第33話 本田徳子-2

 婆さんは急に畏まった声音で話し始めた。婆さんは名を本田徳子と改めて名乗った。そして若い頃の話をし始めた。昔、新橋の米村という料亭で女中として働いていたこと、そこの同僚でやはり女中の磯部紀子という女性と仲が良かったこと。紀子さんとは本当に何でも話ができたこと。いつも悩みや愚痴をお互い言い合っていたこと。

 徳子は窓の外へ視線を移し、途方を見つめながら、

「ある時、紀子さん、お客さんに見初められてね。どっかの大きい会社の社長さんで、社長さんしょっちゅう来るようになったんよ。いつも紀子さんをご指名でね。紀子さんとしてはそりゃ最初は仕事だから喜んでたけど、下心ありと踏んだところで乗り気にならなくなっていったんだ。けど、あんまり社長さんが熱心に通って来るもんだからついつい彼女もその気になって来ちゃってね、恋仲になったんよ。後で聞いたら社長さんには家族があるって。あたしはやめときなさいって言ったんだけどね、でも、こういうことって理屈じゃないからね。そうこうしてるうちに、ある日、紀子さん、気持ちが悪くなって上げちゃって、体調崩して早退したんよ。私はピーンと来た。大丈夫かと聞いても大丈夫だからの一点張りで。で、もう、そのうち、着物でお腹を誤魔化すこともできなくなって来ると、とうとう紀子さん、料亭を辞めちゃったの。あたしは気がかりだしお互いほかに友だちもいないし電話なんて高くてできないから文通しようって言ったの」

 ここまで一気に喋って、徳子はふうっと息をついて、隣の部屋へ行った。しばらくして鍵のかかった中ぶりの箱を持って戻って来た。

「全部でいくつあると思う?百は超えてるよ」といって手紙を取り出した。

「あたしは社長さんがどこの会社の社長さんなのか知ってる。不倫とはいえ紀子さんは幸せだと言ってたよ。あんたが生まれた時に寄越した手紙は、これだ」

 付箋を貼られた手紙を手に取り徳子はそれを俺に渡した。徳子はじーっと見つめている。俺は手紙を読んだ。繊細で美しい文字。母ちゃんの字だ。

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(中略)おかげさまで、七月十八日、子どもが生まれましたので、ご報告いたします。今、あの人が名前を考えてくれています。決まりましたらまたお便りしますね。

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 もう一通、徳子が渡して来た。

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(略)息子の名前が決まりました。あの人が「耕太」と命名してくれました。自分で言うのは恥ずかしいですが、男らしい名前だと思います。耕太にはその名の通り太く逞しく伸びやかに育っていってほしいと思っています。(略)

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 太く逞しく伸びやかに。そんな想いを込めていたのか。母ちゃん。徳子が俺の顔をじーっと見つめて、

「お前は耕太だろ」と言った。

 俺はそれに直接は答えず、

「あとは?」と言った。

「まぁまぁ、そう急がずに。お茶のおかわりを」

 婆さんは冷たい麦茶を盆に乗せて戻りながら、

「お前さんを最初に見かけた時、我が目を疑ったよ」

 俺は答えなかった。

「人懐っこそうな目、少し臆病そう、でも爽やかな笑顔、少し濃い目の眉毛に、細面でシュッとおりた頬骨。紀ちゃん、フ、お前の母さんのことだけど、紀ちゃんは写真を送ってくれててね」

 そう言って箱の中から写真を見せた。これは! 父ちゃんと母ちゃんと三人で箱根に行った時の。

「その顔が二十六年経ったらこんな顔になるものなのかと自分を疑った。でも、それだけならお前が耕太である決め手にはならないと思った。でも、紀ちゃんはお前の癖をひどく気にしていた。ほら、その、シャツの襟を気にして首を折る癖。お前は歩くときも襟を気にしてしょっちゅう首を折っていた。あたしは確信した。お前は耕太だ!」


 気づくと空が一気に暗くなって来ていた。厚い雲が青空を覆い切れ目から陽の光が一筋二筋、そのうち光は途切れてしまった。


「なんで、東京に来てしまった?」

 そこまで確信されたらしかたない。

「当然の権利だからさ」

「でもね、世の中、知らずにおくほうがいいってことも・・・」

「うるさい!お前に俺の何がわかるっていうんだ!」

 徳子は、ふうとため息をつき、そそくさと隣の和室に下がって、また別の箱を持って来た。箱にはぎっしりまた別の手紙が入っていた。徳子は、

「全部読んでると何日もかかるだろうから、付箋紙を付けたやつに目を通すといいよ」

 と言って、まず二、三通を寄越してきた。俺はそれを奪うように取り、消印の古いものから一心不乱に読み始めた。

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(略)悲しいです。恐ろしいです。まさかあいつが。生前のあの人のことをあれこれ聴かせてくれたり丁寧に答えてくれたりした優しいお方だったのに。私には唯一の頼れるお方だったのに。「こうちゃんはまだ子どもだから、ここではなく外で今後のことを話し合いましょう」と言うから付いて行ったのに。静馬、あいつは獣物です。悪魔です。一方的に乱暴されました。もう何も信じることができません。(略)

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 徳子も知っていたのか。徳子を見た。淀んで濁った眼で相変わらず途方を見つめている。

 外で雷の音がしたので窓を見た。地上二十階ともなると蝉の声も聞こえない。

 と、叩きつけるように雨が降ってきた。灯りを点けなければならないほど暗くなった。

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(略)おかげさまで三日後に二男を出産予定です。まだ名前を付けていないのですがどのような名前が良いと思いますか。最初はあいつの血が入っていると思うだけで吐き気がしたものですが、お腹の中で動く様子を見ていると早く力一杯ギュッと抱きしめてやりたい気持ちになります。不思議なものですね。(略)

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 もう一通、徳子が寄越してきた。

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 ああ、私の可愛い息子。あいつが、あいつが私に内緒で病院から連れ去った。どうしよう。お徳さん、私はどうすれば

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 これだけだった。徳子は残った手紙の中から更に二つを選んで私に渡した。

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(略)二男が連れ去られて半月が経ちます。私はもう何を生きがいにしていけば良いのかわからない。(略)耕太はそんな私を見て、いつもいたわってくれています。この子は私の前では気丈に振る舞いあの子の話題を取り上げまいと歯を食いしばっています。学校の先生から先日、「こうちゃんは、一生懸命勉強していつもテストで良い点を取ってくれます。頑張り屋さんですね。クラスのみんなの面倒もよく見て頼れる存在です。ただ、たまにですが、一人で悲しそうにしているところを目にします、何かあったんでしょうか」と言われました。あの子には申し訳ないことをしたと思っています。(略)

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 相変わらず、徳子は途方を見つめて静かにしていた。次の手紙を読んでみる。

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(略)私は二男を取り返すことにしました。とても許すことはできません。あいつは悪魔そのものです。初台へ行って、何が何でも取り返してきます。でもあいつだって簡単に息子を渡すはずがありません。(略)もし私の身に何か起きたら、この手紙を警察に見せてくださいませんでしょうか。私の勝手なお願いであり、お徳さんには迷惑なこととは思います。でも正義を貫く女が一人いたことは忘れないでくださいね。(略)

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 俺は徳子を見た。徳子は淀んで濁った眼を隠そうともせず、途方を見つめていた。お前、母ちゃんが命をかけて弟を取り返すのを傍観していたのか?!

 徳子が、すーっと話し始めた。

「あたしは、お前さんたちのことをこの手紙のやり取りですべて知ってた。でもあたしにゃ何もできなかった。相手はあの朝比奈不動産の創業家。こっちは一人。何ができたって言うんだ!」

 外でピカッと稲妻が走り、バリバリっと破り捨てる轟音が轟いた。

 その途端、徳子の淀んで濁りきった眼はギラギラと俺を射貫く眼に変わった。両眼は吊り上がり、肩でぜえぜえ息をし始めた。般若。般若の顔だ。徳子は言った。

「フ、あたしもあいつの餌食にされたよ」

「ど、どういうことだ?」

「あたしだってね、できることはやったんだ。紀子をあんな風にした仕返しをするつもりでね。一年かけてやっと静馬を捕まえた。そしてこの手紙を持って奴に訴えた。そしたらあいつは」

 ビタビタと雨粒が窓を叩き続けた。ヒューヒューと風がバルコニーを舐めていった。またピカッと明るくなって、バリバリッと雷が落ちた。

「あいつは『じゃあお前にも同じ目に合わせてやる』と言ってあたしのことも犯したんだ。その時、あたしは心を鬼にした。あたしは犯されながら『こいつを生きながらに殺してやる。こいつの人生をあたしのものにしてやる』ってねえ。フッフッフ。この手紙さえあれば静馬を生かすも殺すもあたし次第だよ。ヘッヘッヘ。これをネタにあたしはずーっとあいつを強請ってきたのさあ!」

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