鎌倉でタイムスリップしたのだけれど、別に帰りたくなかった

綾坂キョウ

あたしたちが恋を失くした話

 予想もしていなかったことというのは、当然ながらいつだって突然にやってくるわけで。そしてもちろん、あたしはこんなこと、予想もしていなかったので。


 たとえば、それは。突然の、タイムスリップだったりとか。


※※※


「ゆき殿。危ないですよ」

 そんな涼しい声と共に、頭に思い切り衝撃を受けて、あたしは思い切り床に倒れ込んだ。板張りの床は、ほんのりと冷たくて、あと痛い。パタパタという足音が二つ近づいてきて、「おねえさま!」「ゆき殿っ」と甲高い声があたしの耳元で叫んでくるので、更にキンとして痛い。


「ごめんなさい、おねえさま。ひめがだっこしようとしたらね、こうめ、あばれてにげちゃって」

 まだ小さい、小学校に入りたてくらいの年齢の女の子が、大きな目をうるうるさせながら、そんなことを言ってくる。というのはこの女の子の飼い猫で、ぶちの模様がちょっと個性的で、身体はむっくりと大きくて、ちょっとふてぶてしい顔をしていて――今も、人様の頭をふんずけていったことも忘れて、のんきにあくびなんかしている。


 眉を寄せて頭をさすっているあたしを見て、女の子よりいくらか年上の男の子が、きりっとした顔で「ゆき殿」とあたしを呼ぶ。

「ゆき殿、怒らないでくださいね。姫様も、頑張って抱っこしようとしてたんですよ。でも、こうめは力が強いし、ゆき殿は、その。ぼんやりなさってたし――」

「あー、ハイハイ。別に動物のすることにいちいち怒ったって仕方ないし、ぼんやりしていてすみませんねー」

 あたしの投げやりな言葉を聞いて、女の子と男の子が顔を見合わせて、にっこりとする。二人はそれぞれ、ひな人形みたいな恰好をしていて、並んでいると本当にお内裏様とおひな様という感じで、なんだかとっても微笑ましい。思わず、つられてあたしもにっこりする。


「さすがゆき殿。分をわきまえていらっしゃる」

 さっきも聞こえた涼やかな声が、満足そうに言うのを聞いて、あたしのにっこりはあっという間に崩れた。じろっとそっちを見ると、男の子と同じような服装の若い男の人が、ツンとした顔でこっちを見返していた。


「ある日急に、屋敷の庭に倒れていて。普通なら不審な者として捕えられても良いところを、大姫様と義高よしたか殿にかばっていただき、そのうえ客人として迎えられているのですから。恩人たるお二人に怒るなど、そんな不敬な真似、まさかいたしますまい。

 もしそんなことがあればこのほり藤次とうじ親家ちかいえ、即刻その素っ首刎ねて――」

「ハイハイハイ三食昼寝付きで居候させてもらってる分際ですから言われなくても分かってますー! だから刀はしまってよおっかないッ」


 ――そうなんだ。一週間前。あたしは、修学旅行で鎌倉に来て。その班別行動中に、急に意識を失っちゃって。

 気がついたときには、このにこにこ顔のおっかないお兄さん――藤次さんに、縄でぐるぐる巻きに縛られていた。


 状況が分からなくて、パニックになりかけていたあたしを助けてくれたのが、このひな人形的おちびさんたち。自分たちでちゃんと面倒見るから、って身柄を引き取ってくれたらしい。あたしはペットか。


 ふつうなら、こんな小さな子達のそんな言葉、気にもとめられないんだろうけど。この子達は、ちょっと特別なんだ。なんて言ったって――。


「だめよ、とうじ。おねえさまをいじめたら」

 女の子――大姫ちゃんが、いつの間にかちょこんとあたしの隣にいて、あたしの腰にぎゅっとしがみついた。

「おとうさまに、いいつけちゃうんだから」

 その、短い腕を一生懸命伸ばしながら、抱き締めてくる、その感覚が。あまりにも、温かで。いかにもワガママなお姫様っぽい台詞も、むしろ可愛さを倍増させるものだから、あたしはむぎゅっと抱き締め返してしまう。

「そうですよ、堀殿。ゆき殿は、我らの大切な客人なのですから。ちゃんとしつけもしますし、ご安心ください」

 義高くんの言葉に、「だから、あたしはペットじゃないし」と言いたくなるけれど。義高くんは至極真面目な顔をしてるものだから、ツッコミを入れる気力も起きない。


 藤次さんは「まったく」と溜め息をつくと、「仕方ないですね」と首を右左に振った。

「大姫様と、義高殿には敵いませんね。それに、鎌倉殿に叱られるのは、御免ごめんこうむりますし」

 いかにも、「やれやれ」って感じの口ぶりだけれど。藤次さんの目尻は少し垂れてて、口元は少しきゅっと上がっている。


 かと思ったら、すぐにすっと顔を引き締めて。

「ゆき殿」

「え? あ、はいっ」

 思わずシャキッと背筋を伸ばすあたしに、藤次さんはまた、あのツンとした顔と口調を向けてくる。

「鎌倉殿のお膝元たるこの館で、妙な真似など決してなさらぬよう。なにより、鎌倉殿のご息女であられる大姫様と、従甥いとこおいたる義高殿には、しっかりと敬意を払うのですよ」

「分かった、分かった。分かってますよー」

 それこそ、ここに来てからもう何十回と言い聞かせられてる言葉だ。こくこくと適当に頷くあたしを、藤次さんはちょっと眉をしかめて見て。それからまた、「やれやれ」と首を振った。


 その視線が外れた隙に、あたしは藤次さんに向かってべーっと舌を出して。隣で、大姫ちゃんも同じ顔をしながら、目だけこっちを見ていて。あたしたちは、顔を見合わせてクスクス笑ってしまった。


※※※


「また負けてしまいました」

 がっくりと肩を落とす義高くんに、ふふんとあたしはピースした。

「おねえさま、つよいです。ほんとうに、やったことなかったんですか?」

「あたし、運が良い方なんだよねー」

 そう言って、あたしは目の前の双六盤すごろくばんに置かれた白いコマをつまんだ。


 双六、って言っても、小さい頃によく家族や友達と遊んだのとは、ちょっとと言うか、かなり違う。そんなわけで、あたしは簡単なルールを義高くんに教わりながら、一緒に遊んでいた。


 そう――あたしの知っている、ボードゲームの双六とは違う。何故ならここは、あたしが住んでいたよりもずっとずっと昔で。具体的に言うと、「鎌倉殿」――って呼ばれている、源頼朝みなもとのよりともの時代、らしい。


 源頼朝。小学生だって知っている、歴史上の大有名人だ。そして、あたしにもたれるようにしてにこにこしているのは、その子どもの大姫ちゃん。そんなわけだから、この可愛いお姫様のご機嫌を損ねたい人なんて、ここにはそうそういない。

 そんなわけで、その客人ペットなあたしは、悠々自適にこうして遊び過ごしていられる。とは言っても、結局はおちびちゃん二人の子守りみたいな感じだけど。


「あ、もう。こうめったら、また」

 藤次さんの言うところの、「鎌倉殿のお膝元」で、大姫ちゃんの機嫌なんて気にしない、数少ない存在であるこうめが、ちょろりと廊下へと逃げ出した。大姫ちゃんが、赤い着物をはたはたとさせながら、転がるようにそれを追いかける。


「まってよ、こうめぇ」

 義高くんは、それをにこにこと眺めながら、盤上の黒いコマを片付け始めた。あたしも、白いコマをひょいひょいと箱にしまう。

「義高くんってさ。いつも大姫ちゃんの面倒みてて、偉いよね。優しいお兄ちゃんって感じ」

「そう……ですか?」

 義高くんは、首を横に傾げながらこっちを見た。あれ? と、あたしも一緒になって首を傾げる。

「だって、義高くんのが、大姫ちゃんよりけっこう年上でしょ? 一緒に遊んでても、ねぇ」

「そういうことでしたら――いえ、楽しいですよ」

 そう言って、箱のふたをする義高くんは。なんだかとても、大人びた顔をしていた。

「大姫の笑顔を見ているときが一番、僕は心がふわっとするんです」

「へぇ……?」

 なんだ。嫌々、年下の再従兄弟はとこの面倒をみてるわけじゃないんだ。

「じゃあ、義高くんは大姫ちゃんの騎士ナイト様なんだねぇ」

「ないと?」

 義高くんが、きょとんと言葉を繰り返す。そっか、今の時代には、騎士ナイトなんて言葉はないんだ。

「えっとねぇ、なんて言うか。お姫様を守る人、みたいな?」

「姫様を、守る」

 もう一度あたしの言葉を、噛み砕くように繰り返した義高くんは。何故だか一瞬、泣きそうな顔になったかと思うと、「いいえ」と心なし強く首を振った。


「だとしたら、逆です。姫様が、僕のなんです」

「え?」

 廊下から、「こうめ、捕まえたーっ」と大姫ちゃんの歓声が聞こえてくる。そちらを義高くんは、本当に――マシュマロみたいに柔らかく目をゆるませて、見つめた。


「姫様が、僕を守ってくださってるんです」


 そんな義高くんの言葉の意味を、理解する日が来たのは――思ったよりも、早かった。


※※※


「静かに」

 すっかりなれてきた廊下を、とてとてと歩いていたあたしは、後ろから急に聞こえた声に、小さな悲鳴を上げかけた。


「静かに、と言っただろう」

「藤次、さん」

 嫌そうな目で見下ろしてくる藤次さんを、あたしはまだドキドキしている胸をおさえながら、見返した。藤次さんは「いいから」と、軽くあたしの背中を押してくる。

「そのまま、歩け」


 なんだかおかしな様子に、あたしは戸惑いながらも言われた通りにした。背中に触れている、藤次さんの大きくて固い手のひらから、ピリピリとしたものが伝わってくる気がした。


「あの。藤次さん?」

「――義高殿が殺される」

 ぼそりと、本当に小さな声で。藤次さんが呟いた。

「……は?」

 突然、わけが分からない。思わず足を止めかけたけれど、さっきよりも強く背中を押されて、つんのめりそうになりながら歩き続ける。


「なんでもない顔をしながら、よく聞け。そして大姫様にお伝え申し上げろ。――鎌倉殿が、義高殿を殺そうとしている」

 なんで。

 なんで、そんなこと。

「義高殿は、大姫様との縁組みのためにここにいるが――本来は、父君ちちぎみである木曽きそ殿と鎌倉殿が協定を結ぶための人質であった。

 が……結局、木曽殿は敵対し、先だって討ち取られた。となれば、義高殿は用済みどころか、不安要素でしかない」

「え。あの、ちょっと」

「鎌倉殿は、すぐに動き出す。とにかく、く大姫様に――」

「ちょっと待ってってばッ」


 あたしは無理矢理身体をよじると、藤次さんの袖をつかんで、キッとその顔をにらんだ。

「なんなのさきから。大姫ちゃんも、義高くんも、あんなに小さいんだよ? なのに、縁組みだなんだっていうのだけでも、びっくりなのに……人質? 用済み? なにそれ、なんなのそれッ」

 意味が分からない。酷すぎる。胸がむかむかする。

 藤次さんは、眉をぎゅっと寄せると口を開きかけ――でも結局、そのまま口は閉じてしまった。代わりに、あたしの手をすっとほどいて後ろを向いてしまった。


「良いか。とにかく、大姫様にしっかり伝えるんだ」

 分かったな、と念を押し、またなにごともなかったように歩き去っていく後ろ姿をにらみ。あたしは急いで踵をかえすと、走って大姫ちゃんたちの元へと走った。


※※※


 ばたばたばたとやってきたあたしを見て、大姫ちゃんも義高くんも、あどけない顔をきょとんとさせていたのだけれど。

 なんとか伝えたあたしの言葉を聞いた二人は、騒ぐことも、泣くことも怒ることもしないで、黙って顔を見合わせた。


「よしたか、さま……」

「大丈夫、だから。姫様。僕は、大丈夫」

 大姫ちゃんの手が、震えている。その小さな手を、義高くんはほんの少しだけ大きな手で、包むようにぎゅっと握った。

 十歳かそこらの子が。殺されるかもしれない、っていう話を急に聞いて、こんな冷静でいられるものなのか。


 もしかして――ずっと、覚悟していたの? 殺されるかもしれないって。いつか、こういう日が来るかもしれないって、そう覚悟しながら――大人の勝手な都合で、家から離されて、ここで暮らしていたの? こんな、まだ。あたしのいた時代だったら、ランドセル背負っているような子が。

 親を殺されて。自分も殺されるかもって、そう思いながら。毎日、笑って過ごしていたの?

 そんな状況に、置かれていたっていうの?


「義高くん……」

 名前を呼びかけ――気づいた。義高くんの肩も、小さく震えてることに。


 ――そうだよ。そりゃ、そうだよ。

 いくら、覚悟してたって。怖いよね。怖いに、決まっている。


「……逃げよう」

 あたしは囁くように、二人に言った。弾かれたように、二人がこっちを見る。

「逃げて、どこまでも逃げてさ――あきらめたりしたら、ダメだよ絶対。生きぬかなきゃ」


 二人が、また顔を見合わせる。「そうだよ」――と、大姫ちゃんも大きく頷いた。

「にげて、よしたかさま。ひめがぜったいに、にがしてあげる」

「でも……僕は。姫様の婿むこなのに」

「そんなの、大人に勝手に決められたことでしょ? 無視、無視」

 パタパタと気楽に手を振るあたしを、でも、義高くんは睨んできた。

「そんなこと。たとえきっかけはどうであれ、僕は姫様の婿なんです。それは、間違いなんかじゃないんです」

「でも」

 そんなこと、言ってる場合じゃないのに。

 そう言いかけたあたしよりも先に、大姫ちゃんが義高くんの顔を覗き込んだ。


「だいじょうぶ、よしたかさま」

 まるで、さっきまでのやり取りを交代するかのように、今度は大姫ちゃんの小さな柔らかい手のひらが、義高くんの手を握る。

「ひめもさびしいけど、がまんするから。だからね、おっきくなったら、むかえにきてね。ひめのこと」

 やくそく、と大姫ちゃんがにっこり笑う。

「まってるから。いつまでだって。だから」

「……っはい」

 ぐしりと目もとを袖で拭いながら、義高くんは大きく頷いた。赤い顔をして、もう片方の手を大姫ちゃんの手に添えた。


「むかえにきますから。ぜったいのぜったいに、やくそくです」


※※※


 大姫ちゃんの提案で、義高くんは女の子の格好をして逃げることになった。二人のことを心配している、大姫ちゃんのお母さんも手伝ってくれることになったらしくて。大姫ちゃんと大姫ちゃんのお母さんが出かけるときに、お付きの女の人たちに交ざって、抜け出していった。


 そんな中、あたしは、双六盤の前に一人で座っていた。人気ひとけがいつもよりも少ない部屋のなかは、たまに通りかかる人の足音がぺたぺたと響くくらいで。風が、さやりと庭の木の枝を揺らしたり、鳥のさえずったり羽ばたいたりする音と一緒に、あたしの心臓のどきどきや、血が身体の中をさっと流れている音が、周りに聞こえているんじゃないかって錯覚するくらいだった。


「――殿

 後ろから聞こえてきた声に、あたしは心臓を捕まれたんじゃないかって感じるくらいにドキンとした。

「とうじ――堀、殿」

 振り返りながら、慌てて言い直す。乾いた唇をなめて、ちらっと見上げると、藤次さんが目を細めながらこちらを見下ろしていた。


「義高殿。また、双六ですか」

「う、んと。はい」

 へらっと笑う顔が、ひきつってしまう。そう、あたしは、今――なんだ。義高くんが逃げたことを、少しでも長く隠すために、義高くんの格好をして、義高くんの好きな双六をして。そうすることを、あたしが申し出た。


 藤次さんは、気づいてるだろうか。あたしが、義高くんじゃないってことに。

 そもそも、義高くんが狙われてることを教えてくれたのは藤次さんなんだから、隠さなくてもいい気がするけれど。でも、みんなが必死に義高くんを逃がそうとしているなかで、あたしの勝手な判断でうごくのは、怖い。


 藤次さんはほとんど足音を立てないで、あたしの正面に回って、双六盤の前へ腰を下ろした。まっさらな盤の上に、コマをじゃらりと並べる。

「せっかくですから、やりましょう」

「は、はい」


 あたしは白のコマ。藤次さんは黒のコマ。それぞれ十一個ずつの一列に並べて、二十四マスの盤上を、賽子サイコロの目の数に応じて、時計回りに回っていく。白と黒の列は、ぐるぐるとまるで、お互いの尻尾に噛みつこうとしてるみたいで。実際、お互いのコマを先に方が勝ちだ。


 カラリと賽子が転がって、パチパチと盤を叩きながらコマが進む。白いコマの先頭が、黒いコマの列の歩みに追いつこうとして。かと思ったら、黒いコマの列は白いコマのあおっている。


「追いつくでしょうか」

「逃げ切りますよ。僕――運が良いですから」

 パチリとコマを進める藤次さんに、あたしは口を尖らせた。賽子を投げて、目を確認してコマを進ませる。今度はあと一歩で、黒コマの列に食いつける。


「大姫様は」

 賽子を手に持ちながら、藤次さんがぽつりと呟いた。

「本当に、義高殿を好いていらっしゃいますね」

「え……? あ、あぁ。そう、かな?」

 あたしはなんて答えるのが正解なのか分からなくて、へらへらと笑ってみせた。藤次さんは、気にするふうでもなく「そうですよ」と賽子を投げた。一の目が出て、黒コマの列が一歩進む。


「義高様が、この館へいらっしゃられたとき。私は正直、この縁談はいかがなものかと思っておりました。御二人とも、幼すぎる上に――木曽殿の御気性を思えば、いつ破談になるかも分からない協定でしたから」

 お尻が遠ざかり、逆に頭が近づいてきた黒い列から離れるために、あたしは賽子を振った。――残念。進めない、目。


「大姫様は、もともと感受性の豊かな方で。幼いながらも、義高殿の複雑なお立場とお気持ちを察し、決して寂しい思いをなさらぬよう、寄り添い続けられた。特に――木曽殿が討たれてからは、一層に。そして義高殿もまた、それに応えてらっしゃった」

 賽子を取る、藤次さんの目は。いつもは鋭いのに、ほんのりと目尻が柔らかくて。ふだんはへの字の口元なんか、ちょこっと持ち上がったりしてて。


 ねぇ、藤次さん。なに考えてるの。なんで、そんな話するの。

 あなた、「鎌倉殿」の部下、なんでしょう? なのに、どうしてあたしに、義高くんが危険なことを教えてくれたの? どうして、二人を想ってそんな顔をするの?


 藤次さん、きっと、目の前にいるのが義高くんじゃないって、気づいてるんでしょう? あたしだって、分かってるんでしょう?


 なのに、なんで。なんで。なにを。


「――大姫様は、いつお戻りになられますか」

 藤次さんの声にはっとして、顔を上げると。藤次さんはいつの間にか賽子を振り終えていて、コマをトントンと進めていた。

「え……と。夜、には」

「そうですか」

 藤次さんの、コマを動かす手が止まる。「では」と立ち上がり、あたしを見下ろすその顔には、さっきまでの温かさなんて、欠片も残ってなくて。


「それまでは、お待ちしましょう」

 「え」と声を上げかけるあたしになんか見向きもしないで、立ち去っていくその後ろ姿を、あたしはただぼんやりと見送って。

 ふと見下ろした盤上では、白いコマの列が黒いコマに、食い荒らされていた。


※※※


 その夜だった。身代わりを置いて逃げ出した義高くんを、討てと。そんな命令が、正式に下されたのだと。そんなことを知ったのは。知ったところで、祈ることしか、あたしたちにできることなんてなかったけれど。

 大姫ちゃんは、顔こそ真っ青だったけれど。それでも、「だいじょうぶ」と繰り返していた。


「あのね。よしたかさまのには、とうじのがむかったの。とうじならきっと、よしたかさまをたすけてくれる」

 そっか。それならきっと、安心だよね。あたしはそう言って、大姫ちゃんをぎゅっと抱き締めた。

 もしかして、「鎌倉殿」もそのために、藤次さんを選んだのかな。そうだよね、娘が大好きなひとを――自分達の都合で振り回しちゃった子を、殺すだなんて。そんなこと、しないよね。


 良かったね、大姫ちゃん。あなたのお父さんは、きっと。ほんとうは、優しい人なんだよ。


※※※


「死ん、だ?」

 泥だらけの格好をした、藤次さんが。つんと澄ました顔の藤次さんが、「あぁ」と頷く。

昨日さくじつ、私の軍勢が発見してな。逃げようとしたところを部下が斬りつけ、亡くなられた」


 なんで。どうして、そんな。


「助けてくれるんじゃ、なかったの?」

「いつ、そんなことを言った」

 赤い手で、泥のついた頬を拭う藤次さん。ねぇ、そのはなんなの。誰の、なんなの。


「でも、でも。教えて……くれた、し」

「一度逃げてくれた方が、大姫様の婿殿を始末するための、大義名分を得やすいからな」

 なんてことないように、さくっと言う藤次さん。

「しかも、身代わりまで立てて、鎌倉殿をたばかろうとしていたしな。本当――お前のように分かりやすく動いてくれる者がいてくれたおかげだ。私は――運が、良い」

「――っ」


 あたしは。あたしは、言葉もなくて。苦しいのも、腹立たしいのも、悲しいのも。みんながごっちゃになった頭と心を、どう処理したら良いかも分からなくて。吐きそうなお腹を抱えて、呼吸をどうしたら良いかも思い出せなくて。


 あたしは。あたしは。


「ぃやぁああああッ!?」

 甲高い悲鳴が聞こえて、ゆっくりと振り返ると。そこには、真っ白な顔の大姫ちゃんがいて。

「そんな。そんな……よしたか、さま。そんな……やだぁあああアッ!!」


 泣き叫ぶ、小さな小さな女の子に。

 あたしは、なんて言ったら良いか分からなくて。なにをしてあげられるのか、検討もつかなくて。


 のろのろと近づいて抱き締めると、その身体はほんとうに、小さくて、華奢で。あたしの身体に、すっぽりとおさまってしまうくらいで。


「よしたかさま……よしたかさまぁ……ッ」

 可哀想な女の子。大好きなひとを失って。こんなに、こんなに小さいのに。こんなむごい理由で、泣かなければならないなんて。


「ごめん……ね。ごめんねぇ……ッ」

 あたしはぽつぽつと、その耳許で小さく繰り返す。抱き締めても、抱き締めても。身体を固くする大姫ちゃんには届かない。あたしは、なにもできない。


 やがて、夕方になって。泣き叫んでいた大姫ちゃんは、ぼんやりとただ、息をするだけになって。くったりと、あたしの膝に頭をのせていた。たまに呼びかけてみても、返事なんてなくて。


 どこからかこうめが来て、大姫ちゃんのお腹にのる。大姫ちゃんのゆっくりとした呼吸に合わせて、上下なんてしたりして。

 でも。ただ、それだけ。役になんて、立ちやしない。それは、あたしも一緒。役になんて、立ちやしない。あたしもこうめも、所詮はペットで。大姫ちゃんの心にいるのは、ただ一人、義高くんだけなんだから。


「……つらい、ね」

 大姫ちゃんの細い髪を、指ですく。さらりとして、柔らかい髪は、絡まることもなくするりと手からこぼれていく。


 つらいね、大姫ちゃん。なんで、こんな苦しまないといけないんだろうね。

 大姫ちゃんの身体は、射し込んでくる夕陽に染まって。まるで、心から流れ出る血が、そのまま目に見えるようで。


「大姫ちゃん。あたしね、とっても遠くから来たの」

 目は開いているのに、どこを見ているのか分からないくらい、心が行方不明な顔をしている大姫ちゃんに。あたしは、ぽつりと囁いた。


「ここより、ずっと遠く。それが、なんでこんなところに来ちゃったのかは、わかんない。でもね、すぐに帰りたいとは、思わなかった」

 大姫ちゃんと義高くんっていう、可愛い二人に拾われて。普段は冷たいくせに、二人を愛しむ藤次さんを、一歩遠い場所から見つめて。


 別に、元の生活が嫌いだったわけじゃないの。辛かったわけでもないの。

 でもね。でも、なんとなく。あたしのことなんてだぁれも知らない、遠くへ行きたいっていう気持ちはあった。どこかだなんて、具体的に考えてたわけじゃないけれど。どこか遠くへ行ったら――きっとが変わるんじゃないかって、そう思ってた。


 誰かが、あたしを見つけてくれて。なにか変われるんじゃないかって。なにかできるあたしに、なれるんじゃないかって、そんなこと。


 だから、きっと。大昔にタイムスリップだなんて馬鹿げたことが起きて。これが「どこか遠く」だったんだって、そんなこと考えてた。歴史上のすごい人の娘だっていう大姫ちゃんと、そのお婿さんの義高くんに拾われて。きっとこれで、あたしは「なにかできるあたし」に変わったんだって、そう思い込んでた。


 馬鹿だね、あたし。あたし、馬鹿だ。


「よしたかくんを……まもってあげたかったよぉお……ッ」

 ぼろぼろと涙が出る。ぼんやりとした大姫ちゃんのほっぺたに、ぽたりぽたりと涙の粒が落ちる。


 大人の政治の道具にされて、こんなところまで連れてこられて。それでも仲良しになった大姫ちゃんから、今度は引き離されて、殺されて。どうしてそんなむごいことが許される世界なんだろう。どうしてそんなひどいことをする人が、「偉人」だなんて呼ばれるんだろう。


 涙でびしょびしょのあたしの顔に、小さくて柔らかい手が、そっと触れる。

「なかないで、おねえさま」

 あたしの膝の上で、大姫ちゃんがほんのりと微笑んだ。その目は、あたしを通り抜けて、まるで遠い空を見ているようで。

「よしたかさまは、ぜったいかえってくるから。だって、やくそくしたもの。むかえにきてくれるって。やくそく、したもの」

「――ッ」


 きっとそうだね、って。言ってあげられたら良かったのだけれど。あたしはたまらなくなって、またぼろぼろと泣きながら、大姫ちゃんをぎゅっと抱き締めた。


 大姫ちゃん。大姫ちゃん。まだ、こんなに小さいのに。それなのに、あなた。昨晩に義高くんが亡くなったことを知って。その恋と一緒に、心を丸ごと手放してしまったんだね。大好きなお婿さんに、心すべて、あげることにしたんだね。


 ――かなしいね。あんまりにも、かなしいね。


 それなら、あたしだって。少しくらい、その心に添いたいから。

 大姫ちゃんが、そっと目を閉じる。その呼吸が寝息に変わったのを確認すると、あたしはそっと立ち上がって部屋を出た。


※※※


 あなたの、その冷たい顔の。ほんのりと、目尻を垂らして、柔らかく口元を弛めたのを見るのが、好きだったの。あなたが、あの二人に向けるあたたかさに、あたしは幸せな色を見ていたの。


 だから、あなたが義高くんを手にかけたとき、あたしの恋に似たなにかもまた、失われたの。


 ねぇ――藤次さん。それでもあたし、あなたを嫌いになりきれなくて。やっぱりどこかに、優しいあなたはいるんじゃないかって。こんな時代じゃなかったら、あなたはもっとあの優しい目を、可愛い二人に向けて。あの二人もいつまでも笑っていたんじゃないかって。そんな未来も望めたんじゃないかって、思っちゃうの。仕方ないね、あたし、馬鹿だから。


 そんなだから、その後ろ姿が藤次さんだって、すぐ分かった。あたしは勢いよく走り出して、その背中に駆け寄った。


 ドタドタと足音が聞こえたのか、藤次さんが振り返る。あの目が、真ん丸くなってあたしを、あたしだけを見つめる。その手元にある刀が、カチッと音を立てた気がした。

 だけど、止めることなんてできない――せめてものグーのパンチを。大姫ちゃんと義高くんの代わりに、その澄ました顔に叩きつけてやるため、振りかぶって。あたしは。


※※※


「ぅあっ!?」

 思いきりバランスを失いかけたあたしの身体は、反射的につかんだ近くの手すりのおかげで、なんとか倒れずに済んだ。


「あ、れ?」

 凄まじい違和感に、あたしはきょろきょろと辺りを見回す。蒸し暑い空気と、がやがやとうるさい観光地の人混み。

 正面では、階段を降りかけていた友達のカナちゃんが、「どうしたの?」と振り返って訊ねてくる。


「あ……や、その。ちょっと、転びかけちゃって」

「ええっ? 大丈夫? って、顔真っ青だし。具合悪い?」

 慌てるカナちゃんに、なんて言ったら良いか分からなくて、曖昧に笑っておく。カナちゃんはますます不審に思ったみたいで、こっちに駆け寄ってきた。


「ほんと、平気? 他のメンバーにも言って、ちょっと休ませてもらおっか。階段、落ちなくて良かったね。運が良いなぁ」

 カナちゃんの言葉に、頭の端っこがカサリと揺れる。それは、あたしの涙腺を急激に弛めて、ぼたぼたぼたと涙が溢れ出た。


「ちょっと、ユキちゃん大丈夫っ!? えぇぅっと……ねぇ、みんな待って! ユキちゃんがぁッ」

 カナちゃんが大声を上げるのを、涙も拭わないでぼんやりと聞きながら。あたしは握ったままだった右手を、ぎゅっと胸に押しつけた。


 口の中が、じわりと苦い。心臓が、ぐいっとつかみ上げられたように苦しい。この痛みは、夢なんかじゃない。決して、夢なんかじゃない。


 突然に起きたタイムスリップは、突然に終わってしまって。あたしは、行き場を失った拳を、ひたすら自分に押し当てる。

 ほたほたとアスファルトに落ちる涙の粒は、あっという間に跡すら残さず消えていく。見上げた空は、眩しくって真っ青で。あたしは目眩を覚えながら、握り拳を振り上げて、大声を上げかけた――のだけれど。


 それを遮ったのは、唐突な頭への衝撃で。

「ふぎゃっ!?」

 いきなりのことに、情けない悲鳴を上げて、周囲を見回すと。ぶち模様のむっくりと大きな猫が、のそのそ去っていく後ろ姿が見えて。

 あたしは振り上げかけていた手を下ろすと、それで涙を乱暴に拭い。深く、深く、息を吐いた。




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鎌倉でタイムスリップしたのだけれど、別に帰りたくなかった 綾坂キョウ @Ayasakakyo

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