第六話 夏と諭吉は去って行く

「オレ、あんな勝ち方じゃ納得できないよ。あのままだったらオレがルール違反で負けてた」

 さくは、その場を去ろうとする僕の腕を掴んで離さなかった。

「認めるよ。アンタは、兄ちゃんは、ただのロリコンじゃない。エリートだよ。ロリコンのエリートだ。エリートロリコンだ」

「そもそもロリコンじゃねぇ」

 こいつ僕のことを何回ロリコンって言ったら気が済むんだ。覚えたてか。

 あの時僕が体を張って助けたのは誰あろう、幼女だったのだ。よって僕のロリコン疑惑は加速の一途を辿っている。もうどうにでもなれ。

「元々、僕はお前の邪魔をする気なんか全くない。だからあんな勝負は所詮クソ茶番でしかない」

「怒ってる?」

「いや、怒ってない」

 邪魔をする気はない。これは紛れもない僕の本心だった。

「……よくよく考えたらなんの問題もないんだよな、負けても」

「なんで?」

「だってさ、告白するだろ? で、振られるだろ?」

「振られるの⁉」

「そしたら、もう僕はなんの憂いもなく駄菓子屋に顔を出せる訳だ」

「オレのことをもっと憂えてくれてもよくない?」

「え、嫌だよ」

「やっぱり怒ってるよね? ごめんなさい‼」

 

  * * *

 

 あれから十日ほどが過ぎ、その間駄菓子屋には一度も行っていない。

 僕は今、冷房の利いた自室でソファーに転がって、テレビを見ながらコンビニで買ったポテトチップスを食べている。やっぱりカウチポテトは最高だぜ。

 相変わらず宿題には手を付けていない。

 決闘の敗者は駄菓子屋「和同開珎わどうかいちん」への出入り禁止。糖子も、店主も、朔さえも、僕を引き留めたが、僕はルールに従った。純粋に、朔の恋を応援したいのだ。

 僕にはあれほど何かに打ち込んだ経験がない。だが、ああして頑張る誰かの足を引っ張りたいとは思わない。成就するにせよ、しないせよ、彼にはチャンスをチャンスとして、正しく享受して欲しい。

 その上で、あの場に丸井まるいつねゆきという男子高校生は必要ない。

 あの店主だって、朔のことは憎からず思っているはずだ。いざとなれば空気を読むだろう。

 久々に冷えて冴え渡る頭で考えても、この答えが間違いだとは感じない。ただ、この不自然な心地良さと、コンビニで買った一袋百八円もするポテトチップスの味にはどこか違和感を覚えていた。

 窓の向こう。その紺碧の空では、打ち上げ花火が小さくちらついている。

 夏休みも残り一週間を切った。そろそろ糖子も、自分の家に帰るのだろう。

「散歩でもするか」

 そう、一人ごちる。今まで散歩なんて、碌にしたことがない癖に。


 家を出ると、ただなんとなく歩いた。歩き続けた。花火の光はとうに止み、帰っていく浴衣姿の人々とすれ違っても、止まることはない。

 やがて行灯の光に吸い寄せられるようにして、花火大会の会場までたどり着いた。

 そんな時、ポケットに突っ込んでいたスマートフォンが振動する。取り出してみると朔から着信があった。

「朔」

「あ、兄ちゃん。よかった、着拒解除してる。ちょっと話したいんだけど、今いい?」

 電話を取ると、朔は畏まってそんなことを言う。

「いいぞ。……あ、ひょっとしてお前も祭りに来てたりする?」

 僕は承諾しつつ訊ねる。電話口の向こうに人混みの気配を感じたからだ。

「うん、そうだけど……兄ちゃん来てるの?」

 それから僕達は、互いに場所を確認しながら合流した。

「兄ちゃん……」

 朔はあの日と同じように僕を呼ぶ。その声には覇気がなく、どこか弱々しい。

 彼が腕を下ろすと、その顔には泣き腫らした跡があった。

「……振られた……」

「そうか」

 恋をしたことも、誰かの恋を見届けたこともない僕ではその程度のことしか言えない。

「兄ちゃん」

 朔の声色が変わった。

「糖子さん、明日の朝帰るってさ。多分店にいると思う。もうオレに気を遣う必要もないだろ? 行ってよ」

 そう言って見せた、涙で濡れた満面の笑みからは、努めて明るく振舞っているのが嫌でも伝わってきて、見ているのが辛かった。本当に分かりやすい奴だ。

「ああ、分かった」

 僕は踵を返し、今歩いてきたばかりの道を走りだした。


「はぁ、はぁ……ごふっ、おええ」

 こんなに走ったのはいつ以来だろう。正直、冷静に考えると走る必要性はさほどなかったかもれない。

 肩で息をし、時折咳き込み、軽く頭痛と吐き気に襲われながら、僕はそこに蹲っていた。そういえば家でも碌に水分を摂っていない。

 ……死ぬかも。

 駄菓子屋「和同開珎」。今はその大きな看板も、闇に紛れてよく見えない。中から明かりは漏れておらず、何も言われなければそこに誰かがいるなどとは思わなかっただろう。

「ごめんくださーい」

 今やすっかり馴染んだ挨拶をしながら、立て付けの悪い引き戸を開ける。そしてそのまま座敷に上がって明かりを点ける。今ではスイッチの位置もしっかり把握している。

 蛍光灯が小さく音を立てて点灯すれば、真っ暗だった店内は一転。眩しいほどカラフルな駄菓子達が姿を現す。そして、いつか駄菓子に紛れていたあの子もまた、その姿を現した。


 彼女がいたのはあの日と同じ、段ボール箱の中。

 僕は百円玉を取り出しかけて――やめた。その代わりに、

「釣りは要らない。取っとけ」

 一万円札を差し出した。

 糖子は少し、目を丸くしていたが、すぐに首を横に振る。

「私はもう、非売品ですよ」

「分かってる。冗談だ。でもこれはやる。お兄さんからの小遣いだ。また暇を持て余したら、これを使って遊ぶといい」

「そんな……そもそも私達は、高々三歳差ですよ。砂倉君とのことだってそうです。そんなお節介を焼かれる義理はありません」

 彼女はそう言って、僕を睨み付ける。その顔にもまた、朔と同じように涙の痕があった。

「もう会えないと思ってました。結局、ゲームもクリアしてませんし」

 確かに僕は、彼らに「お兄さん」なんて自称して、胸を張れるような人間ではない。運動はできないし、宿題もしない、恋をしたこともない。ただ三年や四年、長く生きただけだ。

 僕もまた、ヒロインの意向を無視していたうちの一人に過ぎないのだ。

「それに、また来れるかどうかも分かりません」

 夏が終わる。僕達も、会えなくなる。

 俯いた彼女の顔は、垂れた前髪に隠れて見えない。

「朔といるのは、そんなに退屈だったのか?」

「退屈……ではありませんでした。色んな場所に連れて行ってくれました」

「だよな。……なんだかんだあいつも、面白い奴だったよ」

 彼もまた、夢を見ていたのだろうか。

「丸井さん。なんだかその言い方だと彼、死んだみたいなんですが。生きてますよ。……生きてますよね?」

「ああ、生きてるさ。僕達の心の中に」

 僕達は、静かに笑い合う。

 場に下りた沈黙にも、いつかと違って気まずさはない。

「まあ、冗談はこれくらいにするとして。やっぱり持ってけよ、一万円。アルバイター様をあまり舐めるなよ? それに、これはお詫びも兼ねてる」

「お詫びが現金ってどうなんですか……。いいですよ、別に。それは流石に申し訳ないです」

「いいから」

 糖子の手を取って一万円札を持たせる。

「どうしてもって言うなら、また会った時にでも返してくれ」

「ああ、なるほどそういう話ですか」

 納得したように言い、彼女にしては珍しく意地悪な笑みを見せた。

「丸井さん、小さい女の子が大好きですもんね」

「やめろ。いやマジで、やめてください」


 それからは他愛もない話をした。

 また会えるかどうかは、正直分からない。彼女自身そう言っていた。

 だからせめてフラグを立てたのだ。


 一カ月の間、これほど長く一緒にいても、僕達は互いのことを殆ど知らない。

 やはり、まるで夢を見ているようだ。

 その瞬間がどれほど楽しかったとしても、目覚めてみればそれがどんな夢だったのかさえ分からない。

 そこには何も残らないのだ。

 でも、きっと、夢だからこそ得られるものはある。


 それは――――



  * * *


「…………夢か」

 口にしたそばから、その内容は頭の中から煙のように消えていった。

 ただ一つ、はっきりと覚えているのは、その中で糖子に会ったという事実。

 糖子が帰ってから数日が過ぎた。

 ベッドから上体を起こし、机の上のデジタル時計を見ると、日付は夏休みの最終日となっていた。

 最早宿題などという無粋な物には目もくれず、ただ淡々と外出の準備を進める。

 折角の休み、それも最終日だ。

 何をするかといえば、そんなもの駄菓子食って寝るに決まっている。

 

「あっつ……」

 何がお日様だ。お天道様だ。砕け散ってしまえあんなもの。いや、もしそうなったら世界は永遠の闇に包まれてしまうのだけれど。しかし僕はそう思わずにいられない。

 いつもの駄菓子屋には朔も来ていた。店主も含め、そう広くない座敷の上に男三人。一緒にだらだらと夏休み最後の一日を過ごすその様は、未だ弱まる気配を見せない日差しも相まって、暑苦しいことこの上ない。

 僕達はそれぞれ、異なる味のうまい棒をちびちびと齧る。

 僕がサラミ味で、朔がテリヤキバーガー味、そして店主はチキンカレー味。

「しかし、やっぱり振られたか。……なんか、それはそれで腹立つな。折角気を遣ってやったのに」

 手持無沙汰だったので、ふとそんなことを言ってみた。それは軽い冗談のつもりではあったが、あながち嘘だともいえない。

「なんかすっごい理不尽言われてない? オレ」

「ホント、おめぇにはがっかりだよ」

「爺ちゃんまで⁉」

 涙目の朔を見ながら、「泣きたいのはこっちだ」と内心呟く。そして殆ど齧り尽くして短くなったうまい棒を口に放り込む。

 さく、と咀嚼する音が三つ重なった。

『うま』

 両掌を上に向けて首を振る鬱陶しい動作をしながら、店主は呟く。

「全く、大の男を三人も虜にしちまうなんて、糖子も罪な女だぜ」

 そんな茶化したような言葉にさえ、即座に反論できない自分がいた。

「っと、そうだそうだ。ツネに渡しとけって糖子に頼まれたんだ」

 唐突に、思い出したように手渡されたのは、メモ用紙を千切ったような小さな紙切れ。

 それにはこう記されていた。


『帰り際、迎えに来た父と話したんですが、冬休みもここに来ていいとのことでした。

 PS:それはそうと、丸井さん格好良かったですね(笑)』


 僕はふっと笑みを零しながら立ち上がった。そのまま店の玄関まで行って、相変わらず主張の激しい太陽と、やたら大きな入道雲の浮かぶ空を見上げる。

 溜息をつく。


 ――――やっぱり今すぐ返せ、一万円。

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税込百八円の夢 吉備糖一郎 @idenashishiragu

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