ささみサラダ・三鉢目
ナゴヤ市消防局中村消防署から電話があったのは、ちょうど
「はい、
えっ?
消防署?
いやうちは火事なんてだして、えっ?
査察?
はあ、はあ、まあそういうことなら、いつお出でくださっても構わないけど。
うちは月曜日から金曜日まで、夕方からお店を開きますよ。
あっ、営業時間でなくていいわけね。
それなら今からでも、えっ?
明日ね。
いいですよ。
午後二時ね。
うん、わかりました。
なんぞ準備しておくことは、あっ、ないのね。
はいはい、じゃあ明日、お待ちしてまーす」
彦一は電話を切ると、居間の壁に掛けてある新聞店からもらったカレンダーに「消防査察、午後二時」と書き込んだ。
消防査察とは、消防法第四条の規定により防火対象物に立ち入って検査を行うことをさす。
消防署員が建物の構造や防火・防災設備と、防火管理状況を検査するものである。
査察で安全面にリスクがあると判断された場合には、改善の指導がなされる。
立入検査の当日は消防署員が二名で訪れ、共用部分やテナントの室内へ立ち入ってチェックされるのだ。
翌日。
彦一は早めに買い物を済ませ、まだ開店準備をしていないお店のドアの施錠を解いておく。
もちろん
昨夜も閉店後は焼き場を始め、カウンターなども椅子をすべて上げて掃除してある。
これも
「油や炭がこびりついた焼き場によ、ドロドロの換気扇のままのほうがいかにも美味そうだ、なぁんて勘違いもはなはだしいお店やお客さんもいるけどよ。
わしらは、ひとさまの口に入るもんを扱ってんだ。
不衛生極まりないお店にはよ、お客さんは遠のくってえもんだ」
これが口癖である。
ちなみに文太は絶対に「客」とは言わない。「お客さん」と言う。
お店の壁に掛けてある時計が、午後二時を差した。
計ったように入口ドアがノックされる。
「あいよっ。
開いてるからどうぞ」
彦一は椅子から立ち上がる。
内側に仕舞ってある暖簾を上げて、ふたりの消防職員が入ってきた。
ふたりは消防吏員活動服と呼ばれる、紺色のユニフォームにキャップをかむっている。
胸元のオレンジ色の生地がしゃれている。
ひとりは彦一よりひとまわり上の年齢で、もうひとりは二十歳代半ばくらいに見えた。
年長の職員が彦一をまっすぐ見る。
「本日はお忙しいなか、ご協力くださりありがとうございます。
私はナゴヤ市消防局中村消防署の消防司令捕で、
同伴しているのは、同じく消防副士長の」
言いかけたときだ。
「彦一さん、ご無沙汰しております!
ぼくです、
若手の職員は嬉しそうに敬礼した。
「アズミキョージ、はて?」
彦一は、じっとその職員に目をやる。
身長は彦一くらい上背があるが、普段かなり鍛えているのであろう。
活動服の上からもわかるくらい筋肉がついている。
やや童顔ではあるが、爽やかな目元に印象があった。
「ちょっと待って。
アズミキョージ、安曇、恭司って、あの恭ちゃんかい!」
やっと思い出した。
もう二十年以上前のことだ。
彦一が小学生の頃、裏手の住宅街にあるマンションに住んでいた恭司。
彦一より五つ下であったが、「彦ちゃん」と呼ばれ、よく一緒に遊んでいたのだ。
「恭ちゃんはたしか、俺が中学に上がるころ」
「ええ、親が
「そうか、はっきり思い出したよ、おい。
懐かしいなあ、恭ちゃん。
いやいや、立派になっちゃって」
ふたりのやりとりを聞いていた中本は、笑みを浮かべていた。
「なんだ、安曇のお知り合いだったのか」
「はい、小隊長。
この彦一さんには、本当に仲良くしてもらっていたんです」
恭司は真っ白な歯をのぞかせる。
「ぼくはてっきり、彦一さんは宇宙物理学者の博士になっているかと思っていました。
だって、この辺りでは神童なんて言われてましてものね。
小学生のころですけど、頭脳明晰で常にトップクラスの成績だったのを覚えています」
「いやあ、色々あってなあ。
まあ立ち話もなんだ。
ちょっと座っててよ、お茶くらい
台所へ向かおうとする彦一を、中本があわてて呼び止める。
「ああっ、わたしたちは本日査察でお邪魔していますので」
彦一は立ち止まった。
「忘れてた。
そうでしたね」
それからふたりの消防職員は火の元や消火器の場所、また自宅とお店の境を丹念に検査していく。
時おり彦一に質問を投げかけ、手にしていた書類挟みに記入していく。
国税や税務署の査察とは異なり、万が一には人命に関わることだけに、かなり鋭い質問もあった。
約一時間かけ、ようやく査察は終了した。
中本は記入された書類に目をやりながら、彦一に言う。
「すべての項目は、見事にクリアされています。
こういうお店ばかりであれば良いのですが。
居酒屋さんによっては、大事な避難経路にビール瓶の入ったケースを積んだままにされたりして、消防法を無視されているところもあります」
「なるほどねえ。
ここも炭を使うんで、特に火の始末だけは、先代からうるさく言われちゃってるんですよ」
「うるさいくらいが、ちょうどいいのです。
泥棒はすべてを盗みませんが、失火が原因で火災が発生すれば、家財道具すべて、さらには大切な命まで奪っていきます。
これからも細心の注意をはらってください」
中本は恭司をうながす。
「それでは、本日はありがとうございます」
「あっ、お茶のいっぱいくらい」
「いえ、まだ職務中ですので。
これで失礼いたします」
恭司は帰り際に振り返った。
「今度非番のときに、彦一さんの焼き鳥を食いにきてもいいですか」
「ああ、もちろんだ。
美味しいビールも用意しておくからさ、いつでも顔を出してよ」
彦一は片手をふった。
~~♡♡~~
翌日、彦一は午後一時過ぎに商店街へ繰り出した。
平日であるが、人通りが多い。
アーケードから差し込む太陽の熱は、日増しに強くなってきていた。
これからは、生ものには要注意の季節である。
今日のつきだしは高野豆腐の揚げだしにしようと、乾物店へ顔を出す。
ついでに、かんぴょうも購入する。
明日の妹たちのお弁当は、海苔巻をメインにしようと考えていた。
ひばりは桜でんぶが大好きだから、多めに巻いてやろうかと笑みを浮かべる。
「そうだ、そろそろ買っておくか」
向かった先は
自動ドアをくぐるとエアコンがすでに作動しており、彦一の額にうっすらと浮かんだ汗がひいていく。
壁の棚に商品を補充していたみどりがドアの開閉音に、「いらっしゃいませぇ」とやや
「みどりん、暑いね」
彦一の声に振り返った。
「なーんだ、彦ちゃんか」
声のトーンが一気に低くなった。
白衣の下はグリーンのインナー、グレー系のパンツ姿である。
「悪かったね、俺で」
「ジョーダンよ、冗談。
わざわざわたしに会いに来てくれたんだ」
みどりは嬉しそうに、はにかんで見せる。
こういう乙女チックな仕草もとても可愛く、彦一は顔を赤らめてしまった。
「あっ、いや、うん」
「なによ、そのあいまいな返事は。
アイスコーヒでも飲んでいく?」
「ありがとう。
ついでにさ、電子蚊取りマットをもらおうかと思ってね」
「そういえば、もうそんな季節ね。
じゃあ、はい缶で悪いけど」
お店のクーラーボックスから、ブラックコーヒーの缶を差し出してくれる。
お金を払おうとする彦一に、「コーヒーくらい、いいわよ」とみどりは笑った。
彦一はカウンター前の椅子に腰を降ろし、プルタブを開けた。
「はい、これね。
蚊取り用マット。
こっちはちゃんとお代金はいただきます」
「ありがとう。
ところでさ、みどりん」
みどりは代金を受け取り、レジに打つ。
「なに?」
「覚えてるかなあ、昔よく遊んであげた、恭ちゃんって」
「キョウちゃん?
はて。
あっ、思い出した。
たしか、安曇恭司くんでしょ。
わたしたちより五年下の」
「そうそう、よく覚えてるなあ」
「だって、わたしが彦ちゃんとじゃれ合ってると駆けてきて、『みどりちゃん、彦ちゃんをいじめないであげて』、って可愛い声で訴えてきてたもん」
「ああ、俺が殴る蹴るの暴行を受けていたときなあ」
言いかけ、みどりがその切れ長の目尻をクワッと上げ、
「じゃあなくて、遊んでいたのを勘違いしちゃってたんだなあ、彼」
「もう、失礼な。
それで、その恭ちゃんがどうしたの?
たしか引越ししたんだよね」
「うん。
昨日ね消防署の査察があったんだけど、恭ちゃんがそのひとりでさ、立派な消防職員になっていて驚いちゃったよ」
「へえっ、小ちゃかったあの子がねえ」
「筋肉バリバリの、マッチョないい男になっていたよ」
彦一は遠くを見るように目を宙に向けた。
つづく
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