第7話 「……」

 〇島沢真斗


「……」


 ブラームスにショパンにラフマニノフにシューベルトにベートーベンにモーツァルトに…

 次から次へと、音を切らすことなく弾き続けた。


 情けなくて…情けなくて…

 どうして僕は…

 どうして…こうなんだろう…って。


 鈴亜を本気で好きになったって言ってた邑って人は…本当に自信に満ち溢れた人だと思った。

 僕だって…鈴亜を想う気持ちは、誰にも負けない…って…

 そう思ってたはずなのに…


 それって、鈴亜が僕の事を見てくれてないと、持続出来ない自信だったのかな。

 それに気付いた途端、情けなくなった。

 鈴亜の気持ちが離れたって、僕は僕の気持ちを押し通せばいいはずなのに…

 鈴亜には、彼の方がお似合いだ…なんて…

 もう、自分から逃げてる。


 …情けない。



「…は…あ…」


 さすがに…指が攣りそうになって…弾く事を止めた。

 どうなっても構わないって思ってたけど…ダメだよ…

 僕には、仲間がいる。

 みんなと…ずっとやってくために、この指は…大事にしなくちゃ…


「……」


 汗かいちゃったな…


 一度ルームに戻って、ロッカーに置いてる着替えを持ってシャワー室に行った。

 九時か…僕、何時間弾いてたんだろ…

 みんな、何か思ったよね…きっと。

 外から帰った途端に、スタジオにこもって弾きっ放しなんて…

 今までした事ないしさ…。


 シャワーをして、ルームで髪の毛を乾かしながら指のストレッチをした。

 あー…色々反省…

 こんな無茶して…バカだな。


 荷物を持って、事務所を出る。

 歩いて帰ろうかなとも思ったけど…さっさと帰ってヤケ酒でも…なんて思った僕は、久しぶりにバスに乗る事にした。


 最近、飲み過ぎかな…

 とは思うけど…

 飲まずにいられないよ。


 バス停に立って間もなくバスが来て。

 それに乗り込んで…前の方に向かうと、一人掛けに座ってた女の子が一番前に移動した。

 あ、空いた…と思って、その席に座ると…


 バキッ。


「え。」


「あっ!!」


「……」


 僕のお尻の下に…


「すっ…すいません!!あの…あたしのメガネ…」


「…ごめん…折れちゃった…」


 メガネは、見事に…真っ二つ。

 僕、どれだけ勢いよく座った!?


「…あ…」


「もしかして…見えない?」


 ボブカットの女の子は、僕の手元を見て眉間にしわを寄せて。


「み…見えない…」


 泣きそうな顔をした。



 座席にメガネがあるなんて思わなかったけど、確認せずに座った僕が悪い。

 だけど、こんな時間に眼鏡屋さんが開いてるはずもなくて…

 僕は、ずっと眉間にしわを寄せてる女の子を送って行く事にした。



「おうち、どの辺かな。」


 バスを降りて僕がそう問いかけると、女の子は街灯の少ない方向を指差した。

 メガネは、結構な度の強さで…

 これがないと、本当に見えないんだろうなあ…って思った。

 しかめっ面になる理由も分かるけど、ちゃんと確認して座れよ!!って叱られてる気分にもなった。



「ごめんなさい…あたし、眠くて、メガネ外してたの忘れて席移ったから…」


 やっと喋ってくれた女の子は、小さな声でそう言った。


「ううん。何も考えずにすぐ座った僕が悪いよ。メガネないと不便だよね。明日学校困るんじゃ?」


「家に前のメガネがあるから…」


「そっか…でも、これは弁償させてね。ちゃんと直して返すから。」


「…ありがとう…ございます…」


 僕は歩き出したんだけど…女の子はバス停に立ち止まったまま。

 どうしたのかな?と思ったら…


 あ。

 見えないから怖いのか…



「ごめん。気付かなくて。はい、つかまって。」


 そう言って腕を差し出すと…


「ごめんなさい…お願いします…」


 女の子は…僕の腕を掴むんじゃなくて…手を取った。


「……」


 何となく…鈴亜に悪い気がしたけど………って。

 もう…鈴亜とは関係ないんだ…

 それに、これは仕方ない事だから…


 手を繋いで、女の子と歩き始める。


「名前なんて言うの?」


「……真珠美ますみ…」


「真珠美ちゃん。何年生?」


「中二です…」


「そっか。こんな時間まで…塾?大変だね。」


「…期待されてるから…頑張らないとって思って…」


「……」


 その言葉は…痛々しい気がした。

 バスの中で居眠りしてしまうぐらい疲れるなんて…

 僕が中二の時は…

 …そっか…

 やっぱ、期待には応えたいって思ってたかも…


 カッコいい。じゃなくて…

 可愛いって言われるように…。



 弟の奏斗は、小さな頃からヤンチャで。

 僕としては、元気な弟を可愛いなあって思ってたけど…

 母さんは、困った顔をしてる事の方が多かった。


 父さんは子育てに関しては母さんに一任って感じで。

 …って言うか、もうほったらかしだよね…

 それが良かったのか、奏斗は早くに自立してしまって、イギリスに留学したし…


 だけど僕は…

 母さんを守らなきゃって…

 …いや…

 母さんを喜ばせたかった。

 ただ単に、僕を認めて欲しかったからだと思う。

 母さんの…息子として。



「お兄さんは…何歳?」


 真珠美ちゃんは足元が怖いからか、ずっと顔を上げないけど、会話は弾んで来た。気がする。


「僕?僕は23歳。」


「一番上のお兄ちゃんと…同じぐらいだあ…」


「一番上のお兄ちゃん?お兄ちゃん、何人いるの?」


「三人。」


「わー…すごいね。そっか…初めての女の子だから、期待されてるって事?」


「うん。」


「お兄ちゃんは、みんな優しい?」


「うん…あたしが、こんなブスでも…みんな可愛がってくれる…」


「ブスって…」


 僕が小さく笑うと。


「だって、あたし…こんな暗い顔よ?」


 真珠美ちゃんが顔を上げた。


「……」


 やっと。

 初めて…正面から顔を見た。

 しかめっ面の横顔しか見てなかったけど…

 正面から見た真珠美ちゃんは…


「…とりあえず、眉間のしわを伸ばしてみよっか。」


 僕がそう言って眉間に指を置くと。


「はっ…」


 真珠美ちゃんは慌てて僕の手を離して、両手で顔を押さえた。


「あっ…ごめん。でもさ、何を持ってブスって言うのか分かんないけど…僕は、女の子はみんな可愛いって思うよ。」


「……」


「って…なんか、ナンパ師みたいだね。」


 僕がそう言うと、真珠美ちゃんはゆっくりと両手を顔から離して。


「…そんなの…有り得ない…」


 低い声で言った。


「どうして?」


「可愛い子は、めちゃくちゃ可愛いし…あたしみたいなブスは…何をどう頑張ったって…可愛くなんてなれない。」


「……」


「神様は、不公平。」


 真珠美ちゃんの言葉は…正解のようにも、不正解のようにも思えた。

 僕だって…男らしくない自分に自信喪失中だ。

 だけど…


「確かにさ…見た目だけの事を言ったら、公平不公平って言うのはあるのかもしれないけど…」


 僕は真珠美ちゃんの重たそうな前髪を覗き込んで。


「ちょっと失礼。」


 前髪を、かきあげた。


「はっ…」


 真珠美ちゃんは驚いて一歩下がったけど…


「変わろうとする気持ちとかさ…頑張ってる様子ってさ…分かる人には分かると思うんだよね。」


「……」


「真珠美ちゃん、おでこ出してみたら?」


「…おでこ…出したら…可愛くなる?」


「変化を求めるなら、何か変えなくちゃ。それに、誰がどう思うかは分からないとしても、僕はおでこ出した真珠美ちゃん、可愛いと思うよ?」


 いや、お世辞なんかじゃなくて…本当に。

 重たいぐらいの前髪で隠されてた額を出すと、真珠美ちゃんは驚くほど雰囲気が違った。


 自信がないと…隠したくなる部分が多くなる気がする。

 僕だって…似たようなもんだ。


「……」


 それから…真珠美ちゃんは、もう一度僕の手を取って歩き始めた。

 話も弾んで…こんな妹がいたら良かったのになあ…なんて思ってると…


「真珠美!!」


 前方から、男の人の走って来る姿が。


「お兄ちゃん?」


 真珠美ちゃんが、しかめっ面で暗闇を見る。


「え?お兄ちゃん?」


 僕がそう言った時には…


「おまえ、うちの妹に何しやがんだ!!」


「え?」


 どうやら、手を繋いでたのが…あらぬ誤解を招いたようで。


 ガツッ!!


「やっ…お兄ちゃん!!何するの!?」


「帰るぞ!!」


 僕は、殴られて…倒れたまま放置されて。

 真珠美ちゃんは…お兄さんに抱えるようにして連れて帰られて行った。


 僕は倒れたまま…


 変化を求めるなら、何か変えなくちゃ…か。

 人に言えた事かよー…って…


 小さく笑った。




 〇朝霧光史


「どうだった?」


 風呂上りの瑠歌に問いかける。

 今夜、質のいいトリートメントを手に入れたからとか何とか言って、瑠歌が鈴亜を風呂に誘ってくれた。

 一つしか違わない二人は、嫁と小姑という関係ではあっても、すこぶる仲がいい。


 晩飯の時の鈴亜は、元気はないものの…まあ、頑張って笑ってたように思うが。

 いつもなら子機を持って部屋に入るクセに、今日は電話の前でウロウロして…

 溜息をついて、部屋に入って行った。



「うん…彼氏にフラれたって言ってた。」


「えっ?」


 ピアノを弾きまくってるまこを見て、鈴亜の奴…まこをふったのかな…って思った。

 が、鈴亜の落ち込み具合を見て…何かあったに違いはないが…

 まこが…?


「…まこが鈴亜をふるなんて…ちょっと想像つかないな。」


 ベッドに座って言うと。


「…他の男の子と一緒にいる所、彼氏に見られたんだって。」


「はっ?」


「そしたら…彼氏、知らん顔して行っちゃって…それが悔しくて声かけたら、別れようって。」


「……」


 まこは…

 たぶん、鈴亜が他の男と『遊ぶ』ぐらいなら…とやかく言わないと思う。

 だが、実際そいつは鈴亜に本気になってて、キスまでした男。


 んー…


 まこは…真剣だったんだろうな。

 真剣に、鈴亜との結婚を考えた。

 だからこそ…鈴亜が急に他の男と遊び始めて…自分との結婚は青春を終わらせる事だって言われると…

 そりゃ、堪えるよな。

 俺も、結婚を後押ししたからなー…

 少なからずとも、責任を感じる。

 鈴亜の奴、あれだけ結婚したいだの、憧れるだの言ってたクセに…



「でもさ…あたしだったら、あの男誰だよって、叱って欲しいなって思っちゃう。」


 ドレッサーの前で髪の毛を梳かしながら、瑠歌が言った。


「…あ?」


「見て見ぬフリじゃなくてさ…ちゃんと、あたしの事見て…叱って欲しいなって思う。」


「……」


 瑠歌は、鈴亜の彼氏がまこだとは知らない。

 鈴亜が言っていれば別だが…。


「彼氏は…自分に自信がない人なのかな。」


「どうして。」


「だって、恋人が目の前で違う相手といたら、問い詰めるんじゃないの?」


「…まあ、確かに…よほど好きな相手なら、そうだろうな。」


 あ、しまった。

 それじゃまるで、まこが鈴亜をどうでもいいように思ってるみたいだ。

 許せ。


「もうっ。何その言い方。」


 瑠歌はドレッサーの前からベッドに飛び乗るようにして、俺の背中に抱きつくと。


「あたしは光史が他の女と一緒にいたら、一番いい顔して挨拶するわよ?」


 俺の耳元でそう言った。


「…こえーよ、おまえ。」


「あ、聖子さんと知花さんは別よ。」


「あいつら以外の女とは1m以上離れとく。」


 俺は…瑠歌が誰と一緒にいようが、見て見ぬフリをするかもしれない。

 でもそれは、気がないからとかじゃなくて…信じてるからだ。

 わざわざ自分から妄想を膨らませて、揉め事を作りたくないってのもあるが…

 …瑠歌は、一番いい顔であいさつに来るのか…


「…ふっ…」


 つい笑ってしまうと。


「あっ、何よ。何笑ったのよ。」


 瑠歌は後ろから俺の顔を覗き込んだ。


「言わないとキスするわよ?」


「じゃ、言わない。」


 まこと鈴亜には悪いが…



 俺は、幸せ真只中だ。

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