第16話 エキゾティックでありながら、強すぎない
カレンダーに締切日を書き込むと、インターネットにつなぐのをやめて、原稿に向き合った。それからまず三日間、コーヒーとパンと原稿の日々。四日目には、コーヒーの飲み過ぎで胃が受けつけなくなり、白湯で胃をあたためて半日ほど寝込んだ。
とりかかっている海都社で拾い上げされつつある小説の内容は、女性が主人公のお仕事小説のカテゴリに入るものだった。
アフター活動で花を食べる会というサークルに参加している女性が、いつしか自分で摘み草花のスイーツのカフェを開きたくなり、その実現のために試行錯誤しながらがんばるというものだった。恋愛模様もあるが、どちらかといえば自己実現に重きがおかれていて、がんばる人へのエール小説だった。
長編を書き初めてからはまだ間がないこともあり、全体のバランスはとれてないし、内容も冗長だったが、ハッピーエンドで走り切ることができ、自分としてはすっきりした気分になれた小説だった。
とにかく小説未満と言われるかもしれないが、なんとしても書き上げて編集のプロの目でみてもらう。
まずは、それが第一歩だ。
そう思って寝食を忘れて書いた一作だった。
自宅だったこともあり、病み上がり休養中ということで、親からも再就職を急かされることもなく、恵まれた環境での執筆だった。
泊愛久だったら、たぶん、一読して何も言わずに返してくるだろう。
純文学とは言い難い内容だから。
ライトな作風の純文学作家が書くかもしれないけれど、そこまでのレベルにはもちろん到達していない。
それでも、もがきながら書き上げた。
直後は、書ききった感で、手を入れるところはないと思ったが、こうしてたっぷりと朱の入った原稿を前にすると、頭の中がぐるぐるしてきて沸騰しそうになる。
そんな風に悩みぬいて、ひとまわりして、どうにも身動きがとれなくなったところに、泊愛久から連絡があった。
「今、電話してもいい」といったメールの文面に、私は思わず口元がゆるんだ。
電話嫌いの彼女からの、電話で話そうというメールは、私を浮き立たせる。
泊愛久の郷里で卒業後会った時に、彼女は東京に帰りたいと言っていたが、その後も郷里を離れることなく、時おりふらりと旅に出て、所在不明になって、家にもどってしばらくこもって書いてをくり返して今に至っている。
ただ、私が事故にあって生還したのをきっかけに、以前より頻繁に連絡をしてくれるようになった。
旅の途中に東京へ寄ることも増えていた。
私はすぐにこちらから電話をかけた。
「有休とれたから来週そっち行くけど会える」
彼女の電話は、挨拶は抜きで、用件から入る。
「有給? 働いてるの」
「参考資料」
「資料を買うために? 」
「働くことが」
あ、そっか。
取材兼なんだと気付く。
「何してるの」
「守秘義務」
とりつくしまもない。
「私は、書いてる」
「そう」
そっけないのは彼女の持ち味だけれど、少しはつっこんで欲しかった。
「読み返していると、混乱してきちゃって」
「そう」
沈黙。
「ごめん。自分のことばかりしゃべってる」
なんか言ってよ、と言い募りそうになるのを思いとどまって、私は深呼吸した。
「あれ、残ってる? 」
「え、何」
「練り香水」
彼女が自分でブレンドした練り香水。
チョコレートのように、いつのまにか私のショルダーバッグに入っていた。
イランイランの強い甘さを、パルマローザ、フランキンセンスの柑橘を思わせるさわやかなハーバルテイストが和らげている。エキゾティックでありながら、強すぎない。なんとなくすぐれない時に、手首に付けてうたた寝をする。そうしているうちに、残りは少なくなっていた。
「え、と、そろそろ使いきるかな」
「そう」
「けっこう、これに、助けられてるかも」
今度の沈黙には、冷たさは感じなかった。
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