豊かな人生の条件

賢者テラ

短編

「ちっ、くそ面白くもねぇ」



 それが村山邦夫の口癖だった。

 心の中でつぶやくことも多いから、『心癖』とも言えるだろうか。

 今年45歳になる邦夫は、市役所勤めの公務員であった。

 彼は今、人生に何の楽しみも見出せないでいた。もともと気難しい性格であったこともあり、誰がいつ彼を見ても苦虫を噛み潰したような、不機嫌な顔をしていた。

 当然、仕事以外で付き合う友人などもおらず、誰もが彼を避けた。

 彼と接すると、ほぼ間違いなく不愉快な気分にさせられることが分かっていたからである。

 連れ添って18年になる妻との仲も、冷え切っていた。

 恋愛結婚(今の彼からは誰も想像がつかない!)をして結ばれた邦夫は、結婚当初は今のようではなかったのだが……

 仕事上のストレスや加齢とともに、偏屈になっていった。

 妻もあきらめの境地であり、経済的理由や世間体から離婚までは至らない『仮面夫婦』と化していた。

 彼はまさに、町の嫌われ者であった。



 邦夫の住むS町は、人口が五千人足らずの小さな町だ。

 町なので、役所も『市役所』ではなく『町役場』と呼ばれていた。

 5:30PM。定時で業務を終えた邦夫は、そそくさと職場を後にした。

 まだ消していなかった、役場内の待合スペースにあるテレビが、天気予報を流している。

 明るい色調のスーツの似合う美人女性予報士の声が、邦夫の耳に流れ込んできた。



「……今日の夜から明日の朝にかけて、東シナ海に張り出した寒冷前線の影響で、この冬最大の寒波に見舞われるでしょう。お出かけの際は十分に着込むなどして、防寒対策をこころがけてくだいね」



「ちっ。今日はそんなに寒いのかい。まったく、ろくでもねぇ」

 ろくでもないのは自分自身だということは考えずに、イライラをつのらせた邦夫は市役所のドアを乱暴に開けた。そのドアは市の予算の都合で、まだ自動ドアになっていなかった。



「さぶっ」

 天気予報を聞いて多少は覚悟してはいたが、まさかこれほどとは思わなかった。

 北風が容赦なく、邦夫の体に吹き付けてくる。

 風が強いわけではないが、極端に冷たいためにまるで身を斬られるかのように感じる。

 邦夫の自宅は、役場から歩いて15分のところにあった。邦夫は身を縮こまらせて前進した。 風が、邦夫の進行方向とはちょうど逆になっていて、もろに顔に当たってくる。

 邦夫は、顔面が痛くなってくるのを感じ、痛みに顔を引きつらせた。



 ……ちっくしょう。こうなったら、今夜はとことん不機嫌になってやるぞ!



 よく分からないヘンな決意を心にみなぎらせながら、邦夫はやっとの思いで自宅までたどりついたのだった。



 ただいま、とも帰ったぞ、とも言わずに彼は真っ直ぐ自室にこもり、部屋着に着替えた。

 外の空気から逃げることができて、邦夫はようやく人心地がついた。

 風をもろに受けた影響なのか、顔がまだチクチクと痛い。邦夫は洗面所へ行き、お湯で顔を洗うことにした。

 しかし。



「一体、なんじゃこりゃあああああ」



 邦夫は、鏡に映った自分の顔を見て、絶叫した。

 寒い中、顔を引きつらせて帰ってきたのがー。その状態のまま硬直してしまい、表情が変わらない。

 顔の筋肉が、まったく言うことを聞かない。

 しかもよりによって…それは誰がどう見ても ニコニコにっこりの『笑顔』であった。

 邦夫が顔面にどのように力を入れようが、貼り付いたかのように笑顔の仮面は外れなかった。10分ほど鏡と格闘した邦夫だったが、まったくどうにもならないので、仕方なくその顔のままリビングに行った。



「ああ、あなた。ご飯ならとっくに支度ができてま……?」

 振り返って、口の両端をつり上げてニカッと笑った邦夫を見てしまった妻の絹代は、反射的に後ずさりをした。背中が冷蔵庫に当たり、それ以上下がれなくなった絹代は、ロボットのようなカクカクした動きでご飯と味噌汁をお椀に注いだ。

 邦夫は面倒くさかったので、いちいち理由を説明しなかった。

 絹代は、食事の間中ずっと邦夫の表情に目が釘付けであった。

 だって、夫のそんな表情を見るのは、およそ10年ぶりくらいだったから。



 食事の後、邦夫はリビングに残ってテレビを見た。

 珍しく妻の絹代も、そばで同じ番組を見た。これは、驚くべきことである。

 絹代は、途中で二、三言くらい邦夫に話しかけてきた。

 いつもの彼なら『うるさい』だの『黙ってろ』だの言うのが常であるがー

 この時の彼は口が引きつって長い言葉を言いにくかったので、「ああ」 とか 「そうだな」 とか肯定的な言葉ばかりを返した。まぁ、決して心からの言葉ではなかったが……

 ニッコリした幸せそうな表情で『バカヤロウ』とか『うるさいんじゃボケ』などと言ってみる状態を想像していただきたい。

 これほど、チグハグで不自然なコンビネーションはないであろう。

 不機嫌屋の邦夫があえて暴言を抑えたのは、そういう理由からである。



 驚くべきことが起こった。

 風呂が準備されており、「お先にどうぞ」と言われた。

 いつもは、邦夫が言わないと準備してくれない。

 「先に」なんて前に譲られたのは一体いつの昔か、思い出すのも大変だった。

 そして、就寝の時。恐るべき出来事が!

 絹代が、『夜の営み』を求めてきたのだ。

 寝室で、突然邦夫の布団に侵入してきた彼女は、物欲しそうな表情で邦夫に顔を寄せてきた。

 邦夫はあわてて布団から飛び上がって、四つんばいで這って部屋の隅まで逃げた。

「ひいいいいいいっ」

 邦夫は部屋の隅まで追いつめられた。もう逃げ場はない。

 邦夫はパニック状態であった。なのに……顔は三波春夫ばりのさわやかな笑顔であった。

 決して嫌ではなかったのだが、余りにも長い歳月を冷え切った状態で過ごしてきていたため、気持ちの切り替えが急には難しかったのだ。

 とにかく今日は色々あって疲れてるから、今度にしてくれと邦夫は頭を下げた。

 欲求不満そうな表情を浮かべた絹代だったが、邦夫が頭を下げて何かを頼む、というのもまた驚くべき奇跡であったので、それだけでもよしとしてとりあえずは邦夫を解放してくれた。

 布団をかぶり直しながら、邦夫は苦悩した。この顔はいつになったら元に戻るのだろうか?



 市役所の職員の面々は、見てはならぬものを見てしまったように、唖然とした。



 あ、あのにこやかな笑顔を満面にたたえて颯爽と通勤してきたのは……

 見間違いじゃなければ村山君、だよな??



 邦夫の動きに合わせて、職員達の眼球もそれにつられて動いた。

 それからは間違った書類に判を突いたり、とんでもない数字をパソコンに打ち込んだり、という小さな事故が多発した。

 不思議なことに、邦夫のいわゆる 『顔面マヒ』 は、未だに治っていないのだ。



 邦夫は 『住民課』の窓口に座った。

 しばらくして、顔なじみの一人の老婦人が窓口へ近付いてきた。

「いらっしゃいませ」

 加山雄三のようなすがすがしい笑顔で迎える邦夫。年のわりには健康的な白い歯が、口元からこぼれる。

 だるまさんがころんだ、でもしているかのように、老婦人はピタッと固まった。

「ひいいいいっ」

 浅田真央も真っ青になりそうな見事なターンを決めて、老婦人は出口に向かってパタパタと逃げてゆく。

 しかし。やっぱり用事は果たさなければと思いなおしたのか、ピシャピシャと自分の頬を叩いて気合を入れなおした老婦人は、兵隊のように行進して来た。



 ぜんた~ぁい、止まれ! イチ、ニッ!



 最後、見事両足をそろえた彼女は、震える手で申請書を渡してきた。

「じゅっ、住民票を……くださいな」

「はい。少々お待ちください」

 邦夫は、住民台帳データベースのPCに向かっていた女性事務員に申請書を渡し、にこやか晴れやかな笑顔で「よろしく頼む」と言った。

「……はい」

 明らかに動揺している女性事務員は緊張のあまりクリックする場所を間違え、隠れて眺めていた嵐のニノの顔アップ画像を間違えて呼び出してしまった。

 彼女は青ざめて、万引きが店員にバレた中学生のような顔をしていた。

 しかしその心配をよそに、邦夫はいつものように手厳しい追及や説教をせずに、黙って住民票の写しを受け取っただけであった。



 昼休みになった。

 邦夫は、このS町にただひとつのファミレス 『Tommy's』(トミーズ)にランチに出かけた。まるで、どっかの漫才師の名前みたいな店だった。

 入り口のドアノブを握って手前に開くと、チリンチリン来客を知らせるベルの音。

「いらっしゃいませ~ トミーズへようこそ~!」

 元気いっぱいに挨拶をしてきた女子大生のアルバイトは、邦夫に気付くと抱えていたメニューを床に落とした。



 ガシャン!



 邦夫が音のほうを向くと、そこではメガネをかけた店長が皿を落としていた。

「なっ、なっ、何名様ですかぁ?」



 実は、この若いウェイトレスと邦夫とは、長い付き合いになる。

 邦夫は「気難しい客」として店からマークされている人物であった。

 このウェイトレスは向井吉乃という名だったが、彼女には、邦夫からよくクレームを付けられては泣かされてきた過去があった。

 あまりの驚きに、吉乃は一名様と分かりきっている邦夫に、ついつい頭が真っ白になって何名様かと尋ねてしまった。

 いつもの邦夫なら、「見たら分かるやろボケがぁ! お前、一体勤めてどれだけ経つねん!」と毒づくところである。

 しかしこの時も「一人や。よろしく頼む」と言っただけであった。

 「よろしく」などと言われてしまった吉乃は、夢見心地のフワフワとした歩調で、邦夫を席までエスコートした。



 ハンバーグランチを注文した後で、邦夫はおしぼりが来ていないことに気付いた。

 サービスにはうるさい邦夫の手にかかれば、説教の挙句に店員を泣かしかねない。

 しかし、この時も邦夫は店員呼び出し用のベルを鳴らして「すまんが、いつものおしぼりをくれ」と、キューちゃん(高橋尚子)スマイルで要求した。

 吉乃は雷に打たれたかのように固まっていたが、突然ものすごい角度で頭を下げてきた。

「も、申し訳ございません! 以後、このようなことのないように気を付けますっ」

 吉乃の目に涙がにじんでいた。

 しかしそれは邦夫が怒って泣かせたような涙ではない。

 お客様のサービスに関して自分が至らなかった、という心からの反省の涙であった。



「お待たせしましたっ」

 吉乃がテーブルに並べたランチに、ギョッとした。

 肉が……デカイ。

 恐らく、いつもの1.5倍はある。

 付け野菜もライスも、大盛りだ。

 とどめに、ハンバーグにかかるデミグラスソースでハートのマークが皿に描かれていた。

 うれしいような、気まずいような、照れくさいような?

 複雑な心境で邦夫はランチを口にした。



 食べ終わった頃に、吉乃はホットコーヒーを持って現れた。

 注文してないぞ、と邦夫が言うと彼女は一言。

「サービスさせてください」



 仕事帰りに、邦夫は近くの駅前商店街に寄った。

 誰もが、邦夫を見つめる。

 誰もが、驚いて道を空ける。

 無理もない。

 今まで町一番の嫌われ者だった仏頂面男は、今や『町一番の晴れやかスマイル男』になっていたのだから。



 絹代から豚の薄切りを600グラム買ってきて、とお使いを頼まれていた邦夫は、その足でまっすぐに精肉店を目指した。

 邦夫がお使いを引き受けたことも、奇跡中の奇跡と言えた。

「へい、らっしゃい」

 来客に気付き作業から顔を上げた店主は、あり得ないあまりの光景に、さいばしでつかんでいた揚げたてのコロッケを思わず落とした。

 煮えたぎった油たっぷりのフライヤーに、ドボンとコロッケが落下。

 当然、油は思いっきり跳ねた。

「うわぁっちっちっちっ」

 店主はしばらく、腕を振って踊り狂った。

 その様子を気の毒そうに眺めていた邦夫だったが、気の毒に思うわりにはニコニコと笑顔だったが、こればっかりはどうしようもなかった。

「豚肉の細切れ、600ほど頼む」

 店主は、腕をアイスノンで冷やしながら、はかりに豚肉をのせる。目分量で置いたその塊は703グラムを示したが、そのまま包み始めた。

「旦那、ちょっと多いようだが?」 邦夫がそう尋ねると、

「まぁ、いいってことよ」

 気前のいい店主は、100グラムをオマケしたばかりか、先ほど揚げていた揚げたてコロッケも三個、付けてよこした。



 何だか、今日の絹代はヘンだ。

 帰宅してから、妻が極端に落ち着きがなく妙にソワソワしてるのが気になった。

 食事中の会話も上の空で、生返事ばかり。

 家事に関してはエキスパートのはずの絹代が、二枚皿を割った。

 邦夫は、不思議がった。ニコニコ顔で首をかしげるその姿は、はた目にはちと異様であった。



 事件は、就寝時間に起こった。

 寝間着に着替えた邦夫が寝室のドアを開けると……

 信じられない格好をした絹代が、布団の上で身をくねらせていた。

 見間違いでなければ、それは世に言う『ナース服』と呼ばれる類のコスチュームであるはずだった。

 邦夫はその姿を確認されるやいなや、ピンクの野獣に飛びかかられた。



 後で聞いたら、この方が邦夫が 『燃える(萌える?)』と思ったのだそうだ。

「あ、これそんなに趣味じゃなかった? それかセーラー服とかのほうががよかったかしら?」

 邦夫は、開いた口がふさがらなかった。



 ……おおおおおオレのこと、どどどどどどういう風に思っとるんだぁ?



 しかし、頭のどこかで「おおっ それも捨てがたいかも!?」などと不覚にも思ってしまった邦夫は、その邪念をはたきでパタパタと追い払った。

 ちょっとズレた気遣いに引っかかるものを感じながらも、それでも妻の気持ちをいじらしく思った邦夫は、かなり久しぶりに妻と身も心も一つになった。



 行為が終わった夫婦は、身なりを整えて就寝した。

 電気を落とした暗い空間で、天井を見つめながら邦夫は考えた。

 顔が固まってしまってからというもの、決して心がついていっているわけではなかったが、笑った顔をしているだけで実に気持ちの良い一日が過ごせた。



 ……オレは一体、今まで何をやっていたんだろう。



 自分勝手な意地から、人を寄せ付けないバリアーを体に張り巡らして、自業自得な孤独に陥っていた自分。

 笑顔は、人も自分も幸せにする。

 その言葉にしてしまえば当たり前のことに、邦夫はやっと気付いた。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 



 あくる朝、邦夫は逆の意味で焦った。

 顔が…元に戻っていたのだ。

 鏡で確認すると、なじみだった仏頂面をするのはすでに簡単であった。



 邦夫は、治らなくてもいいや、と思っていたのだ。なのに、二日を待たずに皮肉にも治ってしまった。

 逆に笑顔を浮かべるのが難しくなってしまった邦夫は、その日から笑う訓練を始めた。

 自宅で過ごす時には、物まねをする『清水アキラ』や『コロッケ』などのように、顔にテープを貼りまくって矯正も試みたりして、絹代の失笑を買った。

 鏡の前で、表情を作る練習もした。

 顔中の筋肉をいつも手でほぐし、常にニッと口元をつり上げて笑顔でいる練習を繰り返した。

 腹はメタボ気味だったが、顔の筋肉に関してだけは若者にも負けないだけに鍛え上げられた。

 そして、努力の末に『キープスマイル』を手に入れた邦夫は、その後も人生をエンジョイした。



 豊かな人生の条件は、実に単純なところにあったのだ。

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豊かな人生の条件 賢者テラ @eyeofgod

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