第32話 本田徳子-1

 本田徳子は碑文谷に住んでいた。東京都目黒区にある高級住宅街。タワーマンションで二重のセキュリティが施されていた。部屋番号を入力するとしばらくして「はい」と返事があり程なくして自動ドアが開いた。どうやら顔をモニター越しに見られたようだ。通路はすぐ右に折れるよう設計されていた。その通り歩いていくと、急に吹き抜けで円形のホールに出た。天井には一面に照明が灯っていてホールを明るく照らしていた。デザインされたソファとテーブルが左手に見える。正面向かい側にはエレベーターホールがあった。右手には受付カウンターがあった。おっと、そこにはコンシェルジュが座っていた。彼女がこちらを見た。彼女はここの住人ではないことを素早く察知した。想定していなかっただけに反射的に顔を背けた。しかし、ここは堂々としないとかえって怪しまれると思いエレベーターに向かって歩き続けた。コンシェルジュの前を過ぎる時、「こんばんは」と言って彼女が微笑んだ。どきりとしたが会釈だけして通り過ぎた。六基あるエレベータの一つが幸い扉を開けて待っていた。中に入り二十階を押した。きっかり十秒で登り切った。この間、あの婆さんがこのようなマンションに住むことのできる理由を考えた。どのように生計を立てているのだろう。働いているようには思えない。年金暮らしの年齢で何故。財産家なのかもしれない。考えられなくもない。


 三日前、改札口で声を掛けられた。「お前は耕太だね」婆さんはボソボソと言った。このクソ暑いのに黒い和服を着て巾着を持ち、曲がった腰を庇うように杖をついているが眼は恍惚としている。総白髪を小綺麗に結い汗一つ掻いていない。厄介だ。計画には無かった。「お前の母さんのことを知りたければ、いつでもいいから、うちにおいで」と婆さんはまたボソボソと言い小さなメモを渡して寄越したのだった。

 二〇一五室の前まで来た。チャイムを鳴らすと、婆さんはインターフォン越しに「お上がんなさい」と言い、私は扉を開いた。

 意外にも中は和式の設計であった。玄関は土間になっていて一本杉と思われる上がり框。廊下は板の間。その左右には四つの引き戸があった。廊下の一番奥へ案内されると二十畳ほどの和室が俺を迎えた。同時に総ガラス張りの窓から一面の空が見えた。


「天気が良いと富士山が見えるんだよ」

「世間話をする気はない」

「フ、喉乾いたろ」

「何の用だ」

「まあ、いいから、そこにお座んなさい、今お茶出すから」

 婆さんは麦茶を持ってくると、改めて俺の顔をまじまじと見つめた。

「こうやって近くで見ると、まあ、大きくなって」

「わからないな、一体何の真似だ」

「フ、わからないと言いながら、お前は今こうしてここに来てるじゃないか」

「いつまでもふざけるつもりなら帰るまでだ」

「フ、気の強いところは父親譲りか」

 婆さんの出方を待った。話があると言ったのは婆さんだ。婆さんは尚も俺の顔をまじまじと見ていたが、ようやく、

「あなたを呼んだのはね、どうしても伝えなければならないことがあるからなのよ」


「あんたは俺を知っていると言うが、俺はあんたを今まで知らないし、これからも知らないだろう」

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