三譚 世話役五徳猫

 昨日は雪がちらつきそうな寒さだった。

 しかし糸猫庵は繁盛で、理由はと言うと、店をまるごと使った宴会があったからだった。

 客はとある山の猫又衆で、十五人程で飲み食いしていた。

 私──鉄穴が、糸猫庵に訪れた時の事だった。

「今日はちょっと飲もうと思ったんだけどなぁ……」

 この分だと宴会は夜まで続くだろう。ちなみに今夕方四時になる。

「まあいっか、友達誘って飲も」

 諦めて明日出直そうと、踵を返す。

 ふと店内を見ると、宴の輪の中心に一人の老人(猫)が囲まれていた。

 銀髪で、ちらりと見えた横顔には、えくぼと深いしわが刻まれている。

「……まさかな」


          *


 昨夜は良い酒を飲めた。

 山で生活を共にした旧友と酌み交わしたのは、これからも思い入れのある記憶として残るだろう。

 それにしても昨日の糸猫庵は中々良い喫茶だった。茶は勿論酒も出すとは。

 以前の教え子に文を貰い、気になっていた店だ。

 その店に、二日連続で行こうと思えるとは、誠に良い所を見つけたものだ。

 しかし今日は本当に寒い。雪でも降るのではないか。そろそろ黒足袋を履く季節になるか。

 そう言えば昨日、帰る時何かを貰った気がする。


 ──次来るときは、これをお持ちください。


 あぁ思い出した。

 何を貰ったのかは忘れたが、兎に角それを持って来ない事には、あの店を見つけるのは困難だろう。

「しまったのう……」

 頬を掻いて後悔した。

 近年物忘れが酷くなっている。

 日常生活に支障をきたす程ではないが、流石に酷すぎる。

 私は五徳猫として長く生きてきたが、これから先を杞憂している。

 店がある二段坂に辿り着いた時、子供が一人、何かを探す様に付近を見回していた。

 その顔は実に不安そうで、思わず手を差し伸べたくなる。

「どうしたのかね」

 そう尋ねてみると、その子供は勢いよく振り向いた。

 着ていた鈍色の外套が風を受けてはためく。

 外套を目深に被り、目立たない恰好をしている。墓守の子か。

 背は低く、縮こまっているために尚更小さく見える。

 ちらちらと覗く髪は、白に近い銀である。

 墓守の子供は、蚊の鳴く様に小さい声で答えた。いきなり話しかけても、警戒されるのも道理である。

「えっと……その、この近くにある喫茶店を、探していて……。あの、知っていますか?」

 この様子では、初めて訪れる者ではないだろう。恐らく、昨日貰った何かをこの子供は持っている。

「成る程。実を言うとな、儂も件の喫茶を捜している所なんじゃよ」

 この子供と共に居れば、見つけ出すのは困難ではない。捜すのが不得手で、目の前に見えにくいだけなのだ。

「えっ? 本当ですか?」

「そうじゃ。ここは一つ、一緒に捜そうではないか。……あぁ、儂は春秋ひととせと言う。坊主、お主は?」

 すると子供は、外套の奥で目を輝かせた。

「あ、ありがとうございます! ぼくは、たかなしって言います。小鳥が遊ぶ、で小鳥遊たかなしです。よろしくおねがいします!」

 小鳥遊君はそう言うと横につき、儂らは肩を並べて歩いた。

 暫くの間二段坂を往復していると、あっさりと店の入口は見つかった。

 あまりの呆気なさに、小鳥遊君は少々おどろいていた。

「いつもこうなるんです。ここに来ようとすると、中々見つけられなくて。でも、誰かにお店の中から呼んでもらったり、連れて来てもらうと来られるんです」

 矢張か。

 この店は少々特殊な場処にある。小鳥遊君は、完全にこちらの世界に来られないのだろう。

 兎も角、辿り着けて良かった。

 人知れず胸を撫で下ろし、硝子戸を押し開く。

「いらっしゃいませ」

 入ると同時に、店の奥から歓迎の声が飛ぶ。

 店主の声だ。店主は確か、糸、と言ったか。

 昨夜は酒臭く感じた店内は、食欲を掻き立てる匂いが漂っている。

「糸さん、昨晩は良い酒をありがとう」

「いえ、春秋さんが満足してくださったなら何よりです。それに、今日だって来てくださいました」

「料理も旨かった」

「ありがとうございます」

 何となく小鳥遊君を見ると、いつの間にか外套を脱いでいて、整った顔があらわになっていた。

 こちらの視線に気づくと、恥ずかしそうに顔を背け、素早く外套を被って小さく言う。

「すみません……」

「何、構わんよ。そのままでればよい」

 そう言うとこちらを見上げ、ありがとうございます、と矢張小さな声で言うのだった。

 小鳥遊君はパタパタと足音を立て、カウンターの方に向かう。

 その後ろについて行くと、先客が座っていた。

 長い金髪を持った野干で、大きな耳を無防備に晒している。

 先客がこちらに気づくと、ぶんぶん手を振って

えらく明るい声で私を呼んだ。

「ししょーう!」

 私は片手を掲げて返し、の隣に座る。

「久しいの、鉄穴君。そしてうるさいのはどうにかならんのか」

 彼女は昔、私に師事していた。

 彼女の両親に預けられ、綴り方から算術、心理学や民俗学まで教えた。

 これから先、野生の山が消滅してもヒトの世界でも生きられる様に。

「まあ、手塩に育てた結果が隣の呑兵衛な訳じゃが」

 彼女の前には、徳利とっくりが三本並んでいる。今は午後一時である。

「大変ですね」

 糸さんが同情する様に言った。

「えぇ~師匠の影響だよこれは。授業中に酒呑んでたじゃん」

「水分補給じゃよ」

「あ、今だから言うけどさ、師匠が蔵に隠してた秘蔵のお酒あったよね」

 今でも覚えている。七十年物で、漸く手に入れた貴重な酒。全国の酒蔵を廻って金を積んで買った。

「あのお酒に水入れて薄めたの私」

「お前か」

 思わず手袋を嵌めた手で叩いた。

「いや本当は炎天下に放置したビールを入れようと思ってたんだよ。そうしなかっただけいいじゃん」

 折角の酒が薄いのも道理だ。

 それよりも私はどこでどう教育を間違ったか。こんな風に育てる心算つもりはなかった。のだが……。

「糸~なんかおつまみちょうだい」

 結果がこれだ。

 私は気を紛らわす為、懐から紙に包んだモノを出して注文した。

「糸さん、これで何か頼む」

「師匠、奢ってくれるの?」

「阿呆」

 糸さんは紙を受けって、査定人の目で中身を見た。

「これは……筆筒ふでづつですか」

「儂は古物商をやっておる。それは棚の奥で眠っとった新古品じゃが、酒と少々のつまみ位にはなるじゃろう」

 在庫を整理していたら出てきた、透し七宝文様の筆筒だ。

 確か、仕入れたは良いものの売れなかった品だった様に思う。

「かしこまりました、暫くお待ちください」

 糸さんの料理を待つ間、暇になる。

 鉄穴と話すのは酒が入ってからにしたい。

 横の小鳥遊君は椅子にも座らず、暇潰しだろうか、折り紙を折っている。

 やがて一つの作品が出来上がり、背の高いカウンターに乗り出す様にして、糸さんに手渡す。

 代金だったか。

「糸さん、これお願いします」

「今日は犬なんですね。随分立体的ですが、毎回どうやって折っているんですか?」

 確かに、小鳥遊君が折った白い犬は、今にも机上を走り回りそうだ。

「慣れてしまえば結構簡単なんです。今度折り方を教えますよ」

「では、次回のお代はそれで良いです。……ああ、お昼はお弁当ですね?」

 糸さんの言葉から察するに、ほとんど持ち帰っているのだろう。

 ふと、壁の貼り紙に目が止まり、そこには『お弁当お作りします』と書いてあった。

 小鳥遊君は首を横に振った。

「いえ、今日は食べていきます」

 糸さんには予想外の事だったのか、驚きを隠して言う。

「仕事に、間に合いますか?」

「大丈夫です。……今日はお店で食べたいので」

 少し恥ずかしそうに言うと、よじ登る様にして私の隣の椅子に座った。

 糸さんは二人分の注文を同時進行で作り、それが出来るのを待つ小鳥遊君の目は、銀色に輝やいている。

「素直な子は可愛げがあるのう」

「それって私?」

「んな訳無かろうて」

 昔は良かった。昔は。

「いや」

「お待たせしました。純米酒です」

 鉄穴の言葉を遮る様に、目の前に徳利と御猪口おちょこが載った盆が置かれた。

「糸さん、すまんな」

「いえ、その代わりおつまみはもう少し待ってくださいね」

「いやちょっ」

「鉄穴さん、どうしたんですか? 大きな声出して……」

「ひどいよ小鳥遊くんまで!」

「えっ? あの、ぼく何か言っちゃいましたか? えっと、ご……ごめんなさい!」

「違う、そうじゃない」

 そう言って小鳥遊君にすがり始めたので、早急に引き剥がす。

「鉄穴、酔っているならもう帰って頭を冷やせ」

「嫌だ」

「なら座って下さい」

「はい」

 一連の会話が終わる頃に、注文した料理が出来上がり、卓が賑かになる。

「お待たせしました。春秋さんは蟹クリームコロッケ、小鳥遊君は鯖味噌煮定食です」

 揚げたての蟹クリームコロッケと純米酒が並び、とても午後一時過ぎとは思えない。

 対して隣の席は至って健康的な昼食である。

 小鳥遊君が割箸を不恰好な形に割り、両手を合わせて合掌。

「いただきます」

 横目でそれを見ながら酒杯を舐め、私はコロッケが適温に冷めるまで待った。

「師匠、一個ちょうだい」

 横で鉄穴が自慢の胸を押し付けて値だって来るので、のを一つ、箸で口に放り込んでやった。

「あっづ!」

 予想通り鉄穴は高温に悶絶し、口内を火傷した様だった。

「……鉄穴さん、大丈夫ですか?」

 そして小鳥遊君の気遣いで、冷水が差し出される。

 私はそれを黙って制した。

「何でですか?」

 不満そうに理由を問われ、私は少し考えてから答えた。

「躾じゃよ。鉄穴は儂になら甘えられると思っとってな、しかしもうじゃ」

 繕った理由を聞き、それで納得したのか、小鳥遊君は食事を再開した。

 はふはふと幸せそうに鯖を噛み締める様は、料理を提供する側も作りがいがあると言うものだ。

 そう言えば昔、鉄穴の好物を作って出した事がある。

 その時はあまり上手くないと言っていたが、今は何と言うのだろうか。

 酒を飲むようになって、味覚は変わったかもしれない。それでも──

「坊主、あんな大人になってはいかんぞ」

「? 何か……言いましたか?」

「いいや、気にせんで良いことじゃ」

 最後ははぐらかし、コロッケを口に運んだ。

 うん。矢張美味い。


「鉄穴君」

 唐突に、かつての師が言った。

「何ですかぁ?」

 酒を一杯煽って聞き返す。

「すまなかったの」

 私は何の事か判らず、酒を注いで肴をつまんだ。

 時刻は午後三時五十五分。

 昼と夕方の境に、卓には徳利が六本転がっている。

「いつまでも子供と思っとった。御両親に逢わせれば、必ず固執するじゃろうと考えていた」

「私は子供じゃないよ。もうあの頃には戻れない」

 そう答えると師匠は、そうか、とだけ言って酒杯を舐めた。

 それから残っていた蟹クリームコロッケを噛じる。

 私が羨ましそうに見ていると、それに気づいた師匠が、欲しいのか、と聞いてきた。

 昔の食卓で全く同じことを聞かれたのを思い出す。

 首肯しゅこうすると、師匠は懐を探って、何とビー玉を取り出した。

 それは無骨な掌で、自ら光を放っている様に碧や赤に輝いた。

 名残惜しそうに掌で眺めると、実にあっさりと手渡す。

「糸さん、今度はこれで二人分頼む」

 受け取った糸は、師匠と同様に掌でそれを眺めると、少々お待ち下さい、と私達に背を向ける。

「良かったの?」

「よい。年寄が持っていても、腐れてしまうだけじゃ」

 それだけ言って御猪口おちょこに酒を注ぎ、一息に飲み干した。

 厨房は香ばしい匂いに包まれ、広い背中越しに、煮炊きの煙と焜炉の火が見える。

 前回私がビー玉を渡した時は、カンパチの刺身だった。

 しかし代金を支払う人と代金が違えば、提供される料理はとても違うモノになる。

 糸曰く、ヒト或いはそのヒトの私物に触れた時に好みが判るそうだ。

 それは美事に合致していて、私の時や、小鳥遊くんの時も、各々の好みに合った料理を提供出来るのだそう。

「そう言えば師匠が好きなモノって何だっけ?」

 特に話すことが無いのに耐えかねて、私は適当に話を振った。

「あー……何だったか」

「老化現象?」

「抜かせ、わしゃぁ高々百年程度の付喪神じゃ」

 師匠はそう言うが、よく一つの五徳で百年生きたと思う。

 無言で背後に回って肩を叩くと、やめなさい、と手を払いのけた。

「孝行なぞ数十年早い」

「たまにはじじ孝行ぐらいさせて欲しいのに」

「誰が爺じゃ」

「事実だよ」

 私が真似をしてからから笑うと、一段と深いため息を吐き、眉間のしわを揉んだ。

 私の前で疲労を見せたのは、これが初めてだった。

 一応大人として認めてくれているのだろう。

「お待たせしました。白もつ煮込みとおでんです」

 そこに調理を終えた糸が皿を置き、すぐに立ち去った。

 それぞれ深目の皿にもつ煮込みがとおでんが盛られている。


 背後で、鉄穴が声にならない叫びをあげているのが気配で判った。

 かと思えば即座に席に戻って割り箸を割り始めている。

 夢中になると行儀が悪くなるのは、昔と変わっとらん。そんな所が少し嬉しく感じた。

 そんなことを回想しながら、鉄穴に手渡された割り箸を割る。

「いただきまーす!」「いただきます」

 言うなり、鉄穴はもつ煮込みに喰らい付いた。

 私はおでんから手を伸ばした。

 煮卵を箸で半分に割り、それを一口に頬張る。

 よく染みた出汁が口の中に広がり、後から濃厚な半熟の黄身が追いかける。

 野菜は咀嚼する度に甘くなり、五目巾着に使われている黄金こがね色の油揚げも素晴らしい。

 牛すじ煮込みをかじった所で酒をあおった。

 ふと横目で鉄穴に目をやると、彼女も同じタイミングで同じ様に酒をあおっていた。

 育てに似たのだろうか。そうだとしたら、私は酷くいたたまれなくなる。

 本来ならご両親に似た娘になる筈だった。

 私の普段の悪癖ばかりがうつり、それが顕著に目立っていた時もあった。

 そして、彼女もまた妖怪である筈なのに、私のにんげんくさいのが未だに染み付いたままである。

 それが仇なして、こちらの世界に居場所が失くならない様、私は残された刻限を生き、祈るのみだ。

 私は付喪神だ。所詮はモノである。

 形あるものはいつか壊れ、私も例に漏れず、今私の躰は錆に蝕まれている。

 本体は百年前の五徳で、明治の頃に脚が一つ折れた。

 私はその時点で棄てられるべきだったモノである。それが執念深くこの世に残り、醜く足掻いているに過ぎない。

 年月と埃が積もり、面倒な感情にまみれ、最期は、錆によって動かなくなるだろう。

 私は“モノとしての死”を畏れはしない。しかし鉄穴はどうであろう。

 私の悪癖が染み付いてしまった彼女は、きっと人間らしく固執し、私の躰に気付かなかった自分を恨む。

 残されている時間は少ない。

 持って一年と言われた。

 それでも私は、鉄穴を倖せにしたいと願う。それを愛と呼ぶには傲慢であろうか。

 

          *

 

 その後、底冷えする夜まで鉄穴と昔話に興じ、長時間滞在したことを糸さんに詫び、各々別れて家路についた。

 外は夕方とは言え既に日が落ち、等間隔にたつ外灯にあかりがともっている

 二段坂を上りながら、ふと回想する。

 鉄穴が迷子になったのも、こんな薄暗い夕暮れであった。

 御両親から預けられ、授業中目を離した隙に逃げ出し、最後は自宅の押入れで見つかった。

 あれが良く育ったと今になってしみじみ思う。

 いや、“育ってくれた”が正しい。

 空を見上げると、木枯しが吹き、鯨が音もなく優雅に泳いでいた。

 私はあれが化け鯨のたぐいと考えているが、確かめる方法は無い。

 そう断定しているだけだ。


 自宅に辿り着くと、何故か全てが懐かしく感じた。

 理由は判っている。

 鉄穴と出逢ったからだ。

 彼女と再会するのは実に十年越しで、最初は文を交わせど、最近は賀正の年賀状と暑中見舞くらいの付き合いになってしまっていた。

 かつて授業を行った書斎。

 時折忍び込まれた蔵。

 遠い記憶の残滓が浮かんでは消え、また浮かんでは消えた。


 取り留めのない昔話をしよう。

 彼女の両親とは八十年来の知己であった。

 そんな二人に一人娘が生まれ、私は小さい鉄穴に、事ある毎に顔を見せた。

 お蔭で鉄穴に“友達”と認定される程には仲が良かった。

 しかし、鉄穴が十歳になる日、両親が死亡することになる。

 交通事故ロードキル

 その日、彼らは狐の姿で山を下りていた。

 麓にある山沿いの高速道に出た時、荷運びの大型車に纏めて轢かれたと言う。

 私は二人の遺体をこの目で見ていない。

 丁度その場に居合わせた知人から、口伝くちづてに知っただけだ。

 誰が予想したであろう。

 だが、死とは日常の一部であるが、常に日常から遠くに遠ざけられている。

 野生に住む私達にとって、それはごく普通の生存競争で、態態わざわざ悼むモノではない。単に、きりがないからだ。

 それは幼い鉄穴には、あまりにも重すぎた。

 私は鉄穴に、両親の墓所を教えなかった。教えれば其処に執着し、死に縛られてしまうだろう。

 そして犯人の車に火を放ち、車ごと焼いた。

 本来五徳猫とは、囲炉裏で鍋や薬缶で湯を沸かす、ヒトの役に立つ五徳の付喪神だ。

 ヒトの役に立つ。

 そのお役目を放棄した上、ヒトを殺すとは酷く滑稽な話である。

 情報は彼女が十分に成熟した時開陳する心算つもりだったが、教えてくれない事にしびれを切らした鉄穴と、喧嘩別れした。

 それから二十年、面と向かって本音を言えずに過ぎ去った。

 ──私は、如何いかにすべきだったのであろう。


          *


 珍しく早く目が醒めた朝の事だった。

 二度寝するのも面倒だったので、布団から重い躰を無理矢理起こし、顔を洗いに覚束無おぼつかない足取りで洗面台に向かった。

 冷水を叩きつける様に顔を洗うと、幾等いくらか目が醒めた様に思えたが、それでも足りずに再度蛇口を捻る。

 五分程かけて漸く顔を上げると、深いしわが刻まれた私の顔が鏡に写っていた。

 色落ちした灰茶の髪は白髪がじり、肌は病人の如く蒼白になっている。

 まだ若いつもりで居たが、考え方を変えねばならないか。

 仮にも神であるが、それだけ歳をとれば皺も増える。それは承知の事だったが、矢張疲弊して見えた。

 昨日の鉄穴の目にもそう写っただろうか。

 顔を洗って幾分か目が醒めた所為か、冷えた廊下の温度が足裏から全身に染みる。

 足を動かして寝室に駆け込むと、畳の暖かさが足裏から伝わった。

 蒲団を畳み、老体に鞭打って押入れの上段に入れる。

 寝間着の帯をほどき、桐箪笥きりだんすから裏地のある紬のあわせ仕立てを取り出した。薄い灰緑である。

 肌襦袢と長襦袢を着、帯は適当な茶褐色のを選んで、貝の口に結んだ。

 痛む腰を屈めて黒足袋を履き、黒の羽織を羽織って部屋を出た。

 ふと時計に目をやると、まだ早朝五時であった。

 これほど早くから朝食を摂る気も起きないので、外に足を向ける事にした。

 懐に懐中時計を忍ばせて玄関に向かい、滑りの悪くなった引き戸を滑らせる。

 戸一枚隔てた向こうの世界は、割れれば音が鳴りそうな程空気が凍っていた。

 私の家は、以前山の麓付近にあった集落の跡地に建っている。

 昭和の末には住民が居なくなった。跡に残されたのは閑散とした山中の空き地と、不如森の如き藪のみである。

 だが私はその清閑さが好きだ。

 人が居なくなった事で改めて気付かされた、自然が責めて、後世に残される事を少ない余生で祈るばかりだ。

 山を下り、二段坂の街を歩んで行く。

 くすんだ海を背景に、高台の霊園を目指して足を伸ばした。

 今日は月命日につき墓参りに行くのだ。

 鉄穴家の墓に。


          *


 『小鳥遊霊園』の立て看板が見えると、そこから不思議と歩調に迷いが無くなる。

 身に付いた一連の動作が現在と重なり、まるで憑かれた様に躰が動くのである。

 入口の水道付近にある木桶に水を一定量汲み、柄杓を片手に持ち、高低差のある敷地を進んで行く。

 墓石の間を縫う様にすり抜け、またその道があらかじめ決まっていたことに気づいた。

 暫く緩やかな勾配を上ると、霊園の端が見えてくる。鉄穴家の墓はそこにあり、目立たない場所で二人共に眠っている。

 墓石代わりの、長方形に削られた小さな御影石が一つ、陽当たりに立てられている。

 周囲は木々に囲まれ、薄い木漏れ日を受けて、その墓石は輝いていた。

 水が入った木桶を足許の草原くさはらに置き、柄杓で墓石にかけていく。

 少しでも汚れを落とす思いで、一杯、また一杯とかけていった。

 それが終わると改めて墓前に向き直り、両の掌を合わせて頭を垂れる。

 目を閉じれば、眼前にあの二人が立っている様な錯覚さえ覚えた。

 これだから私は──

「来ていたんですね」

 不意に意識の外から掛けられた声に振り向くと、そこには小鳥遊君が立っていた。

 手には小さな赤い花の花束を抱えている。

「今日は月命日でな」

 答えると、

「そうでしたか」と、哀しそうな笑みを浮かべて一歩あゆみ出た。

「その手に持っている花は何だね」

紅弁慶べにべんけい──カランコエとも言います」

 紅弁慶の花言葉は、何だったか。

「一つ訊きたい」

 屈んで手を合わせている小鳥遊君を横目で見、以前より訊きたかった事を口にした。

「? はい」

「この墓は君が作ったのかね?」

「恥ずかしいですけど……一応、ぼくが作りました」

 恥ずかしいとはにかんで言う墓石は少々歪だが、良く出来ている。

「墓を作った時、つがいの狐はどうだった」

 私は二人の死体を、この目にするすることが出来なかった。

 二人の死から時が経ち、鉄穴が独り立ちした今、改めて向き合いたい。

 そして今、最期に最も近い二人を知っているの

は今となってはこの少年だけになってしまった。

 小鳥遊君を捜し出すのにも随分と苦労した。

 こちらを見上げたままで、小鳥遊君の視線が宙を彷徨っている。

 答えを探しているのだろう。

「……傷だらけでしたけど、きれい、でした」

「それは、どうしてそう感じた?」

「ぼくの推測ですけど、死体は車の前輪と後輪、それぞれに二回轢かれたらしくて、タイヤの痕が残っていました」

「“きれい”と言うのは?」

「ヒトではないから。ですかね? ……良くわかりません」

 そう言って俯いたまま、微動だにしない。

 外套のフードが深く被さり、完全に表情が見えなくなった。

 私はただ、そうか、と他に返す言葉が見つからなかった。

 一体何がこの子を、こんなにも無感動な人間にしてしまったのだろう。

「儂はそろそろ帰るとする。話を聞けて実に良かった」

 踵を返して一歩踏み出す。

 その瞬間、背後から幼い声が投げ掛けられた。

「春秋さん」

 その声に振り返ると、怯えた様な目をした少年が立っている。

「ぼくが、狐の死体を埋めてもよかったのですか」

 私はそれに答えず、また歩き出した。

 今の私にはその問いに答えるだけの言葉が無い。

 

          *


 墓参りを兼ねた散歩から帰宅したあと手紙を書き、朝食を摂る。

 買い物に出掛けた最中随分と早い初雪が降った。夜には薄く積もるだろう。

 これから先、月命日に墓参りに行くにも苦労するやもしれない。

 我ながら、執着しすぎていると感じる。

 残された一人娘を育て上げたはいいが、二人が望む娘に成ったかは判らない。それに対する罪悪感からか。

 後悔に囚われたままでいる私を見たら、あの二人は笑ってくれるだろうか。

 雪が外の音を消し、私が付喪神に成ったのも、この様な初雪の降る日だったと思い出した。


 午後からは、柄にもなくある計画を立てていた。

 鉄穴の誕生日祝いである。

 この年にもなってやることが子供じみている、と友人に指摘されたが、昨日唐突に思い至った事だ。思案が足りぬのは承知の上である。

 だが、十年越しに再び逢えた記念として、私がどうしても祝いたいのだ。

 文机に向かい、必要なモノを書き出していく。

 まず料理。これは私が作れば善い。凝ったモノは糸さんに協力してもらう事にしよう。

 昔、鉄穴の好物を作って遠回しに不味いと言われたのを思い出し、私は唸った。

 次に会場。しかし私の家では狭すぎる。

 ここも糸さんに連絡して、糸猫庵を半日貸し切ってもらえないだろうか。

 出来なければ何とかする。

 贈り物はどうするか。鉄穴が喜びそうなものは頭に入っているが、彼女が子供の頃の話だ。趣味嗜好が変わっていても不思議ではない。

 もう子供ではないのだ。

 現在いまの鉄穴が喜びそうなモノと言えば──酒、映写機、衣服、装飾品……。

 考えてみると、昔と趣味嗜好がかなり変わっている。

 誕生日は明日で、あまり時間は無い。しかし今日の内に贈り物と会場は用意せねばならん。料理は当日でも善い。

 カレンダーには、十一月二十六日に赤丸がついている。善は急げ。

 文机から立ち上がり、私は早速黒電話のダイヤルを回した。


           *


「では、早速始めましょうか」

 翌日の昼下がり、定休日の糸猫庵に私と糸さんは集まった。

 昨日さくじつ連絡をとった所、定休日にも関わらず、好意で誕生日に付き合ってくれる運びとなった。

 因みに食材は全て私の持ち込みである。

 そして現在、糸猫庵の厨房に糸さんがいつもの前掛け姿で、私は割烹着を着用して立っていた。

「実に申し訳ありません……」

 糸さんはそう言って顔を伏せるが、口角が若干上がっているのが僅かに見える。

「まあ……無いよりましじゃろう」

 曰く、世話をしてくれた人が使っていた物だそうだ。

 無機質な厨房は長く使用された形跡があり、その証左に、裏面が焦げ付いた鍋や、木の取っ手が手垢に汚れた玉杓子たまじゃくし等が、厨房の壁の吊るされ、吊り棚に収まっている。

 私はひとしお辺りを見回して設備を確認してから、一つ息を吐いて、焜炉に火を灯した。

 先ず厚揚げ二枚を油抜き、それから六等分に切り、豚肉を巻き付けた。

 その間に暖まったフライパンに油を引き、厚揚げをフライパンに並べていく。

 じゅうっ、と焼ける音が響き、少々引きすぎた油が跳ねた。

 片面を焼き、ひっくり返してもう片面にも焼き色がつくまで、蓋をして放置。

 待つ間、味噌と味醂、砂糖をまぜてタレを作る。

 それを焼き目のついた厚揚げに回しかけ、また焼く。


「すみません、遅れました!」


 その時、店の入り口から幼い声が響いた。

「小鳥遊さんじゃないですか。どうしてここに? 定休日は把握してる筈……ですよね?」

 突然の来客に糸さんが混乱してきたので、私は説明を添えた。──添えようとした。

「今朝、春秋さんからの手紙を受け取りまして、お手伝いに来ました」

 私が言うより早く、小鳥遊君が口を開いて自ら訳を説明したのである。

 小鳥遊君によって話す必要が無くなった私は、黙って調理を続けた。

 千切りにした甘蘭キャベツで皿を飾り、その皿に焼き上がった厚揚げを盛ると、一品完成する。

 次の料理に取り掛かっていると、程無くして背丈に合わない、少々大きいエプロンを着けた小鳥遊君が厨房に入ってきた。

 流しで手を洗い、服の袖を捲ると、糸さんの指示をあおり、手伝い始めた。

 小鳥遊君は、白と黒を基調としたセーラー型の長袖を着ており、昨日さくじつの外套姿が目に焼き付いている為に、その姿が新鮮に思えた。

「えー。では先ず、酢飯を作ります」と糸さんが号令を掛ける様に言う。

「小鳥遊さんは合せ酢を作って下さい。作り方は教えるので。えーっと、春秋さんは、酢飯を作っている間、ネタを切ってくれませんか?」

「判った」

 私は頷き、魚の切身に包丁を入れた。

 次に作るのは手まり寿司である。

 鉄穴は昔から寿司や刺身と言った、海鮮料理が好きだった。

 恐らく、山に育った彼女は、海を近くに感じることがあまり無かった為であろう。

 鮭、まぐろ烏賊いかかれい、海老を手際よく開いていった。

 全てのネタが準備出来る頃には丁度酢飯も出来上り、私は小鳥遊君に握り方を教えながら酢飯を握った。

 普通より少量の酢飯を手に取り、俵ではなく丸く握っていく。

 大きさの不揃いな丸いシャリが幾つか出来、先刻のネタを載せる。

 この時、ネタの下に大葉を重ねておく。

 それが終われば、軽く握ってかたちを整えて完成である。

「春秋さん」

 唐突に、小鳥遊君が私を呼んだ。振り向くと、身長差が有るために小鳥遊君が見上げるかたちになっている。

 これでは話辛いと考え、私は小鳥遊君の目線に合わせて屈んだ。

「どうした」

「あの、お寿司の上に、イクラ……とかのせたら美味しいと思うんです」

 成る程。中々名案を思い付く。

 小鳥遊君なりに勇気に振り絞った提案に、私は感謝した。

「採用させて貰おう」


 手まり寿司が皿に並ぶと、糸さんは次の作業に取り掛かった。

 これは昔鉄穴に作り、遠回しに不味いと言われた料理である。

 誕生日のケーキ、プリンケーキ。

 あの時は上手く作ったつもりであったが、まだ小さい子に気を遣われ、挙げ句に満足させる事も出来なかった。

 そんな過去のしがらみに囚われながら手を動かす。

「えーまず。型に薄くバターを塗り、オーブンを温めている間に、記事を作りましょう。春秋さん、小鳥遊君に作り方を教えてください。私は準備を」

「あい判った」

 私は首肯し、小鳥遊君を手招いて色々の準備をする。

 砂糖と少量の水を方手鍋で煮詰めてカラメルを作り、熱いうちに型に流し込む。

 その間に小鳥遊君が同時進行で作っていたプリン液を、カラメルの入った型に流し入れる。

 その時、不意に小鳥遊君が訊いた。

「春秋さん、これってどんなお菓子なんですか?」

 みかんと書かれた段ボール箱を台にしても、尚私を見上げている。私は屈んで、目線を合わせた。

「プリンとケーキスポンジが重なった洋菓子でな、まあ昔鉄穴の奴に作ったんじゃ」

 そう答えると、興味深そうに型に目を移した。

「時に小鳥遊君は、斯様な誕生日の想出などはあるのかね」

「小さい頃なんですけど、ぼくは、ぼくの家はあまり裕福じゃなくて、お母さ──両親は、ぼくの誕生日に好物を作ってくれて、ふんぱつしてケーキも買ってくれたんです」

 口許に笑みを浮かべながら話す小鳥遊君を横目に、成る程な、と相槌を打って続きに耳を傾ける。

「ここからは後日談になるんですけど……両親が留守にしていたある日、父の書斎で預金通帳を見つけたんです」

 ああ、結末が見える。

「通帳を開いたら、残金がものすごく少なかったです」

「それは……あまり知りたくなかったであろうな」

 ここから更に話は続いたが、その日から小鳥遊君は両親にモノをねだるのを止めたそうだ。

 記念すべき誕生日に心傷トラウマを抱えることになろうとは。

「君の誕生日に……何か買ってやろう」

「? 何か、言いましたか?」

「否。何も言っておらんよ」

 内心、同情を覚えながらケーキを完成させた。

 その後はオーブンに入れて放置。


           *


 時刻は午後四時半。

 三人分の茶を入れ、二人に菓子を振る舞い、予想以上に持て余した暇を潰す。

「このお茶美味しいですね。どこで購入しているんですか?」

「馴染みの茶屋があってな。今度、機会があれば紹介しよう」

「これ昔食べた気がします……。何て言うお菓子ですか?」

「うぐいす餅じゃ。金平糖もいるか?」

「欲しいです」

 実に素直な反応をする小鳥遊君を見ていて、ふと思う。

 こうして子供相手に時を過ごしていると、昔を思い出してしまう。

 あと数刻もすれば鉄穴が来ると言うに、私は平常心を保てるだろうか。正直言って自信がない。

 私もあと何年持つか見えない。

 ただ、私が去る前に鉄穴と言う隣人の誕生日を祝いたい。それだけなのである。

 生憎私に似てしまった鉄穴は、私が物体に戻る時、感傷に浸るだろうか。

 茫然とそんなことを考えていると、

「やっほ、来たよー」

 と、鉄穴が硝子戸を押して入って来た。

 私は席を立ち、逃げる様に厨房へと足を向ける。

「糸さん、鉄穴を席に座らせておいてくれ。儂は料理を──」

「師匠」

 その背後から鉄穴が声を投げた。

 振り向くと、鉄穴が服の裾を掴んでこちらを見上げている。

 ふと、彼女はこんなに背丈の低いものだったか、と思った。

「私も手伝うから、お爺ちゃんは休んでて?」

 一瞬の間。

「誰が爺じゃ張った押すぞ」

 私は大声を上げた。鉄穴がケラケラと笑い、小鳥遊君は驚いて茶を溢す。

 彼女が居るだけで騒がしくなった店内を見回し、深いため息を吐いた。

 鉄穴は若しかすると、この喧騒が心地好いのかもしれない。

 ならば、私に出来る事はこの誕生日を彼女の望む様なものにすることである。


 結局鉄穴の力も借り、卓にケーキ以外の料理を全て運んだ。

 小鳥遊君がもう数刻もすれば帰らねばならない、と言うので、予定を早めて開催する事に決めた。

 四角な卓を四人で囲み、

「鉄穴」

 と私が口にすると、目の前に座る彼女は顔を上げる。小鳥遊君と糸さんとの二人は、私が指示した通りに構えた。

「誕生日、おめでとう」

 私は口角を上げて合図すると、両脇から破裂音が響き、紙吹雪が舞った。

「うわあ典型的」

「黙っとれ」

「誕生日よりさ、私ついこの間、或る写真館に専属カメラマンとして勧誘されたんだよ。会社辞めてそっちに移ったからさ、祝って」

「それもまとめて祝ってやるわ」

「まあ冷めない内に食べましょう」

「鉄穴さんおめでとうございます! 今おいくつですか?」

「言わないで」

 小鳥遊君の悪意無き攻撃に、鉄穴は卓に突っ伏す。

「えっと……その、ごめんなさい……」

「小鳥遊君、其奴は放っておけ」

「非道い!」

 そう食って掛かって来たところに、手まり寿司を一つ口に放り込んでやった。

 するとその場で静止し、頬に手を当て、

「うんまぁい……」と崩れる様に椅子に座った。

 落ち着いたので仕切り直して、合掌。

 鉄穴は仕事終わりで腹が減っていたのか、がっつく様に食らいついている。

 それでも箸運びは綺麗で、口許にも汚れがついて居らず、つくづく不思議な食し方である。思えば幼い頃から、不思議と食い散らかしが無かったと思い出した。

 そんな彼女を眺めながら酒杯を舐めていると、横から小鳥遊君が服の袖を軽く引っ張った。

「どうした?」

「あの……ぼくまでご馳走になってもいいんですか?」

 そう言う小鳥遊君の皿に目をやると、取り分けた料理に一切手がつけられていなかった。それどころか箸すら持っていない。

 謙虚が過ぎるな。

「小鳥遊君。君は作った物を否定されたらどうかね?」

 問うと、肩と声を震わせて答えた。

「あ、いえ……その、そう言う意味で言ったのではなくて。……ぼくなんかがこんなに豪華なものを食べても良いのかな、と。しかも鉄穴さんのお誕生日に」

 誕生日、と言う日に過去のトラウマが浮かび上がっているのだろうか。

 私は小刻みに震えている細い肩に手を掛け、説いて聞かせる。

「生憎、儂の生徒は騒がしいのを好いておる。苦手かもしれんがここは一つ、騒がしいのに加わってくれんか」

 糸さんに絡んでいる鉄穴に目をやって言うと、小鳥遊君は一つ頷き、箸を左手に握った。

 私はそれで満足し、鰈の手まり寿司を口に運んだ。

「ねえ師匠、これって私の好物だけど、全部小さい頃のだよね」

 痛いところに目を付けられ、一瞬、息が詰まる思いをする。

「すまぬ。今のお前の趣味嗜好を把握しておらんでの」

 頭を垂れて詫びると、彼女は両手をブンブンと振って頭を上げる様言った。

「いや……別にそう言うことではないんだけどさ」

 だったら何か、と問うた。

「よく憶えてたなあって。もう数十年前のことでしょ」

「もうそんなに経ったか」

 年々思うことだが、矢張月日の経つのは早い。

 現に、今眼前に座っている鉄穴は、私が知っていた幼い彼女ではないのである。

 私が熱燗の酒杯をかざすと、鉄穴もそれに呼応して冷酒の酒杯を掲げた。

「誕生日に」

「お爺ちゃんの余生に」

 さかずきを鳴らし、お互い一息にあおる。

 私は空になった酒杯を卓に置いて、出来の悪い生徒の頭を軽く叩いた。

「痛い」


 午後六時を回って小鳥遊君が帰宅し、糸さんがあとは貸し切りにする、と言うので、一升瓶二本を注文してちびちびと呑みつつ話す。

「これ美味しいね」

 鉄穴は卓上のプリンケーキを占領し、それをつまみに酒をあおっている。

 既に三合目である。

 私も、四合に手が届くところまで呑んでいるので、言えたことではないが。

 酔いが回って来ていた私は驚いた。

「それは一番自信がないのじゃが」

「そう? 十分美味しいけどね」

 どう言う意味だ。

「昔遠回しに不味いと言ったのを覚えとらんのか」

「えぇまだそんなこと覚えてたの!? 年取って執念深く成ったんじゃない?」

 もう鉄穴のペースには付き合うまい。

「まあ、あの時は儂の腕が悪かった所為じゃ。済まんかった」

「……いや。悪かったのは私の方だよ」

 鉄穴は、そう独白する様に呟いた。私は以外だった。

「ほう? それはまたどうしてだ」

 訊くと、ばつが悪そうに告白し始める。

「えー……あの時さ、父さんと母さんが居ないのに落ち込んでて、それでも何事も無かったみたいに振る舞う師匠に、腹が立ってて」

 成る程。

 確かに人間らしい鉄穴には、私がとっていた態度は酷というものであっただろう。

「それで勝手に嫌いになって、勝手に師匠を拒んであんな酷いこと言って……本当にごめんなさい」

 そうであったか。

 それだけだったか。

 今日と言う日に、真実を聞けて善かった。

「もう今更構わん……それよりも、鉄穴に伝えることがある」

 私が物体に戻る前に。

「何さ改まって。私と師匠の間だよ? 今更何の遠慮があるの」

 身を乗り出して食いついて来る鉄穴を見据え、酔いが回った勢い、とばかりに私は切り出す。

 咳払いを一つして、懐から紙切れを取り出した。

「これは鉄穴、お前の両親の墓所じゃ」

 鉄穴の目前で紙を開き、ヒラヒラさせると目を見開いた。

 そしてそれを素早く奪うと、文字通り目に焼き付ける様に見詰める。

「何で……今まで」

 鉄穴は俯き、片手で顔全体を隠している。

「明日にでも行くと善い。……今まで教えずにいたことを、どうか」

 震えている彼女の肩に手を掛けようと、手を伸ばした──

「……ぷっ」

 今明らかにおかしい声がした。

「あはっははは! あっはははは! はあ……ははは」

 鉄穴が朗らかに笑いだしたのである。

 私は状況が掴めずに目を丸くしていると、

「──あれ? 師匠知らなかったっけ。私、両親の墓所くらい知ってるけど?」

「……はあ!?」

 幾年かぶりに大声を出してしまった。

 そんな私とは反対に、鉄穴はからからと笑って話始める。

「いやあね。私が自力で探し当てたんだよ。それでまあ驚いた驚いた。小鳥遊くんの霊園の片隅──丁寧に埋葬してあるんだよ」

 私は今まで、隠匿していたと思い込んで居たのか。

 

 ひとくさり鉄穴の皮肉混じりな説明を聞き、ようやっと全てを理解出来た。

 しかしそれを上回る程の酷い羞恥が横たわっていた。

 鉄穴は幼少から──つまり私が預かった直後から行動を始めていたらしく、持前の行動力を持って十日程で特定したと言う。

 それ以来、私が隠匿しようとしているのを知りながら、何も言わず黙っていたのである。

 それと言うのも、面白さ大半、残りが僅かな気遣いだったと言う。

 幼少から隠しておき、そしてこれ程成長してからは言い出す機会が無くなってしまった。

 それから、小鳥遊霊園が狐の遺体を受け入れたのは彼らの善意である。だが、埋葬したのは小鳥遊君だ。

 それは何故か。

 実は小鳥遊君が事故のすぐあと、両親の遺体を見つけていたのである。

 その後小鳥遊君の両親に相談し、自ら埋葬したそうだ。

 十年越しに解り、胸のつかえが取れた思いであった。


 閉店になり、鉄穴と別れて帰路につく。

 あれだけ酒を飲んだにも関わらず、かつての生徒と呑み明かした実感が未だに湧かないのが不思議だった。

 身を切る様な夜風の中、天幕の張られた空を見上げて祈った。

 私が不出来な生徒に望むは一つのみである。

 今日の私の様に疲れはて、磨り減らす様な生活を送ることは願わない。

 ただ、気の置ける隣人と壊れにくい日常に甘えられればいい。

 妖怪の身で在りながら、《人間》らしく育ってしまった彼女に、此の世であり得る幸を願うばかりである。


          *


 本日の料理

 ・白もつ煮込み

 ・おでん

 ・鯖味噌煮定食

 ・蟹クリームコロッケ

 ・プリンケーキ

 ・手まり寿司

 ・厚揚げの豚肉巻き味噌焼き

 ・味噌汁

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