其の五「もはやおはんの出る幕はなか」

 桐野利秋は西郷隆盛の右腕として倒幕や戊辰戦争で活躍し、この頃には薩摩藩あらため鹿児島藩の鹿児島常備隊で第一大隊長を務めていた人物である。

 が、当時の彼の働きは鹿児島藩にとどまらない。明治二年六月十七日に版籍奉還が実施された際には、同日付で、東京府にいた大久保利通ら宛に鹿児島藩の内情を知らせる文書を送るなど、この時期、東京府と鹿児島藩の橋渡し役を務めていた。

 しかし桐野利秋という名や、右に挙げた功績よりも、中村半次郎という名のほうが有名であろう――なかんずく「人斬り半次郎」の異名が。

 彼は慶応三年九月三日、京は東洞院通ひがしのとういんどおりにて、薩摩藩お抱えの軍学者、赤松小三郎を幕府の密偵とみなし、白昼堂々斬ったのだ。

 もっとも、記録に残っている彼の「人斬り」――暗殺はこの一件だけである。「人斬り半次郎」と呼ばれながらも……だが暗殺の多くは、暗殺者の正体もまた暗中にあるものだ。そもそも幕末の京自体、まさしく魑魅魍魎ちみもうりょう跳梁跋扈ちょうりょうばっこする暗中にあった……


「おう、それよ――桐野利秋あらため、中村半次郎さん……いや、逆でござったか? お懐かしゅうござるな」

 河畑深左衛門は手を打っていった。大兵の抜き身をちらちらと見ながら。

 桐野利秋――もとい半次郎は、大兵のほうへ顎をしゃくった。大兵はこれに応じてしぶしぶ刀を納めたが、怒りは治まらぬと見えて、ずっと河畑を睨みおろしている。

 が、当の河畑は納刀と同時に大兵への興味を失ったらしく、歯牙にもかけずに、

「それにしても、妙なところで会うたものよ。なにゆえ、西郷さんの腰巾着が東京府におる? 戊辰の折りに落とされたのか?」

 と半次郎にいった。

 これには大兵はもとより小兵も顔を朱に染めて、刀の柄に手を伸ばしかけたが、半次郎は眉ひとつ動かさずに、

「西郷先生の巾着の紐は長いっちゅうこつじゃ。まっこと、大きかお人にごわすからな」

 と返した。そして、まったく別の話を切りだした。

「時におはん、あいもかわらず節操なしに刀を振っておるそうじゃな」

「お連れの刀も尻が軽うござるがな。こわい、こわい……」

 河畑が小兵と大兵の刀の柄尻を指さしていえば、半次郎は鼻で笑って歩きだす。そして、河畑とすれちがいざまにささやいた。

「よかか? こいよりは、おいたち薩摩の正義がお国を引っぱり、富国強兵の夢を叶えもす。もはやおはんのよな、貫くべき正義も、叶えるべき夢も持たん尻軽男の出る幕はなか……刀じゃあなく、身の振り方を考えるんじゃな」

 今度は河畑が鼻で笑った。

「……真面目腐ってなにを申すかと思えば、左様なことか。そのときは、賽を振るまでよ」

 河畑もまた、歩きだす。その行く手で立ちどまっていた小兵と大兵は、意外にも河畑に道を譲った。それは、河畑があくまで戯れ言を口にしながらも、このときに至って嘲笑の面を外していたからにほかならない。その瞳は、ここではないどこかを睥睨へいげいしていた。

 小兵と大兵は、河畑が角を曲がって見えなくなるまでその背を見送っていた。見えなくなってなお、しばし記憶を浚うよすがとするようにそちらを眺めていたが、大兵が先にはっとして、

「たわけ、なにをぼうっとしちょるか! ゆくぞ!」

 小兵を横からどつくと、半次郎を追った。小兵も慌ててあとを追う。半次郎はふたりを待たずに、さっさと歩いていっていた。

「桐野どん、ないごて斬らせてくれもさなんだか!」

 大兵は半次郎に追いつくと、腰を曲げ半次郎の顔を覗きこむようにしながら悔しげに吐く。

 しかし半次郎は、

「おはんでは斬れぬ」

 と一顧だにせずいうばかりだ。

「ばかな! きゃつはおいの一の太刀を怖がって飛びのき、あまつさえ転びかけもした。尋常の勝負なら――」

 なおもいい募ろうとした大兵の鼻先に、つと左の拳が突きつけられた。中指と薬指のない、半次郎の拳が。一瞬の早業である。寄り目になってたじろぐ大兵に、半次郎は、

「きゃつは、この中村半次郎の指を斬った男じゃ」

 といった。

 大兵は息を呑んだ。遅れて追いついた小兵も、半次郎の左手の中指と薬指の、切り株めいた断面をまじまじと眺めていたが、やがて首を傾げて、

「……じゃっどん、桐野どんの指を斬ったは、一刀流の連中と聞いておりもすが」

 と不思議そうに呟いた。大兵もはたと、半次郎に訝しげな目を向けた。

 彼らは、半次郎が四年ほど前―戊辰戦争中、湯屋から帰る途中で一刀流の刺客三人に襲われ、左手の中指と薬指を失ったと聞きしっている。ただし、ふたりともこれを半次郎の不覚とは露ほども思っていない。そのとき、半次郎は脇差一本しか持っていなかったし――その脇差一本で、ひとりを返り討ちにしているからだ。

 当の半次郎は、左手を翻し、中指と薬指のつるつるした断面を眇めながら、

「そのあとじゃ……おいは、きゃつと斬りあう機会があった。そのとききゃつは、肉を斬らせて骨ではなく、指を断ちおった――一刀流のやっせんぼどもに斬られて短くなった指を、さらに短くしてくれおったのよ。爪でも斬るようにな」

 と忌々しげにいった。

「ないごて、一刀を浴びてまで、すでに短くなっちょる指を……?」

 その謎を解きあかそうとでもいうのか、大兵が大きな顔を半次郎の左手に近づけながら呟く。

「じゃっで、おはんでは斬れぬっちゅうとるんじゃ」

 半次郎は大兵の顔を左手の甲で押しのけながら、

「きゃつは、こういった……『感謝しなよ……これで、負けたときに指を言い訳にせずに済むんだから』とな」

 と河畑の口調を真似て、舌打ちをした。

「……つまり、挑発のためだけに?」

 小兵が呆れたように首を傾げる。

「武士にあるまじき、きっさね小細工じゃが……そいが勝負をわけるこつもある」

 半次郎は重々しく頷いてから、一転、にやりと笑った。

「もっとも、おいには通じなんだがな。『ばかめ、おはんがおいの指を斬れたは、おいの指が短くなっちょったからじゃ。じゃっで、おいはまだまだ、指を言い訳に使えるぞ』といい返してやったわ」

 まるで子供の口喧嘩だ。

 小兵と大兵は、褒めたものか笑ったものか、迷いに迷って黙っていたが、するうち半次郎が、

「……じゃっどん、あの屈辱は忘れられぬ」

 と歯を軋ませるのを聞いて、黙っていて正解だったと心中胸を撫でおろした。

「……桐野どん、きゃつは一体?」

 ややあってから、あらためて小兵が問う。

「……河畑深左衛門。下賤な人斬りよ――川路めが依頼した、な」

 半次郎は吐き捨てるように答える。自分も人斬りの異名を冠しておきながら、自嘲の響きは一切ない。

 いやそれより、半次郎はいま、依頼といったか?

 小兵と大兵は河畑の名にはぴんと来なかったようだが、依頼と聞くや、横っつらを張られたように河畑の消えた角を振り向いた。それからふたりして、なにゆえか、片腹痛さに耐えかねてくすくす笑いだした。

「するときゃつ、なにも知らずに――」

「いい気になっておったっちゅうわけじゃ!」

「酒の肴が増えたな!」

「いやいや、女への土産話が!」

 小兵が前かがみになって笑いながら、大兵がのけぞって笑いながら歩く中、半次郎は不意に立ちどまった。小兵と大兵はすぐには止まれず、二、三歩、半次郎の前でたたらを踏んでから振りかえった。

 半次郎は小兵を見た。

時正ときまさ

 ついで、大兵を見た。

明村あけむら

 ふたりは名を呼ばれ、背筋を伸ばした。その顔にはもはや笑みはなく、若干の恐れがある。半次郎は肩越しに河畑の消えた角を見てから、ふたりに命じた。

「きゃつを見張れ」

「えっ」

 ふたりは顔を見合わせた。

「い、いつからでごわすか?」

 小兵――時正がおずおずと尋ねるのに、半次郎は、

「いまからじゃ」

 と無慈悲にいい放った。

「女は!?」

 大兵――明村が悲鳴じみた声をあげた。

「さ、酒は?」

 時正が許しを乞うように、眉をへの字にして問うた。彼ら三人はこの日、薩摩からの長旅のすえ、東京府に入ったばかりだった。時正と明村は、今夜は酒と女で旅の垢を落とせるものと思っていたのだ。実際、半次郎は道中、今夜の宴をほのめかしてふたりを鼓舞しさえした。半次郎には、そういう気風きっぷのいいところがあった。

 その半次郎がいまは、

「あとじゃ」

 と断じている。ふたりにはわけがわからないが、大先輩に逆らうわけにもゆかない。

「わ、わかりもした」

 時正が諦めて頷く。

「じゃっどん、なにゆえにごわす?」

 明村が未練がましく問う。すると、半次郎は凄絶な笑みを浮かべていった。

「きゃつは、転んでもただでは起きぬからよ」

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