第28話『影』

 さっきから、何かがついてくる。

 振り向いても、誰もいない。

 でも、皮膚に突き刺さるようなこのイヤな感じは、何……?



 塾の帰り。

 街灯の間隔がかなり開き気味のこの辺りの道は、実際の身長の何倍にも影が伸びる。それを見ているだけでも、何だか薄気味悪い。

 女子高生の希美が恐れるのは痴漢の類だが、今感じる静かな恐怖は、そういうものとはまったく次元が違う。

 人の気配とか、そういうものじゃない——。



 ものの数秒のうちに、月がかげった。

 それに合わせて急速に、辺りを闇のベールが何重にも包む。

「……い、いやよ」

 希美は、思わず通学カバンを地面に落とした。

 あり得ないものを、目にしてしまったからである。



 影が——

 本来、彼女と同じ動きをするはずの影が、動かない。

 試しに右手を上げてみるが、影の腕が上がらない。

「うそよ」

 希美は、震えながら後ずさりした。

 影が、止まったままついてこない。

 ついに、希美の足元から影が離れてしまった。

 それどころか、地面にへばりついているはずの影が、起き上がって——

 その姿は真っ黒で、周囲の闇に溶け込んでわずかばかり人間の姿のような輪郭が見えるのみであった。

 いや、よく見ると一箇所だけ光っている部分があった。

 影が、閉じていた目を開けたのだ。



「いやあああああああああああ」

 叫ぶ声とは裏腹に、希美は足がすくんでその場から動けなくなった。

 真っ黒な闇よりの使者は、両手に湾曲した刃物のようなものを持っていた。

 身近なものでそれに近い形のものに例えると……鎌、だ。

 街路樹の間から、僅かに漏れる月光に照らされた刃先が、光る。

 何のためらいもなく、その影は希美に躍りかかった。



「……またですの?」

 急に立ち止まった美奈子に、麗子はうんざりした顔を向けた。

「麗子先生。ちょっと黙ってて」

 麗子は、美奈子の通う高校の古典の教師だったが、二人を見ているとどっちが先生なんだか分からない時がよくある。

「ちょっと今すぐ行かないとヤバイみたい。私、先に行ってるね——」

 美奈子の目が、ルビーのごとく夜の闇に赤く光った。



「アキレスの足!」



 言うが早いか、美奈子はまるでビデオの倍速再生のように一瞬ではるか向こうに走り去り、見えなくなってしまった。

「やれやれ」

 ため息をひとつついた麗子の目までもが、エメラルドグリーンの光に包まれた。

 そして、風を捕まえて空に浮き上がると、ロケットのように飛行を始めた。




 下着が、生暖かい。

 どうも、失禁してしまったようだ。

 でも、今の希美には、そんなことを恥ずかしいとか感じる余裕はなかった。

 なぜなら、生命の危険が正に自分を襲っているからだ。

 彼女は、観念して目を閉じた。

 自分のしてきたことが、ろくでもないことばかりだったと後悔した。

 こんなところで人生を終えると分かっていたら、もっと頑張ったのに。



 …………!?



 希美は、自分の体がフワリと浮き上がったような感覚に囚われた。

 数秒して目を開けた彼女は、それが決して気のせいではないことを悟った。

 自分を担ぎ上げているのは、自分と同じ学校の女生徒だと分かった。

 着ているブレザーの制服が、同じだ。

 人を抱えた状態で信じられない高さまで飛び上がった謎の助っ人は、そのまま滑空して、ゆっくりと電柱のそばに着地した。



 放心状態になった希美をそっと地面に寝かせた美奈子は、影と対峙した。

 両手に光る鎌のような武器を持った影は、ためらいもなく恐ろしい速さで美奈子に突っ込んできた。



「アイアン・フィスト!」



 鋼鉄の塊と化した美奈子の腕は、影の繰り出す鎌の刃先を受け止める。

 さらに回転をきかせた鋭いパンチを、影の腹部に見舞おうとしたが——

「しまったっ」

 頭から地面に転がって難を逃れたが、体勢を整えた美奈子が自分の腕を見てみると、服の袖の裂け目から、刃物にやられたと思われる傷が見えた。


 

 ……鋼鉄の硬度に変えた皮膚が斬られるなんて!



「美奈子ちゃん、一度引きなさい! あれに物理攻撃は効きませんわ」

 空から、麗子の声がする。

「あれはシャドーマン。人間の強烈な思念が生み出した悪意の塊」

 地上50メートルの高さに浮いたまま、聡明な麗子は瞬時にこれからの作戦を頭の中で組み立てる。

「ここは戦線離脱して、あの子を連れて安全なところへ逃げなさい。シャドーマンがいるということは、生み出した術者がいるはず。それが誰か突き止めてちょうだい! ここは私がなんとかしますから」

「……了解」

 腕を負傷した美奈子は、何とか希美を片腕で抱え、住宅街の屋根を次々とジャンプして飛び越えていった。ここは、麗子の判断の方が賢明だ。



「あまり使いたくはありませんが……この際仕方ないですわね」

 麗子は、闇属性の存在を一定の範囲内に縛り付ける結界を張りめぐらせ、シャドーマンが希美と美奈子を追えないようにした。そして、闇をもって闇を制するために、ネクロマンシー(死霊術)に手を出した。



「黄泉の使者・闇の申し子よ。

 底知れぬ力もて敵を足の下に踏み砕きたまえ」


 

 美奈子も死霊術を使えるが、異世界の住人を召喚できるのは麗子だけである。 

 油断すると、黄泉に魂を引きずられてしまう。

 術者が鉄のように動じない意志を持っておかないと、死と隣り合わせの術——

 一瞬、魔に体を乗っ取られてしまうが、麗子には勝算があった。

 自分には、風と大地の精霊がついている。



「魔界より我は求め訴えたり! 出でよ、魔神スサノオ——」



 月光の下。

 この世のものではない、二つの怪物が対峙した。

 スサノオ、と呼ばれたその魔神は、全身が甲冑(鎧)のようなもので覆われた、赤い皮膚の獣人であった。

 人間が倒すことのできない異界の存在を倒すために、麗子が召還したのだ。

 麗子の意識の支配下にあるスサノオは、ゆっくりと腰の刀を鞘から抜き放ち、上段に構えた。淡い月光を受けて、刀身が光を反射する。

「……行け」



 スサノオが走る。

 シャドーマンが宙に飛ぶ。

「上!」

 空中の敵に対処するべく、刀身を突き上げるように上段に薙ぎ払ったスサノオだったが、紙一重の差でシャドーマンの動きのほうが速かった。

 宙返りをしてスサノオの背後に立ち、間髪いれずに鎌の刃先を背中に突き立てる。

 しかし、顔と手の先以外は隙間なく鎧で覆われているため、ダメージはない。



 ……暗夜幻影縛呪布陣!



 麗子の声に同調し、スサノオはゆっくりと剣を回し、宙に円弧を描いた。

 刃先のたどった跡が青白い炎となって残り、その形はそっくりそのままスサノオの背後にくっきりとその姿を映す月、とぴったり重なっていた。

 その炎の円陣を前にしたシャドーマンは、動けなくなった。

「今よっ。柳生新陰流・闇奥義——」

 体を前に倒したスサノオは、風のごとく駆けてシャドーマンの背後を取った。

 すかさず半身をひねり、遠心力で刀身を真横に回転させる。



「月下崩牙旋破剣!」



 スサノオの伝説の魔剣・村雨丸は、シャドーマンの影の体を袈裟懸けに切り裂いた。そしてその体は霧のように四散したかと思うと、跡形もなくなった。

 周囲に、風すらそよとも吹かぬ気味の悪い静寂が訪れた。



「ご苦労であった」

 麗子の言葉にひざまずいて礼をしたスサノオの姿が、次第に霧のようなもやに包まれてかき消えていく。

 黄泉に帰っていくのだ。

「ふぅ」

 魔に侵入されながらも、何とか正気を保った麗子は、すべてが終わってやっと気を抜くことができ、深いため息をついた。

「あとは、美奈子ちゃんがうまくやってくれてるといいけど——」

 生み出した術者をどうにかしないと、いくらシャドーマンを倒したところで、時間が経てばまた生み出されてしまうからだ。



 希美の話を聞いて、術者を割り出した美奈子は——

 その家に浸入し、バスタブで手首を切って自殺をしようと試みていた希美のクラスメイトを何とか保護した。

 彼女は刃物で手首に浅い傷をつけただけで、死に切れずに泣いていた。

 名を坂口亜矢子といい、半年に渡り希美を含むクラスメイト数人から、陰湿ないじめを受けていたのだった。

 彼女は最近、来る日も来る日も心の中で希美たちに暴力的な復讐をしていたようだ。その内にこもった思念の強さがつのり過ぎ、もともと亜矢子の霊感が強かったことも災いして、近くの成仏できない浮遊霊を引き寄せてしまったのだ。

 亜矢子はシャドーマンを生み出した術者、というのは正確ではなく、まったく意図はしていなくて、ただその心の暗闇を、波長が合ってしまった悪霊に利用され、シャドーマンを作らされてしまったのだ。しかし皮肉なことに、そのシャドーマンはきっちり術者の憎む人間を忠実に狙った。



 すでに夜遅い時間ではあったが、緊急ということで美奈子は担任の先生と希美以外のいじめっ子もみな呼びつけた。

 そして事件のこと・亜矢子が自殺を考えるほどにまで追い詰められていたことを伝え、なぜこうなったのかをじっくりと考えさせた。

 死ぬほどの恐ろしい目に遭った希美は、すでに心から後悔していたので、彼女が亜矢子に謝った上で他のメンバーを説得すると、話は早かった。

 もう二度といじめなどというバカなことはしない、との約束がなされ、亜矢子と希美は、美奈子の目の前で固い握手を交わした。

 これでシャドーマンが希美たちを襲うことは、もうないであろう。



 麗子は、スサノオが消える前に言い残していった言葉をかみしめた。



 ……ある意味人間の心というのは、我らより恐ろしいものであるな。 



 人を恨むのではなく、愛しいつくしむ方向に心を砕くなら——

 それはどんなにか大きな力を発揮することであろう。

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