「俺──いえ、私は三途の川で船頭の役についている、馬鹿と言います。以後、お見知り置きを」

 互いに自分を紹介しあったら、そこからは自然と呑み比べが始まる。

 俺達の世界ではよくあることだが、独特なんじゃないだろうか。

 勿論酒の呑めない子供は置いてきぼりになる訳だが、子供は子供で楽しんでいるのは、現世も変わらない。

 現に、小鳥遊は俺が強引に盛り付けた皿に箸をつけている。

 俺は再び、適当に小皿に盛り付け、酒杯を傾けた。

 あー……最高。

 大きく切った具材に湯葉が絡み、野菜の甘味と出汁の塩が互いに引き立て合う。

 豚肉に味付けは要らない。素材その物の味が最高に旨くなる。

 豆乳鍋に豆腐、と言うのも何だか、とは一度考えた事だが、良い。

 いつもの湯豆腐が一層旨い。

 野菜や豆腐を一気に掻き込む、そして酒杯を傾ける。

「っああーーー!!」

「うるさい」

 思わず叫んだ俺に、糸が叱りつける様に言い、手を軽く叩いた。

「あ? いやあー可哀想だなお前はよお、酒に弱いばっかりにこの楽しみと旨さが判らねえなんてよお!」

 まるで酔っぱらいさながらに絡んで見せると、あぁはいはい、と手を振って払う。

 毎度思うが、年々扱いが粗雑になっている。

 こいさんが居た頃はまだ可愛げがあったのに。

 この野郎。

 あぁでも──。

 昔のこいつって、どんな顔してたっけか。

 変な回想はしたくない。最近思い出すのは苦いものばかりで、暫く過去から距離を置きたい気分だ。

 気晴らしに酒を1合煽った。

 そうこうしている内に鍋は寂しくなり、大量に買い込んだとは言え、矢張五人がかりだと消費が早い。

 今までは三人か、二人分用意すれば良かった。その頃の名残だろう。

 反省と共に酒を喉の奥に流し込んでいると、不意に糸が席を立った。

「どこ行くんだよ」

 こいつが食事中に席を立つことは無い。

 その気性を知っている俺は、糸を思わず静止した。

 すると糸は振り替えって、

「米を取ってくるんですよ」

「米?」

「シメです」

「雑炊か。なら俺の買い物籠から溶けるチーズ持ってきて」

 それだけ伝えると、黙って頷き、厨房へ姿を消した。

 ふと気づいて、柱にある古ぼけた壁掛時計に目をやると、時刻は午後七時を回っていた。

 こんな時間まで子供を滞在させていて良いものかと、小鳥遊に、時間は良いのか、と尋ねた。

「親に了承は取ってあるのか?」

 気のせいか、一瞬伏せられた目に嫌な色が通り過ぎた。

 しかし次の瞬間、ぱっと電気が灯いた様に明るく振る舞い始める。

「はい。八時まで自由にして良い、と言ってくれたので、まだ大丈夫ですよ。……どうかしましたか?」

「いや、何でもねえ。それよか、もうすぐ年が暮れるけどよ、小鳥遊はどうするんだ?」

 そう、今日は大晦日である。

 各家庭では、年末掃除を終え、夕飯の支度も終了し、家族で卓についている様な時間帯なのだ。

 それをここの常連客達は、寂れた場所で過ごしている。

 仕事柄、こう言った人間の話を聞くことは多い。時代が進むに連れ、こんなのは年々増えている気がする。

 そんな奴らに感化されていては、地獄で長く勤務出来ない。

「ぼくは……家に帰ったらすぐに寝ちゃいます」

「初夢でも狙うってのか」

 笑いながら返すと、小鳥遊は照れながら答える。

「そうですね。毎年今日だけやる恒例行事があるんですけど、枕の下に七福神と宝船の絵を入れて寝るんですよ」

 恒例中の恒例だな、と酒杯を傾けながらまた耳を傾けた。

「それで、毎年良い夢は見られてるのか?」

 そう訊くと、小鳥遊は首を横に振った。

「いえ、今までは。──でも今年は良い夢が見られそうです」

 その先は敢えて口をつぐみたいのか、何も言わなかった。

 でも口許は緩んでいる。

 そこへ糸が、米を盛った丼を片手に卓に戻った。

 俺は糸が米を入れるのと同時に、瓦斯焜炉の火をつける。

「馬鹿さん、暫く火の番を頼んで良いですか?」

「任せとけ」

 それだけ言い残して再び厨房に消えていった。

 消えた、と言っても、カウンター越しに姿は見えるけどな。

 任された火の番をしていると、昔のことを思い出す。

 こうしてここで鍋を食べる時は、こいさんは俺に鍋奉行を任せ、いや、半ば押し付け、その隣で糸は飽きもせず、焜炉の火を眺めていたものだ。

 くそ、もういつの記憶だよ。

 誤魔化す様に木箆きべらで米の塊を崩す。

「お待たせしました。箸休めに湯葉刺を作りました」

 そう言えば昼間、糸が何か作っていたな。もう一品足りないとかで。

 あの時作っていたのは湯葉刺だったか。

 手際良く並べられる皿に芸術的に盛られた、薄い四角形の湯葉刺は、間に紫蘇の葉が挟まっており、刻んだ海苔とおろしわさびがのっている。

 早速箸をのばして一つ口に入れると、酷く懐かしいモノが底から込み上げた。

 どうして。

 どうやったら、ここまで同じものを作れるんだよ。

 忘れもしない、よくこいさんが作っていた味だ。

 無意識に作ったとは思えない。

 味付け、薄さ、形、どこを見てもあの人そのモノの味。

 寒そうに炬燵に入り直す糸を、思わず見詰めていると、とても不思議そうな表情をしていた。

「? ……何です?」

 湯葉を口に運ぶ直前の、口を開いたままの姿勢で物を言ったので、隙間から僅かに八重歯が覗いている。

「いや、お前さあ……どうやったらここまで再現出来るんだよ」

「何のことですか?」

 再び聞き返してきた事に少し腹が立って、意図せず強く言ってしまった。

「惚けんな! これの事だよ。ゆ、ば、さ、し! こいさんの味だろうが」

 糸は相変わらず口を開いたままだったが、今度は違う。

 本気で相手の言っている事が解らない顔をしていた。

「私は……あの人からあの人の味付けは教わっていませんよ」

「お前も好きでよくねだってただろ? こいさんに、それで、習ったんだろ?」

 両手で肩を掴んで揺すると、手を叩かれた。

 糸は、怯えた様な顔をしている。

 こいさんの居ない今、こいつの表情が判るのは俺だけになっている。

「すみません。私の好物すらもう思い出せないのです」

 自分が目を見張ったのが判る。

 影法師は、一部の者に或る症例が見られる。

 影に自我を侵食されていくのだ。最初は軽い物忘れ、次に記憶喪失、最期は自我が消え失せ、ただの影となって地に溶けるのだ。

 俺はゆっくりと掴みかかっていた肩を逃がすと、糸はため息を一つ吐いた。

「すまん」

「良いですよ。美味しい内に食べてしまってください」

 一つ頷き、もう一つ湯葉を掴んで口に放り込む。

「それよか、お前の好物はこれだろ。ほれ、あーんしてやろか? 昔やったろ」

 ふざけ半分で湯葉を眼前にかざすと、こいつは調子を取り戻したのか、叫びながらかかってきた。

「黙っていて下さい! そんな昔の記憶も残っていませんよ、何、何を言っているんですか!?」

 きっと顔の半分以上を隠している布の下では、赤くなっていることだろう。

 それを示唆する様に、猫の様な癖毛の隙間から、赤い耳が覗いていた。


 湯葉刺が皿から無くなる頃には雑炊が出来ていて、最後に溶けるチーズをかけたら完成だ。

 先程よりも大きい皿を用意してもらい、玉杓子で大盛にする。

「っ熱」

 不意に声がしたので、声の主を捜せばそれは小鳥遊のものだった。

 どうやら雑炊を熱々のまま口に運んだらしい。

「真ん中に穴開けとくと早く冷めるぞ」

 そう指摘して小鳥遊の皿に手を伸ばそうとした瞬間、はっと自分の世話焼きに気付いた。

「……いいか? 世話焼いても」

 尋くと、小鳥遊は恥ずかしそうに頷いた。

 俺は努めて笑顔で見せ、小鳥遊が差し出した皿の雑炊、その中央に匙で穴を開ける。

 俺の皿は既に対処していたので、程好い温度に冷めていた。

 匙で掬うと白く黄色いチーズが伸び、針の様に細くなって最後は切れる。

 口に運ぶと、チーズによって中和された出汁の、少々強い塩気が広がり、残っていた野菜の甘味が後から追って来る。

 人類はどうしてこれほど罪な食材をと調理法を発明してしまったんだ。

 旨い。

 気づいて見渡せば、この卓では、子供も、野干も、付喪神も、地獄の船頭も、影法師も、文字通り同じ鍋の飯を喰らって生きていた。


          *


 夜もふけ、小鳥遊は帰宅する時間が迫り、二本あった酒は尽きた。

 鍋も空で、あれほど買い込んだ食材が全て消費された事を示している。

「じゃあ私は帰るけど、師匠はどうする? でもどうせ一緒に帰るでしょ?」

 入り口付近に立った鉄穴が、上着などを着こみ、帰宅の準備をしている。

 それ答えようとする春秋は、飲み過ぎたのか酔いが回っている。

「……すまんが、家まで付き添ってくれんか……」

 笑って答える鉄穴には、恐らくこう言う事がしょっちゅうあるのだろう。

 そして鉄穴は華奢な見た目に反して、なんと老爺ろうやを肩に担ぎ、店から出ていった。

 自分も後ろ髪をひかれながら帰り支度に手をつける。

 面倒で逃げたくもなるが、明日も仕事だ。早く寝なければ差し支える。

 炬燵から這い出、持参してきた空の籠を手に取った。

 その時、背後から不意に肩を叩かれた。

 背後を振り向くと、糸が立っており、その奥に見える厨房では、調理鍋から湯気が立っていた。

「今年も食べて行きませんか?」

 そう言って厨房の方を指差す。俺はニッと笑みを浮かべ、ああ、とだけ答えた。

「年越し蕎麦。だな」

 いつからか、糸が料理をし始めたその年、今日の様な大晦日に作って、振る舞ったのが始まり。

 それ以来、大晦日、忙しい時は年末のいずれか、糸の作る年越し蕎麦を食べるのが恒例になった。

 本当にあの頃は可愛かった。うん。

「出来ましたよ」

「速いな」

 素直に感想を溢すと、得意気に笑みを浮かべた。

 運ばれた丼に、蕎麦と共に浮かぶ具材はいかにも余り物、と言った感じで、形が不揃いで、葉野菜や根野菜など、ごった煮になっている。

 これも、毎年余った材料で作ると言う恒例行事だ。いつ始めたかも判らないが。

 人参と玉葱のかき揚げ、刻んだ油揚げと、大根おろしが入り、天かすと刻み葱が浮かんでいる。

 今年は昨年より豪華だ。

 昨年は直前に口喧嘩を勃発させ、その時は蕎麦だけ入った丼が出された。

 比喩抜きの蕎麦のみ。なけなしの葱も無ければ出汁も無い。茹でた麺のみがあった。

 泣いて懇願した結果、出汁と刻み葱が追加された。

「卵も要りますか?」

 いつの間に用意していたのか、機嫌が良さそうに片手に卵を二つ持っている。

「要る」

 即座に答えて受け取り、片手で殻を割入れる。

 差し出されたわんに抜け殻を放り投げ、箸に手を付けるや否や、互いにがっつき始めた。

 しかし糸は上品に、俺は文字通りがっつきながら。

 鰹ベースの出汁に隠し味の生姜、少々舌が痺れるのを生卵が和らげ、まだ汁を吸っていないサクサクの天かすが更に箸を進める。

 その勢いで一息に蕎麦をすすると、満足感に満たされる。

「相変わらず食べ方汚いですね」

「相変わらず言うな!」

 確かに糸の周囲につゆなどは一切零れていない。俺と比較すれば一目瞭然だ。

「くそ……」

 無心で卵をぐちゃぐちゃにかき混ぜ、麺に絡めて食べるのが旨い。

「言葉遣いもですか」

「おカン!」

 

 丼が空になると時刻は午後九時を過ぎ、外は灯り無しでは歩き廻れない程に暗くなった。

 厚い雲の向こうから、時折鯨が巨体を覗かせているのか、唸り声が近くなり、また遠くなる。

 こうも暗くなってくると、帰路につく気も起きなくなる。

 大分薄れたとは言え、酒も入っている。

「なあ、一泊泊まってもいいか」

 そう何となく問うと、厨房で今年最後の後片付けをしていた糸が、声だけ返して快諾する。

 と言うのも、酒が入れば泊めていくのも年末行事の一つだからだ。

 これはこいさんから始まり、糸に引き継がれているものだ。

「どうせ明日も早いでしょう。とっとと休んでください。少し待っていてください、毛布を持って来ます」

 座蒲団を畳んで横になり、頭の下に敷き、微睡まどろみに任せ静かに目を閉じれば、後は炬燵で寝落ちするのだ。


 昔糸と初めて出逢った時の記憶を再生している。夢だ。

 こいさんから影法師を拾ったと一報を受け、休暇を待ってこいさんの元を訪ねた或る日のこと。

 このころからこいさんは喫茶を一人で切り盛りしていて、それが糸猫庵の基盤になった。

 初対面の糸は今よりも遥かに小さく、常に他者の後ろ──影に隠れている様な奴だった。


「──なあ、何でまたこんな奴を拾ったんだ?」

 俺が訊くと、厨房で手を動かしながらこいさんは答えた。

「ほんにねぇ。正直に言うて、わたしも何を思うてこないなことしたんやろか、不思議なんやわぁ」

 優雅な京弁での曖昧な返答に肩をすくめ、厨房の端からこちらを覗く糸に手を振ってみる。

 すると驚いた様な表情をして、口をぱくぱくと動かしている。

 話聞いたところでは、つい最近怪奇化──つまり霊から妖怪化──したばかりらしい。

 その為まだ馴染んでいないのか、口が聞けないのだろう。

 こちらから見えない所へ隠れてしまった。その後を階段を昇っていく音が追った。

「あらあら。逃げられてはるねぇ、あんた」

「うるせえよ」

「あらぁそないな汚い言葉遣いでぇ。言葉には言霊はんが宿りますのに、まぁ」

 大袈裟に俺の言葉遣いを嫌がって見せるこいさんは無視して、話題の舵を別方向に切る。

「あと気になってたが、何で糸って名前にしたんだ?」

 こいさんは形の整った顎に手を添え、考える素振りを見せるが、あまり考えていないことを識っている。

「……そりゃあ、あの子は針みたいに細いからや。痩せ過ぎなの。でも、針子って名にする訳にも、いかんでしょう?」

「だから針とセットで糸ってか」

「そうなのよぉ。我ながら、可愛いお名前だと思うわぁ」

 そして、ふふふ、と微笑みながら包丁をまな板の上で踊らせている。

 こいさんが成損ないの影法師を拾った理由が判った。

 誰でも良いから手料理で喜ばせたいからだ。

 思い起こせば、昔から知人でも訪れては何か一品振る舞っていた。

 恐らく糸は、今のこいさんにとって欲を満たすに丁度良い存在。

 与えられた名前の通り痩せ細って、幾らでも食べる。優しくすれば懐く。

 そんなことを考えながら、ひた響く包丁と煮炊きの音に耳を傾けていた。


 早朝に目が醒める。

 今日も仕事が早い。慣れたのだ。

 ふと気づいたが、俺が炬燵で寝落ちした後、糸が毛布を掛けてくれていた。

 心地好さに後ろ髪を引かれながら、毛布を畳み、着物の襟を正す。

 立ち上がって伸びをすると、軽度の立ち眩みに襲われるもすぐに治まる。

 袖の下から手帳と一本きりの鉛筆を取り出し、手帳の頁を切った。

 紙片に書き込もうとした瞬間、階段を下る音が追った。

 厨房の方に目をやると、糸が起きて来た所だった。柱の掛け時計に目をやると午前五時、こいつはそれよりも前に起きる奴だった。

 糸は厨房で素早く作業を済ませると、昔より二回りも大きくなった手に、何かの包みを持ってこちらに寄って来る。

「もう出るなら、これどうぞ」

 そう言い捨てて手渡したのは、握り飯の包みだった。

 その時また昔のことが思い出された。

 こいつがまだ料理を覚えたての頃、不格好に握った握り飯を手渡して来たことがある。

 今の構図はまさにあの時だ。

「……ふっ」

「? どうかしましたか?」

「いや。昔さあ、全く同じ感じで手渡してたなって思い出して……ぶふっ」

 懐かしさに笑いを堪えきれなくなって、溢れた想いが笑いとなって吹き出してくる。

 糸は耳の先まで赤くし、包みを押し付けると即座に踵を返し、階段を昇って逃げてしまった。

 俺は遂に大笑いしてしまい、腹を抱えながら硝子戸を引いて店を出た。

 道はまだ日が昇っておらず、雲が厚くたれこめていて暗い。

 遠方に響く鯨の咆哮に耳を傾けて、二段坂を上がっていく。

 時間を掛けて黄泉比良坂に辿り着き、通行証を掲げて地獄に入る。

 職場である三途の川に着くと、そこには俺の船が待っている。

 船に乗り込み糸から手渡しされた包みを開くと、大きめな三角形の握り飯が三つと、付け合わせの沢庵が入っていた。

 座り込んで一つ手に取り食らい付く。一口で三分の一ほどが胃袋に消える。

 米と少々の塩だけの素朴な味付けで、巻かれた海苔が味を統制している。

 またかぶり付くと、米以外の味が舌に広がった。

 見ると、茹でた鶏肉と梅紫蘇が米の中にあった。

 鶏肉は控えめながら塩で味が整えてあり、梅紫蘇と互いに引き立て合う。

 四度目で一つ食べ尽くしてしまった。

 他の二つはそれぞれ塩鮭、野沢菜漬けだった。

 沢庵を口に放り込み、水筒に用意した熱い茶を啜りながら、不意に涙が溢れた。

「あの野郎……」

 誰も居ないのを良いことに、独白する様に独りごちる。

「昔の再現しやがって……」


          *


 本日の料理

 ・まかな風温泉卵饂飩おんせんたまごうどん

 ・蒸かし芋と薩摩芋のバター添え

 ・じゃが芋と薩摩芋のチーズ焼き

 ・豆乳鍋

 ・湯葉刺

 ・豆乳チーズ雑炊

 ・年越し蕎麦

 ・三種おかずの握り飯

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