人魚は海をまだ知らない

青空ラムネ

牢屋~1~

 薄暗い牢屋の中で、ウィルはうずくまって目を閉じていた。

(今日で、何日目だろう)

 もう日付感覚がない。

 貴族の屋敷の地下にあるここは、気まぐれのようにパンと水を持った使用人がやってくるだけで、あとはほぼ誰も入ってこない。

 ずいぶん長く1人でいるせいか、ぼんやりと考え事をすることに慣れていた。

 ……いや、ここに来る前から慣れていたかもしれない。


 ガシャン!!


 不意に大きな音がして、ウィルはぎょっとして勢いよく音がした方向を振り向いた。

 だがすぐに目の前が黒い点で覆われていき、結局すぐにまた目をつぶる。

 いつもの貧血だ。これも慣れっこである。

(何だ、珍しい。何があったんだ?)

 今度はゆっくり目を開けると、去っていく使用人二人が見えた。

 再びガシャンと牢屋の扉が閉じられ、暗闇に戻る。

「来るなら水とかを持ってこいっつうの」

 小さく悪態をつきながら、ウィルは使用人がわざわざ来て何をしていたのかを探ろうとして、暗闇の中を見渡した。ウィルの目は暗闇の中でもはっきり見ることができる。

 そして、はすぐに見つかった。

(……何だこれ)

 ウィルが繋がれている牢屋のすぐ目の前に置かれているのは、ウィルの背丈よりも少し高い、大きな黒い箱であった。

 ちゃぷん。

 耳をすませば、中から液体が揺れたような音が聞こえた。

 巨大な箱、中には液体?謎すぎる。

 ウィルは少し中を覗いてみようと、壁に手をついて立ち上がった。一応ウィルの隣に置いたのだ。恐らく危険物ではない。足元で足枷あしかせの鎖がじゃらりと音を立てた。

 だか。

「っ!」

 また視界がブラックアウトする。さらにおそってくる頭痛、めまい、吐き気。ここまで酷いのはさすがに久しぶりだ。

 ウィルは均衡を失って、思わずその場にずるずると倒れるようにしゃがみこんだ。


「大丈夫?気分悪そうね。顔も真っ青だよ?」


 突然、声がウィルの鼓膜こまくを揺らした。

 鈴を転がすような、子守唄でも歌っているような、心地よい声。

 ウィルはぎくりと体を硬直させた。そして警戒しながらゆっくりと顔を上げる。ここにいるやつが、只者ただものな訳がない。


 ……少女。


 ウィルの目に真っ先に飛び込んで来たのは、とんでもなく美しい顔立ちの少女だった。

 黒い箱の中からひょっこりと顔を出し、へりの上に組んだ腕にあごをちょこんと置いて、にこにこしている。完璧すぎる微笑だ。

「大丈夫?」

 あまりの美しさに、無言のまま固まっているウィルに、少女はもう一度問いかけた。彼女のバラの花びらのようなくちびるから鈴のような声が転がる。さっきの声の主は間違いなく彼女だ。

「……誰、お前」

 ウィルがやっとのことで声を絞り出すと、少女は「んー?」と言いながら片方の腕を立ててその上にあごを置き直した。かがやく金色の、ウェーブがかった美しい髪がするんと白い胸元にこぼれる。ほんの1つの動作だけでこれほどまでに目を奪われようとは。

 ……いや、ちょっと待て。

 箱の中は液体が入っているはずだ。そして彼女は箱の中にいたばず。

 なのに、どうして彼女の髪は乾いてさらさらなんだ?

 髪だけでなく、顔も首も……とにかく濡れているところがひとつもない。

 じっと考え込んでしまったウィルに、少女はちょっと唇を尖らせて言った。

「ねえ、いっこ聞いていい?私が先に質問したのに、なんで答えを聞く前にあなたに質問されてるの?」

 少女の話し方は少しも嫌味いやみな感じではなく、ただ純粋に聞いている、といった風な無邪気な雰囲気をまとっていた。

「え?あぁ…何だっけ、質問」

「私はあなたに、大丈夫?って聞いたんだよ」

「ん……まだちょっとふらつくけど大丈夫」

「そっか。良かった」

 そう言って彼女はふわりと可憐に笑った。少女の美しさが一層いっそう際立って、ウィルは不覚にもどきりとする。

「あ、そういえばあなたも私に何か聞いていなかった?」

「誰?って聞いたんだよ」

「そうだった。私はエラ。まぁ、エラって呼ばれたことは1回もないけどね」

「名前を聞きたかった訳じゃないんだけど。……まぁいっか。じゃあ何て呼ばれてたんだ?」

「んー、おい、とかお前、とか、家畜かちくとかかなぁ」

 ちょっと待て。なんか最後におかしいの混じってないか。

 ウィルはそう言いたいのをぐっと我慢するする。つっこむのは相手の思うツボのようでしゃくだし、何よりまだ会って数分で聞いていい話ではない気がしたからだ。

 家畜。

 どう考えてもいい思い出では無さそうだ。

「あなたは?名前ある?」

 少女が目をキラキラと輝かせながら言った。そんなに俺の名前に期待しないで欲しい、と思いながら、「ウィル」と端的たんてきに答える。

「ウィルかぁ。いい名前だね」

「そりゃどーも」

早速さっそくですが、ウィル。会ってすぐで厚かましいのは重々承知ですが、わたくしエラからお願いがございます」

「は……?」

 急に堅苦しい敬語になったエラに嫌な予感しかしない。

 隠そうともせずに眉をひそめるウィルに構わず、エラは楽しそうに続けた。

「私ね、海が見てみたいの。私が生まれた海を」

 エラは素敵な想像をするように、うっとりと目を閉じた。白い頬にまつ毛が僅かに影を落とした。

 この暗闇でまつ毛の影ができるって、どんなだよ。

 ウィルはそう言いかけたのを、やはりぐぐ、と我慢した。


『私が生まれた海』という言葉。

 液体で満たされた箱。

 全く濡れない体や髪。

 そして何より──あの恐ろしいほどの美貌びぼう


(もしかして……)

 カチリ、とパズルのピースがはまるように、ウィルは自分が感じていた違和感が晴れていくような感覚を覚えた。

「エラ」

「どうしたの?」

「君はひょっとして……、なのか?」

 そう言うと、エラはうれしそうに「ふふっ」と笑った。

「ウィルすごいねっ。なんで分かったの?」

「まぁ……いろいろ合わせて考えたら」

「そっかぁ。うん、当たり。私人魚なんだ。ほら」

 パシャンという音とともに、に、箱の中から魚の尾びれのようなモノがにゅっと顔を出した。

 ただ、魚のそれよりずっと大きく、何か神秘的な雰囲気を持っている。もしかしなくても、それはエラのものなのだろう。

 ただそれは、少し時が経つと、鱗が消えてすうっと人間の足のような形に変化し始めた。

「エラ、その足、」

「ああ、これねー、水がない所だとこうなるの」

 ぱしゃん、とエラは再び足と尾びれの中間の、とりあえず下半身を箱の中に戻す。

「ねぇ、これで分かったでしょ。ちゃんと歩ける。だからウィルの足でまといにはならないし、むしろどこかで役に立てるよ。だからお願い」


 私を一緒に海へ行って。


 エラはこれまでとは打って変わった真剣な表情をしていた。

(笑っていると幼いが、真面目な表情だと大人っぽいんだな)

 ウィルはぼんやりと考えながら、しかししっかりとかぶりを振った。

「無理だな」

「なんでっ……!」

「1つ目」

 ウィルはエラを遮って言う。

「どうやってここから出る?お前はいいかもしれないが、俺は鎖で繋がれている。脱獄するすべがない」

「……」

 何か言いたそうなエラを無視してウィルはなお続ける。

「2つ目。俺は海なんて行ったことがない。だから案内なんて出来ない」

「案内なんてそんなっ……!ただ一緒に、」

「3つ目」

 エラの碧眼を真っ直ぐ見つめ、に、ウィルは静かに述べた。

「俺と行動したりなんかしたら、お前が危ない」

「……?それは、どういう、」

「説明終わり。やめとけ。行くなら1人で行け」

 エラの眉がゆっくり下がった。そして、ざぶんと頭が箱の中に消える。

 諦めたか、とウィルが思ったのも束の間。


 ばしゃあん!


「ッ!?」

「諦めたと思った?残念!私諦めが悪いの!」

 冷たい感覚と、ぽたぽたと髪からしたたる水滴を見て、ウィルは自分が水をかけられたことに気づいた。

「お前ッ……!」

「1つ目!」

 仕返しとばかりにエラはウィルを遮る。

。だから私があげるわ。もし一緒に来てくれるならね」

 こいつ……なぜその事を知っている!?

 それに、私があげるわ、なんて、危険性を分かっているのか!

「2つ目」

 目を見開き凍りつくウィルに、エラは続ける。

「案内なんていらないわ。私はただ一緒に来てくれる人が欲しいだけ。道なんて、誰かに聞けば済むこと。そうでしょ?」

「なんで付き添いがいるんだ?」

「えっ、そ、それは……、ん〜まぁ後々ってことで」

 エラはこほんとひとつ咳払いをして、「3つ目よ」と言った。

「あなたといる危険性なんてほとんどないわ。なぜなら人魚はとっても回復力が強いから。だからね」

 怪訝そうに眉をひそめるウィルに、エラはにっこり微笑みかけた。

「ウィルに少しくらい血を吸われてもへっちゃらだよ?」

 だから、なんでお前がそんなこと知ってるんだ……。

 ウィルは驚きを通り越して、呆れを感じていた。

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