005:その鳴き声は、誰にも聞こえにゃい


「おはようございます、部長」


「おはよう、吉岡。なんだか今日はいつもに増して元気がいいな」


「わかりますか? はは、なんと僕に彼女ができたんですよ!」


「そりゃあ良かったな。でも浮かれるのも程々にな? それで仕事に支障が出たら目も当てられないぞ」


「もちろんですよ! 勝って兜の緒を締めよ、今週も頑張っていきましょう!」


 月曜日。


 出社するや否や、暑苦しい部下に絡まれた。


 時間というものはなんとも残酷で、その日をいくら怠惰に過ごそうとも、いくらドラマティックに過ごそうとも同じだけの時間が等速で流れていく。


 かくいう俺も昨日までの週末は家に引きこもっていただけだったが、吉岡の週末にはそんなラブストーリーがあったらしい。


 独身貴族を貫かん、と半ば開き直りにも近い決心をしている俺にとっては羨ましくもなんともないが。


「若いねぇ──人を好きになるなんて」


 そんなことをボヤきながらデスクに座る。


 そもそもこの歳になっては出会いなどそうそうないし、


 パソコンを立ち上げながら今までの半生を振り返って見たけれど、それはもう何十年も昔のような気がする。


「……あれ?」


 本当にそうか?


 何かが引っかかった。


 はっきりとは思い出せない──けれども、つい最近まで俺は誰かが好きだった気がする。


 それも学生が夏休みやクリスマスを直前にした社会のちょっと浮ついた空気に流されてするような恋愛なんかじゃなくて、もっとこう、熱烈な恋心をつい最近まで抱いていたような。


「ダメだ、思い出せない」


 その記憶はすぐそこまで出かけているのだが、泥のように脆く、曇りガラスのように不鮮明だった。


 それどころか、今もなお徐々に崩れていく。


 このまま忘れてしまってはいけないと本能的にわかっているのに、思い出そうとすればするほど曖昧になってしまう。


「どうしたんですか、部長。そんな真剣そうな顔をして。らしくないですよ?」


 上司に向かって失礼なやつだ。


 業務中に真剣な顔をして悪いのか。


「ちょっと思い出せないことがあってな。最近のことだった気がするんだが……」


「そりゃあもう完全に歳っすね。部長ほどの年齢なら物忘れの一つや二つ、気にすることありませんよ」


「お前は本当にどこまでも失礼なやつだなぁ!?」


 まあしかし、吉岡の言う通りなのかもしれない。


 歳はともかくとして、人間生きていれば物忘れもするし勘違いだってあるだろう。


 それに忘れる程度のことだ──さして重要なことでもあるまい。


 それよりも今は仕事に集中だ。


 さっき吉岡に注意したくせに、これで俺がミスをしたら元も子もないからな。


「ところで部長、今日なんか人が少ない気がしませんか?」


「そんなわけないだろう──って、ん?」


 言われてから気づいた。


 確かに少ない気がする。


 いや、少ないと言うよりも──欠けている。


 誰かがいないという確信は持てないのだが、やはり一人足りない。


「でも今朝は誰からも欠勤や遅刻の連絡は来ていないぞ」


「そうですよねー。部長が普段から口すっぱく報連相を言っているせいで、ウチの部署の奴らは連絡だけは欠かしませんし」


「口すっぱくで悪かったな」


「最近は口臭も酸っぱいですけどね」


「お前なぁ!?」


 減らず口の吉岡を一喝。


 どこまでも憎らしい部下とのじゃれ合いも程々に、そろそろ仕事に戻ろうとした時、またしても俺は引っかかってしまった。


「おい、お前の席の隣って誰もいなかったか?」


 言いながら俺は吉岡のデスクの方を指差す。


 その方向には乱雑に積まれた書類の山やコーヒーの空き缶で散らかった彼のデスクと、それとは対照的に、何も置かれていないまっさらなデスクがあった。


「やっぱり部長も思いますか? いや、僕も出社した時から気がかりではあったんですが、隣の席のことを忘れるなんてバカらしくて言えずにいたんですよ」


「というと、お前も誰かいたような気がするってことか」


「……はい」


 吉岡は自信なさげに答える。


 度重なる記憶の混濁にとうとうしびれを切らした俺は席を立ち上がり、誰も使ってないであろう空きデスクへ向かった。


「なんだこれは?」


 そのデスクの椅子に目を落として気づく。


 何本かの毛。


「これは──猫の毛ですかね?」


 ……猫。


 まただ。


 普段から聴き慣れているその単語に、俺は妙に引っかかった。


「まあウチは保健所ですし、職員の誰かがこの部屋にやって来て付着しただけと考えればおかしくはないでしょう。この中に家で猫を飼っている人だってきっといるでしょうし」


 もっともな推理をする吉岡だったが、俺はこの猫の毛がただものではないような気がする。


 見た目はなんの変哲も無いただの毛なのだが、とても魅力的に感じる──そう、まるでずっと恋心を寄せて来た人の私物のような。


 けれどもわからない。


 なんでこれにここまで魅入ってしまうのか。


「どうしたんですか、そんなに見つめて」


「……いや、なんでもない」


 今日はどうも調子がおかしい。


 そういえば胸に大きな穴が空いたような気がするし、どこか虚無感もある──けれども理由はわからない。


 駄目だ、調子が狂う。

 

 気分転換ではないが、外の空気でも吸いに行こう。


 思った俺は猫の毛をなんとなくポケットにしまった。


「そうだ、今日の予定には施設の見回りがあったな。吉岡、後学のためだ。お前もついて来い」


「えぇ、嫌ですよ。だって施設に行くと殺処分されるワンちゃんや猫ちゃんとも顔を合わすことになるじゃないですか。週明けの朝っぱらからそんな気が滅入ることしたくありませんよ」


「仕事に甘えたことを言うんじゃねえよ。お前、ついこの間この仕事頑張るって言ってたばかりだろうが」


「そうですけれど……」


「それに殺処分される前に、ウチに保護された犬や猫が本当に野良なのか照合するのかも仕事の一環なんだからな。これで助けられる命だってあるんだぜ」


「わかりましたよ」


 最後まで渋っていた吉岡だったが、とうとう観念したらしい。


 かくして俺たちは狐につままれたようなモヤモヤを飲み込み、例の空きデスクを後にして施設へと向かった。


 この時、


『にゃあ』


 今となっては何のために買ったのかも思い出せない盗聴器が、とても儚げな鳴き声を拾っていたことは誰も知らない。

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俺は猫ではない、彼女が猫である だるぉ @daruO

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