5. 不可解

 やがて、車内の灯りは小さく落とされた。

 時刻は二十時を回り、人々の生活は一日の終わりを迎える準備に取り掛かる。


 まばらに埋まった座席の中には、こくりこくりと舟を漕ぐ乗客の姿が目立ち、それでも眠れない者は魔法でけた小さな明かりを頼りに読書をしたり書き物をしたりと、周囲は穏やかな静寂に満ちていた。


 レオたち四人も揃って眠りの国の客人だ。

 テオは広々した座席いっぱいを使って、猫のように丸くなってすやすや寝息を立てている。

 その向かいで美童は腕を組んで浅い眠りを享受し、通路を挟んだ隣の席でもクラレンスたちが同じような体勢で沈黙していた。


 たたん、たたん……

 たたん、たたん……


 レールの上を滑る列車が奏でる走行音は、まるで心拍音のように一定で心地いい。

 静かな夜行列車の旅は、間も無く終わりに差し掛かる頃である。

 到着予定時刻は二十一時半。需要の少ない直結便は、運行時間もあまり親切ではない。本を見つけるまでに日付を跨いでしまうことはテオも承知の上だろう。


 きちんと夕食を平らげたテオは、「列車の中で眠るのは初めてだから、ちゃんと眠れるかわからないな」と不安を零してたが、横になって十分足らずでくうくうと寝息を立て始めていた。疲れていたのだろう。彼の生まれ持っての眠たげな目元は、彼自身の気弱な性格をより一層印象付けると同時に、日頃から睡眠を摂ることを疎かにしているのがはっきりと見て取れた。


 けれど今は、時たま列車が大きく揺れても目を覚ます気配がないので、相当、深い眠りに囚われているようだ。この調子でしっかりと英気を養えば、十代のパワー漲る少年たちともなれば、深夜の活動も何ら問題はないだろう。


 その時、不意に美童の双眸が開く。まるで初めから起きていたかのように、その瞳には微睡まどろみが一片すらも伺えなかった。警戒心の強い猫が、近付く人間の気配を察して毛を逆立てる仕草にも似ていた。


 僅かに顔を上げ、周囲に視線を走らせる。

 元々神経質気味な性格故、寝具の上以外ではろくに眠ることもできない美童だったが、例によって今も、夢と現実の狭間から離れることが出来ず、夢の国の客になれないまま、突如として神経を逆なでするような妙な不信感に起床を促されたのだ。


 けれど、一見して何か不可思議なことが起こっているでもなく、車内は至って平穏な雰囲気のままだった。……そう、それはもう、不自然なほどに。


 しばらく黙り込んでそうしていたが、突然、「おい」と投げられた声に反応し、そちらを向く。キティだ。薄明りの中、狂気を湛えたような朱色の瞳がぎらりと光って美童を見据えている。


 彼らは無言のうちに互いの心情を読み取った。何かが気になる。そんなことを互いに思っていた。


 二人はそれ以上の言葉を交わすことなく、どちらともなく目を逸らす。

 窓の外を夜の景色が流れてゆく。Lシュタット駅をってすぐに車窓を流れていた様々な形をした屋根の連なりはいつの間にやら姿を消し、緑の濃い木々と、その奥に見渡す限りの大草原が広がっているばかりだ。


 暗い窓に映る自分の表情が険しい。

 銀色の月光に照らされる草原が遠くに見える。

 都会から遠く離れた田舎町の風景が、大空の真下に四肢を投げ出して横たわる様は、背の高い建物や街頭に囲まれた郊外地とはうって変わった、さながら別世界のような印象を受ける。


 最近は本を読んだり、長時間仕事をしていると、以前とは比べ物にならないくらい目が疲れる。美童は今年で二十四になるが、小さな怪我の治りが遅かったり、徹夜が体調に響いたりと、肉体的な衰えを感じ始める頃であった。そうした中で、一時でも都会の喧騒から離れて、地平線がどこまでも続く広大な景色を眺めていると、重だるかった心が、ふっと安らぐのを実感した。


 人込みを避けて、普段は交通機関を利用しない美童だが、たまにはローカル線を乗り継いで気晴らしに旅をするのもいいかもな……と、そんな風に思っていると――


 朧気だった違和感が、鮮烈に彼の思考を貫いた。

 何かがおかしい。何がおかしい?

 車窓の景色。長閑のどかな牧草地を望む静観な風景が、どこかだった。


 野に放たれた羊たちがのんびりと草を食んでいるのが見える。

 草原の所々に点々と散らばった羊たちの群れは、さながら星屑のように地上に瞬いている。

 なんと長閑な風景だろう。どんなに不安で、不満で、自暴自棄を起こしかけたようなささくれ立った心だって、この雄大な高原地帯の前では些末さまつなことに思える。果てのない大きなものの前では、人間はいつまで経ってもちっぽけだ。

 そんな風景を一望していると、彼ら二人だけが感じている不和など、ただの気のせいではないかと思われるが。


 美童はふと、星屑の中の一匹に何気なく意識を集中させた。

 何かがおかしいはずなのだ。その場面に最適な表現方法が思いつかない、そんなもどかしい感覚に胸が急く。魔法使いとしての勘が、じっとりと纏わりつく湿気のように不快な感情を「気のせい」で済ませてくれることはなかった。


 すると不意に、四角い車窓の中を列車のスピードと同じ速さで去ってゆくはずの羊が、視界から消えた。


「!」


 美童はわずかに腰を浮かせて身を乗り出し、窓の外の違和感を探る。いよいよ気のせいでは片付けられなくなってきた。

 次に視界に現れたのは、草原にぽつんと佇む一軒の古びた小屋。その小屋が――


「まただ……」


 美童の双眸がみるみるうちに大きく見開かれる。またしても視界から小屋が消え、再びやってくる先の景色の中にその小屋が佇んでいるのが見える。同じ小屋が等間隔に建てられているのかとも思ったが、何度その小屋を見送っても、必ず同じ形、同じ個所にそれは現れた。


 たちまち、美童の目に映る世界は違和感だらけに感じられた。

 まがい物めいた空間に放り込まれた気分で、身の回りの存在が一気に質量を感じさせない、不透明な不気味さを抱く。


 まるでドールハウスの中に迷い込んだような虚無感とでもいうのだろう。目の前を走る雄大な自然を目の当たりにしても、その広大な緑自体がニセモノに思えてならなかった。


 ドールハウスのような虚無感。

 質量の欠落した空間。

 列車が走るその先に、何度も同じ小屋が現れる。……繰り返される風景。

 そういった違和感を幾度か見送っていると、やがて美童の中に確信を帯びた考えが閃く。


「閉じ込められている……?」


 美童の考えはこうだ。車窓を流れる景色が、大きなパノラマ写真のようになっているのではないか。


 列車の先頭がパノラマ写真の端に辿り着くと、自動的に写真の

 一枚のパノラマ写真を、像の方を内側にして丸く円になるようにして丸め、列車はその円の中をひたすらぐるぐる回っているのだ。

 この景色は、初めと終わりをツギハギして作られている。あの小屋はちょうど空間の継ぎ目にあたるところに立っているので、急に消えたように見えていたのだ。いくつもの小屋が立っているのではない。美童たちの乗る列車が、同じところを何度も何度もぐるぐると周回しているのだ。突然消えた羊も同じこと。


「なんだこれは……」


 美童の胸中に不安がよぎった。――何か、よくないことに直面している。そんな気がしてならなかった。

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