第27話『風使い』

 ……いつもいそがしそうね。そんなにいそいで、どこいくの?



 ……私が、見えるというのか?



 風は、随分久しぶりに人と話した。

 前に話ができたのは、何百年前のことだったろう。

 豪邸の前に広がる、あり得ない面積の広大な庭。

 そこに、たった一人で遊ぶ、淋しげな女の子。

 風は、自分が見えるというその女の子に興味を抱いた。



 ……名は、何と言う?



 ……さえき、れいこ



 なるほど、佐伯家の一族か。

 風は、聞いたことがあった。

 その昔から、たまに自然界の精霊を見ることのできる人間が生まれる血統・佐伯の一族がいると。50から100年に一人の割合で、そういう子どもが誕生していた。



 ……お前は、淋しいのか



 ……うん。わたしはいつもひとり



 ……そうか。それでは私がお前の友となろう。それで、少しは淋しくなくなるか?



 ……オトモダチになってくれるの? ありがとう!



 その日から、風は麗子とよく話をするようになった。



 佐伯麗子は、本当なら小学校に通う2年生のはずだった。

 しかし。彼女には、数奇な運命が待ち受けていた。

 資産総額のことだけを言うと、日本一の金持ちの家の娘として生まれた麗子は、それにふさわしい高等教育を施されるべく、普通の子どものようには過ごさせてもらえなかった。

 勉強も、スポーツも、音楽も——

 すべての分野に渡って、その道で名高い者が麗子の家庭教師としてつけられ、一般の教育機関には縁がなかった。



 淋しかった麗子は、父親に頼んだことがある。

 どうしても、学校というところに行って、お友達をつくりたい、と。しぶしぶ父親は、天皇家や上流階級の家が子どもを通わせることで有名な学校へ、試験的に通わせてみた。

 個性的過ぎた麗子は、そこで大問題を起こして、学校側からやめてくれと懇願された。

 下品な言葉や踊りを大流行させ、父兄からクレームがきたのだ。

 そしてまた、麗子は大人の言うことをなかなか聞かない子でもあった。



 結局、麗子は来る日も来る日も広大なお屋敷で過ごした。

 同年代の友達が欲しかろうと、やはり上流階級の同じ年頃の子が連れられてきて紹介されることがあったが……麗子が喜んで庭からイモムシやゲジゲジやナメクジなどを持ってきて見せると、みな一目散に帰って行った。



 ……お嬢様、かわいそう。



 最近、佐伯家のメイド頭となった安田梅乃きは、胸を痛めた。

 彼女は、英国で『サー』の称号を持つ紳士に3年間仕えたことのある、生え抜きのメイドであった。麗子の養育係に、と佐伯家が引き抜きをして連れてきたのだ。

 ある日、安田はお屋敷のフェンスの一部に穴を開け、こっそり麗子を外の公園で遊ばせてやった。もちろん、黒服にサングラス、といういかにもな恰好をしたSPを三人も付けた。

 麗子は、そこで一人の少女と仲良しになった。

 名を川田真弓といい、歳は麗子よりひとつ下の小学一年生だった。

 その日から、麗子は毎日のようにお屋敷を抜け出しては、真弓と遊ぶようになった。



「まゆみちゃん、これからもずっと、オトモダチでいようね」

「うん。わたしも、れいこちゃんだいすき。ずっとずっとなかよしだよ」

「まゆみちゃんは、ほかの子とはあそばないの?」

 真弓は、ちょっと淋しそうな顔をした。

「わたしんちね、びんぼうなの。だからみんなね、おまえはばっちい、バイキンだらけ、なんてバカにして、だれもあそんでくれないの」

 麗子には、貧乏とは何か、いまひとつよく分かっていなかった。

「そう……でも、わたしはまゆみちゃんすきだよ。きたなくなんか、ないもん」

 真弓の顔は、太陽のように明るくなった。

「うれしい——」

 真弓は、麗子に抱きついた。

 この瞬間、麗子はこの上なく幸せだった。

 大きいお屋敷や、快適な生活環境や、贅沢な食事よりも何よりも、今の麗子にとっては真弓がこの世で最高の宝だった。

 砂場で戯れる二人を見て、風は思った。



 ……よかったな。



 風は、麗子が人間の友を得たことを知り、あえて麗子に語りかけなくなった。



「真弓、御飯よ! お家に帰りましょう」

 どうやら、母親が迎えに来たらしい。

「はぁ~い! それじゃれいこちゃん、またあしたね~」

「……バイバイ」

 母に手を引かれ、夕日を背に受けて返っていく真弓。

 公園の外から見守っていたSPとメイド頭の安田が、麗子のそばにやって来た。

「お、お嬢様?」

 安田はしゃがんで麗子の頭を優しくなでてから、手を引いて屋敷へと歩いた。

 麗子は、泣いていた。

 なぜなら、彼女に母はいなかったからである。



 ついに、事件は起こってしまった。

 それは、麗子と真弓が近所の堤防を歩いていた時に起こった。

 堤防から下の川までは、ちょっと急な坂になっていたのだが——

 手が届くか届かないかギリギリのところに、きれいなタンポポが咲いていた。

「あれ、れいこちゃんにとってあげるね!」

 真弓はそう言うと、膝をついて四つんばいになり、花に手を伸ばす。

「いいよ、やめてまゆみちゃん。あぶないから——」

 麗子がそう言い切る前に、余りにも前のめりになりすぎた真弓は、頭からゴロゴロとその坂を転げ落ちて行ってしまった。



 麗子は、青ざめた。

 子供心にも、大変なことになってしまったと分かった。

「まゆみちゃああああん!」

 坂を下りきってしまえば川の流れの中までは、むきだしのコンクリートにして1メートルほどしかない。しかも、今は晴れているが昨晩まで降り続いた大雨のせいで、激しい濁流になっていた。

 勢いのつきすぎていた真弓の体は、止まることなくそのまま川の中にザブンと落ちた。

「いやああああああああっ!」



 ……やっとできたわたしの、だいじなオトモダチが!



 激しい川の流れは、あっという間に真弓をさらって、押し流す。

 遠くから、異変に気付いた麗子のSPたちががあわてて駆けつけるが、流れが早すぎてどうにもならない。

 その時。麗子は、思い出した。

 もう一人のトモダチのことを——



 ……風さん風さん、近くにいる?



 ……ああ。私はいつでも、お前のそばに吹いているよ



 ……おねがいがあるの。わたしにチカラをかして。

 まゆみちゃんをたすけることのできる力をちょうだい。いますぐ!



 風は、悩んだ。

 人間に力を貸すには、『契約』を結ぶ必要があった。

 それには複雑な決まりごとがあり、その条件を呑んだ上で、精霊と人間が合意の上で契約となるのだが——

 理解力もまだ幼く、言動にまだ責任も持てないような子どもと契約を結ぶなどということは、長い歴史の中で一度もなかった。しかし、風はこの時思い切った決断を下した。



 ……分かった。私は、お前の友となる、と約束した。

 だから、今こそお前が生きている限りずっと力を貸し続けると、お前に誓おう。

 私は、お前と一つになろう——



 風の精は、麗子の体内に宿った。

 一度宿ったら、宿主が死ぬまでは出られないことを覚悟の上で。

 麗子の顔つきが変わった。

 瞳が妖しい緑色を帯びて、強く光った。

 口から、まるで大人がしゃべるような言葉が飛び出す。



 ……風の声、大地の唄。空の眷族、万物の理を司る精霊よ。

 我が声に耳を傾けよ——



 麗子の体は一陣のつむじ風に巻き上げられ、ゆっくりと宙に浮上した。

 そして風を切って空を飛行し、下流のほうへと真弓の姿を追った。 



 ……いた。



 まだ、辛うじて真弓はもがいている。溺れきってはいないようだ。

 真弓の上空で停止した麗子は、髪を風になびかせながら叫んだ。

 瞳のエメラルド色は、強烈な光を放つ。



「アクア・トルネード!」



 生き物のように川の水流がうねりを上げ、水柱を立てて宙に躍りあがる。

 その水の竜巻は真弓の体を押し上げ、河岸へと打ち上げた。

「まゆみちゃあああああん!」

 麗子はゆっくり着地すると、ずぶ濡れの真弓に駆け寄って抱き上げた。

 そこへ、SPたちが駆けつけて、真弓の腹を押さえて水を吐かせた。

 息を吹き返した真弓をかき抱き、麗子はただただ泣くのだった。



「二度と、ウチの子に関わらないでくださいっ」

 真弓の母親は、そう捨てゼリフを残して佐伯家を去った。

 その日から、麗子は二度と真弓に会えなくなった。

 安田の手引きで外へ出ていたことを知った父親は、娘に同情はしながらも、真弓の母親に謝罪した上で、要求どおり二度と娘を外に出さないと約束した。

 麗子は、宝物をまた失った。




 エッ、エッ



 広い、一人には広すぎる庭で泣く女の子が一人。

 うずくまり、肩を震わせて嗚咽する彼女の背中に、風が吹く——



 ……麗子よ



 ……風さん。やっぱり、わたしのオトモダチはあなただけみたい



 ……いい子だ。心配するな。私は、一生お前と一緒だ



 慰められた麗子は涙を拭って、にっこりと笑った。



 麗子は安田に頼んで、極秘に川田家の事情を調査し、佐伯家の力を使って少しでも真弓の父親の会社での待遇が良くなるように仕向けた。もちろん、麗子のことや佐伯家のことは極秘にして、である。

「わたしは、びんぼう」

 真弓がそう言っていたことが、どうしても心に引っかかっていたのだ。

 秘密にしている以上、麗子や佐伯家が真弓をはじめ川田家の者に感謝されることは、一生ないだろう。



 ……それでもいいんだ。



 麗子は、そう思うのだった。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



「ライトニング・ブラスター!」



 麗子の指から、派手な電気スパークが飛び散った。

 お屋敷の、階段の踊り場。

 そこの壁にかかった巨大な絵画の隅に黒焦げの穴が空き、ブスブスといやな音と煙を立てる。

「お嬢様あああああ 何てことおおおおおぅ!」

 真っ青になった安田が、メイド服のすそを上げて全力疾走してくる。

 ちょっとは済まなさそうな顔をしていた麗子だったが、目は笑っていた。

「……だってぇ、そこにハエがとまっていたんですもん!」

 安田は絵画の前にガックリと膝をついて、頭をかきむしった。

「あああ、時価数億円のシャガールの絵が、絵があああ!」



 麗子は淋しさの中にも、安田と風の精を友として育っていったのだった——。

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