其の四「焼き芋の匂いがいたすな」

 河畑は広沢邸のぐるりをぶらぶらと歩いていた。彼の正体を知っていればこそ、侵入経路を探しているようにも見えるが、知っていてもなお、物見遊山をしているようにも見える。冬の朝のからっとした寒さの中にあって、そっと触れるような日ざしが少しあたたかく、風も邸内や道端の木々の葉をくすぐる程度で、なんとものどかな雰囲気に満ちていたからかもしれない。

 河畑がひとけの少ない裏手に回ると、向こうから三人の士族――背丈は右から、大中小――が横並びで歩いてきた。左右のふたりは編笠を、中央のひとりは山高帽を目深にかぶっていて、顔は見えない。中央のひとりは左手を懐手にしていた。長いこと歩いてきたのか、三人ともくるぶしまで砂埃にまみれている。

 河畑は道を譲るよう、彼らを迂回してすれちがった……が、不意に立ちどまると、上を向き鼻をひくつかせて、いった。

「焼き芋の匂いがいたすな」

 三人組が立ち止まった。河畑は彼らと背中合わせに立ったまま、さらにいう。

「焼き芋屋に寄られたか? あやかりとうござるな……いや、しかし……それにしても……」

 河畑は振り返った。三人組のうち、両脇の小兵と大兵は半身になっている。大兵は編笠の下の目を懐疑に光らせている。小兵は息を手のひらに吹きかけ、その臭いを嗅いでいる。真ん中の男は背を向けたまま、懐より抜いた左手にあるなにかを見おろしている。

 河畑は笑った。

方々かたがた、よほど焼き芋がお好きと見える。芋の匂いが染みついてござるぞ……く、く……」

 そのときだった。

「きえーっ!」

 絞められた鶏の断末魔か? いや、ちがう! 大兵のあげた叫びだ! 瞬間、その鋭い叫喚が目に見えるがごとく、大兵の腰から一筋の光条がたばしりのぼった―刀を抜きざま、河畑を斬りあげたのだ! 音速とも見まがう一の太刀!

 が、それよりはやいものがあった。河畑だ。彼は大兵が抜刀するよりはやく、ばっと後ろに飛びずさっていた。大兵の凶行を予見していたかのように。しかし、いて着地を仕損じたか、後ろにたたらを踏んだ。

「おっとっと……業物とお見うけいたす。芋助はよう斬れましょうな? 江戸っ子は斬れなんだようでござりまするが……」

 よろめきながらも、口は減らない。

 大兵はといえば、口をあんぐり開けて河畑と己の刀を交互に見ていた。が、すぐにその首の血管が盛りあがり、喉が、顎が、頬が、鼻が、水位のあがるようにみるみる赤くなっていく。

 大兵は二の太刀のため、剣を天に突きあげようとしたが、

「た、たわけ! 天下の往来でなにをしちょるか!?」

 遅まきながら、小兵がその腕を掴んだため、叶わなかった。どうやらこの小兵、体に見合わぬ力の持ち主らしい。いや、それよりも――

「おや、方々、いまをときめく薩摩のお歴々でござったか。これは失礼つかまつった……芋の匂いがして当然でござったな」

 この三人組、薩摩藩士だ。河畑はいかにしてか――まさか、実際に三人組から芋の匂いがしたとは思われないが――そうと察して彼らに因縁をつけていたと見える。それも狂気の沙汰だが、いきなり抜刀した大兵も狂人じみている。

 さて、素性をいいあてられて顔を見合わせている小兵と大兵に、河畑は、

「してみると、やはり見まちがいではなかったか?」

 と顎をさすりながら呟いた。

「なに?」

 小兵が大兵を制しながら――まるで暴れ馬をなだめる御者だ――問う。河畑は顎をさする手の動きに応じて、首を左右に振りながら、たっぷり間を設けて答えた。

「いや、なに……昔、会うたことのあるような気がいたしてな……あれは、いつのことであったか……どこであったか……慶応であったか……京であったか……」

 小兵と大兵は振り返り、真ん中の男の背を見た。彼はこのあいだ、ずっと彼らに背を向けていた。刃傷沙汰を杞憂すらしていなかったかのようだ。

 河畑は続ける。

「なんという名であったか……確か、中……いや、いまはちがう名でござったな? 杉野……ちがう、松野……いやちがう、栗野……」

 パチン、と音が鳴った。真ん中の男の手元から。

桐野きりのじゃ」

桐野といった男は、ゆっくりと河畑のほうへ向きなおる。小兵と大兵が脇に退く。男は河畑と相対すると、中指と薬指のない左手に持った懐中時計を懐にしまい、その親指で山高帽をくいとあげ、はばきみたいに細い目を、刃金はがねほどに細めていった。

「桐野利秋としあきじゃ――じゃが、いまは中村半次郎なかむらはんじろうでよか。河畑深左衛門……あいもかわらず、達者じゃな?」

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