道上拓磨

 人は、すべてを失ってから気づくものだ。

 実のところ初めから、何ひとつとして失ってはいなかった、ということを。


 失うものなど、何もないのだ。

 なにしろ、そもそも何一つとして所有してはいないのだから。


 人生は錯覚だ。

 一秒に二十四コマの静止画が連続してスクリーンに映し出されることで、あたかも写真が動き出すような錯覚を生み出す映画のようなものだ。

 スクリーンの上にはなんにもない。そこでは実態のない、素敵で虚ろな光が躍っているだけだ。

 人々はその幻影の中に、流れる時間を空想し、そこから必死に意味を見出そうとする。


 この手に出来るものなど、何もない。

 スクリーンの上に映し出される世界はいかにも手が届きそうだが、客席から銀幕に向かって物欲しそうに伸ばした手は、虚しく宙を掴むだけだ。



 ――生きることは、甘い夢なのだ。



 落ちていくわたしは、そんなことを考えていた。









    〇









 夏だった。


 二両編成の電車からホームに降り立ち、わたしは火照った田舎の空気を味わった。草木の青臭い香りがした。

 蝉たちは執拗に自己主張をし、汗はわたしの皮膚にまとわりついていた。


 限界だった。


 何日も同じ服を着続けている。

 所有物はグレーのハンドバッグだけだった。

 青い花柄のワンピースは皺だらけになって、汗とともにわたしの身体に時折張り付いた。ローカットスニーカーの紐はまるで夏バテしているかのように精気を欠いて見える。


 夏は不吉だ、と思う。


 電車が走り去っていった。

 わたしは木造の駅舎に入った。

 昼過ぎの待合室に人はひとりもいなかった。駅員もいない。無人駅だ。

 わたしは待合室のベンチに腰掛けた。待合室にエアコンはなかった。

 蝉の鳴き声がサイレンのようにわたしの耳の奥で回転していた。

 喉が渇いていた。お腹の奥が痛かった。足も痛かった。異様に暑かった。

 控えめに言って、おかしくなりそうだった。



 当てのない遁走がはじまって、三日目になっていた。


 あの時、わたしはとにかく必死だった。

 麗奈れいなの身体から包丁を引っこ抜いてそれを自分のバッグにぶち込み、そこに財布とスマホも加えた。休日用のスニーカーをひっかけ、飛び出るようにしてあの家を後にした。


 いつも花の香りが漂う、素敵な家だった。エアコンも効いていたし。


 遠くでかんかんかん、と踏切の音がした。

 自動販売機がぶーん、と低く唸った。


 わたしはバッグから小銭を取り出し、重い腰を上げて自動販売機の前まで行った。サイダーを買った。

 サイダーの冷たさと炭酸が喉に痛かった。


 思い出した。

 サイダーは甘くて青いんだ。


 わたしはサイダーの缶を片手にしばらくその場に立ち尽くした。

「……これからどうしよう」



 駅舎から出た。

 駅前は閑散としていた。

 店らしい店はほとんどない。寂れたレストランが一軒と、花屋があるだけだった。

 小さな花屋の前には申し訳程度にいくつかの花が並んでいて、そのすべてが暑さに参っているようにみえた。


 花屋から女性客がひとり出てきた。

 彼女の手には黄色い花が握られていた。スイセンだろうか。わたしと彼女の間には少し距離があるのではっきりとはわからなかった。それに、わたしは花に詳しくない。

 彼女は半袖の黒いワンピースを着ていた。靴も黒かった。

 髪は濃い茶色で、ふくらんで波打っていた。


 魔女だ。

 わたしは彼女を見てふとそう思った。


 美しい女性だった。

 年齢はわたしより十もしくは二十歳くらい上だろう、と思われた。目は高く吊り上がり、唇は必要最小限に小さかった。

 この田舎町に似合わない程度に彼女は洗練されていて、だが同時に土着的な力強さも持ち合わせているように見えた。

 彼女は店から出ると、立ち止まってその場に留まり、そして自分の靴なのかそれとも地面を見つめているのか、じっと下を向いたまま右手の黄色い花をゆらりゆらりと揺らしていた。

 なぜか彼女から目を離すことが出来ず、彼女を見つめたままわたしもまた駅舎の前で立ち止まってしまった。


 しばらくすると魔女はふいに顔を上げ、そしてわたしを見た。

 目が合った。


 無表情のまま、彼女はわたしを見つめていた。

 生暖かい風が吹き、彼女の長くヴォリュームのある髪が揺れた。

 揺らぐ髪に時折隠される彼女の二つの瞳は、凶器のように鋭かった。そして彼女の目はどこか爬虫類や昆虫のそれを思わせた。わたしは寒気を感じた。

 たまらず彼女から目を背ける。

 冷たい汗がわたしの背中を伝っていくのを感じた。

 わたしは速足で歩き始めた。

 その場から一刻も早く遠ざかりたい気分だった。



    〇



   ハチさん一匹 ハチさん二匹

   大きいハチさん 小さいハチさん

   飛んでるハチさん 寝ているハチさん



   ぷちん、と刺されちゃ 大騒ぎ

   痛くて泣いちゃう

   ハチさん こわい



   ハチさん 一匹 殺しちゃえ

   ハチさん 二匹目 殺しちゃえ

   ハチさん みーんな 殺しちゃえ



 森の中で、子供たちが輪になって唄っていました。

 手に手をとって、男の子も女の子も、みんなみんな仲良しです。


 彼らが唄をやめると、とたんに森の中はしん、と静まります。

 だけどそれはほんの一瞬。すぐに子供たちの笑い声で森は再び賑やかになりました。

 黄色い服の女の子、黒い服の男の子、緑の服の女の子、背の高い男の子、髪の長ーい女の子。みんなみんな、楽しく笑っています。

「次は何して遊ぶ?」と誰よりも元気な男の子がみんなに聞きました。

「かけっこ!」

「しりとり!」

「かくれんぼ!」

 やりたいことはまだまだたくさんあるのです。

 お陽様はオレンジ色に輝いて、遊ぶ時間もまだたっぷりあります。

 風が花の香りを優雅に運び、木の葉は優しく揺れています。


 木の枝を片手に握りしめた男の子が何かを見つけ、言いました。

「あ、てんとう虫!」

 小さなてんとう虫が、葉っぱの上をゆっくりと歩いています。

 男の子は持っている木の枝をてんとう虫に近づけて、枝の先っぽにてんとう虫を乗せました。

「みんな見てー」

 男の子は自慢げにてんとう虫をみんなに見せびらかします。

 きれいな模様のてんとう虫が、枝の先でゆったりと歩いています。

 てんとう虫の赤色が陽の光を浴びてきらきらと光って、とってもきれいでした。

 あまりに素敵なので、ひとりの女の子がてんとう虫に触りたくなって手を伸ばしましたが、てんとう虫は羽を広げ、飛び立ってしまいました。

「あーあ」

 飛んでいくてんとう虫を目で追いながら、みんな、残念そうです。


「あ!」空へ飛んでいったてんとう虫の行方を見守っていた男の子が何かに気づき、叫びました。「ハチだ!」

「ほんとだ! ハチが飛んでる!」他の子もハチに気づきます。

「みんなー、ハチだぞ! 気をつけて!」

「わー! ハチだー!」

 一匹のスズメバチが子供たちの頭上をぶんぶんと音を立てて飛んでいました。

 楽しかった雰囲気は一変、みんなの心は恐怖に染まってしまいます。

「こわーい!」

「刺されたくないよー」

「逃げろー」

 みんなみんなパニックです。

 ハチはそんな子供たちの気持ちを知ってか知らずか、のんびりと優雅に彼らの上を飛んでいました。

「こっち来るなよ」

「どっか行って!」

 みんな、ハチのことが本当に大嫌いなのです。


「わたし、ハチに刺されても平気よ!」

 堂々とした大きな声がいきなり響いて、騒いでいた子供たちは一斉に静かになりました。

 みんな、声の主の方向を見ます。


 子供たちの視線が集まる場所にいたのは……ひとりの女の子でした。

 さっきまでみんなと輪になって唄ったり遊んだりしていた、白い服を着た女の子です。


「ほんとうに平気なの?」と誰かさんが女の子に聞きました。

「うん、平気。ハチなんか、ぜーんぜんこわくないもん」女の子は言います。

「ハチに刺されたら、すっごく痛いんだぜ」

「わたしは刺されたって痛くもなんともないの」と白い服の女の子。

「ウソだー! ハチはすっごくこわいんだって、お母さん言ってたよ」

「わたしはちっともこわくないわ」女の子は笑って言います。「でももし、みんなそんなにハチさんがこわいんだったら、あのハチさん、殺してあげる」



    〇



 川底は目視出来ぬほど深く、川の流れは荒かった。

 大きな川だ。

 川の水はところどころで飛沫をあげ、時に川原の大きな岩と激しくぶつかり合っていた。

 わたしは橋の上から、下を流れる川を眺めていた。


 血の付いた包丁をいつまでも持ち歩く訳にはいかなかったし、捨てるならここしかない、と思った。


 わたしはハンドバッグから包丁を取り出した。

 包丁はコンビニのビニール袋で何重にも巻いてあった。袋の内側には血がべっとりと付いていた。

 袋から包丁を取り出し、わたしはそれをまじまじと見つめた。

 重々しい黒い柄、尖った切っ先、乾いた血の赤黒い色、刃の濁ったシルバーが夏の強烈な太陽光に照らされている。


 麗奈の血。刃に付着しているのは紛れもなく麗奈の血だ。


 わたしは麗奈の目が忘れられない。

 いまわの際の麗奈の目は、まるではち切れんばかりに膨張しているようだった。少なくとも、わたしにはそう見えた。死の瞬間が近づくにつれ、その目はさらに大きく膨らんでいった。

 そしてその目玉はいまにも彼女の眼窩から零れ落ちんばかりだった。

 麗奈にはあの時、痛みと恐怖、それになりより、驚きがあったのだろうと思う。とにかくわたしはあの時、麗奈の目を正視出来なかった。


 この包丁が悪いんだ。

 この包丁こそ、不吉の象徴なのだ。


 冷たく激しい川の水に流されればこの包丁も、そしてわたしの気持ちも浄化される。そんな気がした。


 包丁を右手に強く握りしめた。

 包丁は、いやに重たく感じられた。


 川が激しく流れる音が聞こえる。蝉の鳴き声も同じくらいの音量で聞こえた。

 ここから川の水面まで、十メートル程度の距離だ。

 わたしは橋の欄干の上に右手首を乗せた。包丁の刃が陽の光を鈍く反射している。


 この右手の力を抜けば、包丁は川の底へと真っ逆さまに落ちていく。

 だがなぜか、包丁を握る力はさっきよりも強まっていた。


 麗奈の身体から溢れ出る血しぶきと、膨らむ目玉のイメージがわたしの頭を占拠していた。

 わたしの右手は小刻みに震えていた。



    〇



 白い服を着た女の子が青い空に向かって右腕を伸ばしました。


「本当に大丈夫なの?」

「大丈夫よ。見てて」白い服の女の子は言いました。



 白い服の女の子は、魔女の娘でした。

 彼女のお母さんは、村で有名な魔女なのです。



 白い服の女の子は腕を伸ばしたまま、なにやら呪文を唱え始めます。

 それは、周りの子供たちには理解の出来ない言葉でした。

「へんな呪文!」と男の子が笑いました。

「しっ!」隣の子が人差し指を口に当て、静かにするよう注意します。


 みんな、静かに女の子の呪文を聞きました。


 女の子は右手の人差し指で、太陽の方角をさしました。

 女の子の呪文はなおもつづいています。

 大声でもなく、囁くような声でもない。中くらいの声で、抑揚のない呪文が彼女の口から流れ出ていきます。


 しばらくして、一人の子が異変に気付きました。

 ハチの飛び方が、少し変なのです。

 さっきまで子供たちの頭の上を優雅に力強く飛んでいたハチの動きが、今はちょっとだけ、頼りなく見えます。

 ふらふらとして、元気がありません。急に落ちたり、また飛びあがったり。

 とにかく、なにかが変なのです。

 するとみんなも徐々に異変に気付いて、いままで白い服の女の子へと向けられていた視線は、ハチに集まりました。


 ゆらゆらと頼りなく飛んでいるハチは、やがて白い服の女の子へと少しずつ近づいていきました。

 子供たちは、息をのんでその光景を見守りました。

 意味のわからない呪文に、様子のおかしいハチ。

 みんな、なんだか怖くなってきました。

 だけどその場を離れる子は一人もいません。みんな身動きひとつせず、ハチから一瞬たりとも視線を外しませんでした。

 ハチと白い服の女の子の距離はみるみる縮まって、やがてハチは、太陽の方角をさしている女の子の人差し指にとまりました。

 そして女の子の指先にとまったハチは、ゆっくりとその上を歩きはじめます。

 ハチは指先から手のひらへと歩き、手のひらから手首、手首から女の子の腕へと進んでいきました。


 やがて右腕の肘を通り越したあたりで、ハチはその動きを止めました。

 もちろんみんな、ハチから目を逸らしてはいません。


 不気味な静けさの中に、呪文だけが森に響きます。


 すると、

「刺した!」男の子が叫びました。

 女の子に止まっていたハチが、その鋭い針で彼女の二の腕を刺したのです。


「大丈夫?」

「痛くない?」

 みんな、心配そうに白い服の女の子に話しかけます。


 だけど女の子は呪文を唱えることをやめません。

 そして女の子はニヤっと、笑います。


 女の子の笑顔を見て、みんなは一歩あとずさりました。


 呪文がつづく中、ハチは針を抜いて、女の子の腕の上を再び歩きだします。

 ハチはどう見てもさらに弱っているようでした。

 女の子の腕の上をたどたどしく歩き、羽はぴくりとも動かしませんでした。


「もうやめて! なんだか怖い!」

 ひとりの子が静寂を破るように言葉を発すると、

「そうだよ! もうやめて」

「刺されても平気なのはわかったから、もうやめてよ」

「そうだ、そうだ!」

 みんなが不安げに声をあげます。


 でも呪文を唱えるつづける女の子は、左の人差し指を唇に押し当て、静かにするよう身振りで伝えます。

 人差し指の下にある彼女の唇は、不敵に歪んでいました。


 みんなが静かになると彼女は左手の指を口元から離し、今度はその指で右腕にいるハチをさしました。

 素直な子供たちは、さらに顔を近づけて、再びハチを注意深く観察します。

 腕の上のハチはすでに歩くのをやめ、その場でただふらふらと揺れていました。

 正確には揺れているというより、小刻みに震えている、といったほうがいいかもしれません。


 ハチの頭も触覚も脚も胴体も、全部がぷるぷると痙攣するように震えているのです。


 すると、勇気のある男の子が人一倍ハチに顔を近づけてその様子を観察し始めました。

 男の子は真剣な眼差しでハチを見つめています。

 ハチと男の子の顔は、あとちょっとで触れてしまえるくらいの距離でした。


 そしてその男の子はひとりごとのように言いました。

「ハチが沸騰してる」


 男の子の言葉を不思議に思った子供たちは、ハチを観察する目をさらに細くします。

 するとたしかに、ハチの身体の中でなにかが沸騰しているかのように、ハチの全身が波打っているのがわかりました。

 その光景は、まるで夢の中の出来事のように強烈で、不思議なものでした。

 にわかには信じられない光景でしたが、ハチの中で何かとてつもないことが起きているのはたしかです。身体の表面が波打っているせいでハチはまるで、やわらかな風船のようにも見えます。


 ハチの身体の内部で一体何が起きているのでしょうか。


 そして特にハチの目です。

 黒くて茶色い、飴玉のような二つの目。その表面がゼリーのように、とりわけ激しく波打っているのです。

 その動きは、みるみる大きくなっていきます。


 ハチの身体、そして目が液体のように、悪夢のように、グロテスクな動きを繰り返します。


 やがてその波打つような動きは頂点に達し……



 ハチの目が、パチン、と弾けました。



 激しい波動に耐えられなくなったハチの目が、得体のしれない液体を周囲にまき散らしながら、爆発したのです。

 ハチの目玉と共に炸裂した黒い汁は、ハチの一番近くで見ていた男の子の顔にかかってしまいました。

 黒い汁で顔の汚れた男の子は、きょとんとした顔をしています。



 誰かが、きゃー、と耳に突き刺さるような大きな声で叫びました。



    〇



 包丁が川に落ちた。

 落ちた音は聞こえてこなかった。


 わたしの右手はまだ震えていた。


 これですべてを厄介払い出来るはずだ、と思った。

 わたしはようやくクリーンになれるはずだ。


 川面と衝突し、その後川の底へと沈んでいく包丁。すぐにその姿は見えなくなる。

 そしてわたしは気づいた。



 ああ、こんなことじゃ何も変わらないんだ、と。



 川は青かった。

 わたしは、さっき駅で飲んだサイダーを思い出した。

 サイダーも青かった。

 嘘くさいくらいに。


 わたしが子供のころは、世界はすべて青かったのかもしれない、とふと思う。


 夏休みのサイダー、友達と行ったプール、初めての恋。

 みんなみんな、透き通るような青だった。

 空は青くて、わたしの心も青かった。

 飛んでいる小鳥も青く、空と鳥のように、わたしもいつだって彼らの青と一体になることが出来るような気がしていた。


 あの頃、わたしは透明で美しい青の中を踊っていたのだった。



 だけどもう、あの頃の青は取り戻せない。



 いつの間にかサイダーの青は人口的な風合いを強め、嘘くさくなってしまった。

 夏の日の空の青は、いまやわたしに重苦しく垂れこめる。



 いつからだろう、わたしの青が、こんなにべっとりとして濁った青になってしまったのは。



 腐敗した青いゼリーに湧くウジ虫たち――

 いつの間にか消え失せたイノセンス――



 幼い日に戻りたい。

 川の水のように新鮮で、光り輝き、炭酸のようにはじけ、透明で穢れのない日々に。


 わたしはもう一度、あの青に浸って踊りたい。


 そしてわたしは必死に、あの青を取り戻そうとする――



 父の運転する車に揺られ、助手席で暖かな夕陽にまどろんだ日曜の午後……

 もういまはない古い映画館で友達と観たSFと、ふかふかの赤い座席とポップコーン……

 風に揺れる教室の白いカーテン……

 学校の緑の廊下と梅雨の湿気……

 お祭りのわたがしと金魚すくいの匂い……

 気持ちのいい冷たい風がスカートを揺らしさらさらとわたしの脚をくすぐる……

 段ボールでつくった秘密基地……

 竹藪の中にあったファンタジー……

 朝は清廉で、夜には安らぎと希望があった……

 水彩のような毎日にすべては溶け合い、異物はひとつも見当たらなかった……

 なにもかもが順調だった日々……


 あの日々。



 今のわたしは、例えるならまるで安物の造花のようだ。

 肉体が精神に完全に打ち勝ってしまった。

 汗と血と、金属の味がする人間になり果ててしまった。



 パレットの上で、綺麗な青色に少しだけ黄色を混ぜる。これも素敵な色だ。

 そこに赤色を混ぜてみる。今度は紫を加える。徐々に何かがおかしくなる。

 美味しいジュースのように透き通り、魅惑的だった色がだんだんと小汚い色になる。

 そうなってしまったら、もう二度と元には戻らない。


 そうして出来た色が、いまのわたしだ。

 それが大人の色なのだ。



 わたしは殺人犯で、そして同時に、大人なのだ。





 あいかわらず蝉は鳴き、川は激しく流れていた。

 橋の欄干はところどころが錆びていた。

 さっきまで包丁を握っていた右手を動かすと欄干の錆びついた金属に触れてしまい、鈍い痛みを感じた。


 耳元でいきなり、ぶうん、と音がした。

 蜂だった。


 大きな蜂だ。

 目が覚めるような黄色の胴体に、太く黒いラインが数本走っている。

 黄色と黒の組み合わせは、人を無意識に警戒させるものだ。踏切や救急車の甲高いサイレンのように。

 蜂は不吉だ。わたしはそう思う。

 わたしは蜂の動きを目で追った。

 蜂はその羽を揺らし、縦横無尽に大気中を飛んでいた。


 わたしはしばらくの間、ただ蜂だけを見ていた。

 わたしの目線は蜂の行方とともにふらふらと彷徨っていた。

 ただでさえ暑さや疲労でぼんやりとしていたわたしの頭は、素早く動く蜂を目で追いつづけることで、さらにトリップしていった。


 やがて周囲の風景は水彩画のように境界線がぼやけ、わたしの目には唯一蜂だけが写実的に映った。


 一枚の水彩の風景画の上を、蜂はリアリスティックな羽を小刻みに震わせてするすると飛んでいた。


 わたしの焦点は蜂にだけ合って、向こうに見える景色はピンボケしている。

 蜂を中心に、ぼやけた水彩画が回転しているようにも見える。

 だがそのピンボケした世界の中に、一瞬、人間のシルエットが見えたような気がした。


 わたしは、はっとした。


 その人影はまどろみの世界にいるわたしを一気に現実の世界へと引き戻した。

 一瞬にしてすべての視界はクリアになり、水彩画は消え失せる。


 人がひとり立っていた。

 魔女だった。


 駅前の魔女が、橋のたもとに立っていたのだった。



    〇



 ハチの目玉が、黒い液体をまき散らして爆発しました。


 黒い汁を顔いっぱいに浴びた男の子は、はじめきょとんとした顔をしていましたが、その内にだんだんと恐怖が滲み出してきて、その顔は徐々に歪んでいきました。


 呪文を唱えていた白い服の女の子は、満足そうに笑いました。

「ね? すごいでしょ」


 みんな何と言っていいかわからず、お互いの顔を見合わせます。

 苦笑いしている男の子。ひきつった顔をした女の子。

 泣き出してしまう女の子もいました。


「ねえねえ……すごかったでしょ?」白い服を着た女の子は、屈託のない表情でみんなに聞きます。「なんで誰もほめてくれないの?」

 

 すると、黒い汁を顔に浴びた男の子が言いました。

「……気持ち悪い」

 男の子の頬で黒い汁が一筋、つーっ、と垂れました。

 この黒い汁の正体は一体何なのか、男の子は知りたくもありません。


「そうだ、……そうだよ! 気持ち悪いよ!」と他の子も彼につづきました。

 それを聞いて、みんな一斉に声を上げ始めます。

「そうだそうだ!」

「気持ち悪いんだよ!」

「あんなの見たくなかった!」

 子供たちの大合唱が起こりました。

 白い服の女の子の笑顔が、だんだんと消えていきます。

「なんであんなことしたんだよ?」

「へんなことするなよ!」


「……ハチをやっつけただけだもん!」女の子はたまらなくなって言います。「ハチは……みんなも嫌いでしょ?」


「そういう問題じゃない!」と反論の声。

「さっき見た光景が目から離れなくて、今晩ごはん食べられないぞ! どうしてくれる?」と言う子もいます。

「そうだそうだ!」みんなが声を揃えます。


 そして、ひとりの男の子が白い服の女の子を指さしてひときわ大きな声で言いました。「全部あいつが悪いんだ!」


「そうだ!」「そうだそうだ!」同調するみんなの声はどんどん大きくなっていきます。

「あいつは魔女だ!」

「そうだそうだ!」

「魔女の娘は、やっぱり魔女だったんだ!」

「そうだ!」

「気持ちの悪い魔女だ!」

「魔女だ魔女だ!」


 あれよあれよという間に、女の子のまわりを興奮した大勢の子供たちが取り囲んでいました。いまにも、白い服の女の子を押しつぶさんばかりの迫力です。

「やめて!」という彼女の声はもう誰の耳にも届きません。


「魔女だ!」

「魔女だ!」

「魔女だー!」


 目の覚めるような綺麗な色の服を着た大勢の小さな子供たちが、白い服の女の子に押し寄せています。

 こんな状況には不釣り合いなほど、その様子はとてもカラフルでした。


 「みんな、やめて……。つぶれちゃう……」白い服の女の子は、ひとりごとのように言いました。その声は、呪文を唱えていたさっきまでの声とはまるで違って、弱々しいものでした。


 カラフルな子供たちの中に埋もれる、白い服を着た女の子。


 白い服の女の子は、取り除かれるべき異物となってしまったのです。


 いまや子供たちはパニック状態でした。

 女の子を中心として、おしくらまんじゅうのように大勢の子供たちが押し合いへし合いをしています。

「こいつは魔女だ!」

「殺しちゃえ!」

「苦しい……」狂乱の中心となっている女の子は息をするのも難しいくらい、みんなに押しつぶされていました。

「穢れた魔女を殺せ!」

「不吉な女の子だ!」

「汚いから殺しちゃえ!」


「……やめて……」


「不潔だ」


「……助けて」


「殺せ!」


「……許して」


「殺せ!」


「……お願い」


「殺せ!」

「殺せ!」

「殺せ!」


 もう限界でした。

 みんなに押しつぶされた女の子は、このままでは息が出来なくて、死んでしまいそうです。


「殺せ、殺せ、殺せー!」



 もうだめ!



 それは一瞬の出来事でした。

 ひと塊となった子供たちの中心に、いきなりぽっかりと空間がうまれたのです。

 白い服の女の子が突然、消えてしまったのでした。


 女の子のいる場所へ向かって押し合いをしていた子供たちは、いきなりそこに女の子ひとり分の空間が生じてしまったことでバランスを崩してしまいます。

 わー、っと叫びながら、子供たちは雪崩を起こして倒れていきます。

 隣の子の頭と頭がごつん、とぶつかります。肩と肩もぶつかり合って、上からは人が覆いかぶさってきます。

 みんな、突然の出来事になにがなんだかわかりません。


 倒れた子供たちは、重なり合っていました。

 さっきまで騒いでいた子供たちは、今は言葉にならないくぐもった声を漏らすのでした。



 そんな彼らの頭上を、一匹のハチが優雅に飛び回っていました。



 苦しそうに重なり合う子供たちを見下ろし、ハチは軽快な羽音を鳴らして飛んでいます。

 そしてそのハチの正体は、白い服の女の子なのでした。


 女の子は、ハチになったのです。


 ハチは、重なってもがいている子供たちの耳元をかすめたり、彼らの髪の毛を撫でたりしながら自在に飛びます。

 ぶん、と耳元でハチの音がすると、子供たちはきゃっ、と怯えた声を出します。

 そんなことおかまいなしに、ハチはみんなの間を縫うようにして飛びました。


 さっきまで自分を責めていた仲間たちを上から客観的に見つめながら、ハチになった女の子は気ままに飛びます。

 もう苦しくはありません。

 自由なのです。



 それからハチは子供たちの頭の上を何周かすると、気が済んだのかどこか遠くへ飛んで行ってしまいました。

 そしてその後、二度とこの場所に帰ってくることはありませんでした。



    〇



 踏切のサイレンが聞こえた。


 蝉のサイレンが聞こえた。


 蜂のサイレンが聞こえた。


 魔女のサイレンが聞こえた。


 イノセンスの終わりを告げるサイレンが聞こえた。



 女は黄色い花を手に、涼しい顔をして橋のたもとに佇んでいた。

 駅前で出会った、魔女のような女。


 どこから見ていたのだろうか。

 わたしが凶器を川へ捨てる様子を、彼女はずっと見ていたのだろうか。

 わたしはこの数日間、殺人を犯した逃亡者として相応しいであろう振舞いをなんとかつづけてきた。なるべく他人の目に触れないよう、注意もしてきた。それなのにこの局面になって証拠の隠滅を目撃されるなど、愚の骨頂としか言いようがない。


 だが正直、もうどうでもよかった。

 女に通報されようが、わたしが逮捕されようが、もうどうだっていい。


 だって、失ってしまったものを取り戻すことは出来ないのだから。



 包丁に巻いていたコンビニのビニール袋が風に飛ばされて宙を舞った。

 その風は魔女の黒い服も揺らした。

 魔女はわたしの目を見ていた。

 わたしは彼女の目を直視出来なかった。駅前で出会った時のように。彼女の目には、文字通り“魔力”が宿っているようだった。

 わたしは不安になった。

 凶器の隠ぺいが目撃されたかもしれないから、などという理由ではない。

 女の目に見つめられ、わたしはただただ、理由のない不安に襲われたのだった。

 川を流れる水の音と蝉の声がわたしの神経をさらに逆撫でした。

 そして女が歩き始める。

 わたしに向かって。



 夏は不吉だ。



 魔女はわたしのすぐ目の前に立つと、囁くように言った。「ねえ」 


 近距離で魔女の目を直視したわたしは、不安の訳がわかった。

 駅前で会った時、彼女の目は爬虫類や昆虫のそれを思わせるという印象を抱いていた。

 実際、女の目は昆虫の目そのものなのだった。


 白目の部分がなく、眼球は濃い茶色、一色だ。

 その目は、さっきまでわたしの前を飛んでいた蜂の目にも似ていた。

 わたしの中の不安はピークを越え、痺れるような恐怖へと形を変えていた。

 わたしはあとずさった。橋の欄干に腰がぶつかる。

 昆虫の目をした魔女に至近距離で見つめられ、わたしは彼女から目を逸らすことが出来ない。


 そして魔女は、両手で力いっぱいわたしを押した。



 夏は不吉だ。



 わたしは橋から真っ逆さまに落ちていった。



    〇



 透き通るビー玉、カラフルなおはじき、フルーツ味のキャンディ、ビニール袋の中を泳ぐ金魚たち――



 橋から落ちていくわたしは、安堵感でいっぱいだった。

 束縛から解放された心地のよさと、現実離れした郷愁に浸っていた。

 それは、恍惚にも似ていた。


 甘い太陽に溶かされて、わたしもついに水になるんだ。


 もう怖いものは何もなかった。

 失うものはもう何ひとつなかったし、いまなら失ったものもすべて取り返せそうな気がした。


 苦い味はもうしない。


 手が届きそうで届かないレモンジュースの甘さ。


 黄色いガラス玉を舐めたらどんな味がするんだろう。


 誰もいない映画館でひとり涙を流すわたし。映写機によって回転されるフィルムの音。


 スクリーンに映し出されるフィルムのノイズ、幻の記憶たち。


 真っ暗な映画館の客席を、時折スクリーンの光が照らす。


 すべては幻想で、錯覚なのだろうか。


 ポップコーンの香りが嗅覚をくすぐり、スクリーンの上ではカラフルな子供たちが優雅に唄い、踊っていた。


 手に入るものなど何もないんだ。だけど、手から離れていくものだってひとつもない。


 なぜか涙が止まらなかった。


 不安と浮遊感は紙一重。


 ジェットコースターのように回転をはじめるフィルム。


 やがてスクリーンにはわたしの見た最後の光景が映し出される。


 落ちていくわたしを橋の上から見つめる、蜂の目をした魔女。


 魔女の顔はそして、ゆっくりと溶けるように変貌していく。


 その顔はやがて、麗奈の顔になった。


 ああ、殺されたのはわたしのほうだったんだ、と今さら気づく。


 回転の速度に耐えきれなくなって、フィルムが燃えはじめる。


 ねじれ、燃え上がり、化学変化に溶けていくフィルム。思い出が消えていく。


 スクリーンには、燃えゆくフィルムが描き出すまだらな光の模様が広がっていた。

 その上を、蜂になったわたしがさっそうと飛んだ。

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道上拓磨 @t-michigami

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