4. SLIGHT FLARE


 火曜になった。真琴はいつもより遅い時間に居酒屋を訪れた。

 普段なら夜営業のオープンとほぼ同時に入店するのだが、この日は一時間ほど過ぎてから自宅を出て、歩いて店に向かった。


 あの日以来、真琴の心は沈んだままだった。そして、すべてに対して気力を失いつつあった。仕事中も家に帰ってからも、何をするにも前向きになれなくなっていた。本当なら今日ここに来るのも、この前のことを思い出すから嫌だった。だが前回、時間が遅くて入店を断られたときに次回は席を取っておいてくれと言って引き下がった経緯があったので、わざわざ電話で断るのも面倒だし、とりあえずはやって来たのだ。


 店は若い客で混んでいた。どうやら近くのイベント会場で誰かのコンサートがあったようだ。よく見ると、そのほとんどが同じデザインのTシャツやリストバンドを身に着けており、足元の荷物入れには、アーティストのロゴをプリントしたトートバッグが重なり合っていた。みなそれぞれに高揚した表情で、おそらくは少し前に終わったばかりのパフォーマンスに対する話題で盛り上がっているようだった。


 真琴はそんな連中をよそにスマホを眺めながら料理をつついた。いつものような食べ方ではなく、ごく普通に、いやむしろおざなりに、ただ口に運んでいるといった感じで、彼女の今の心境がよく表れている食べ方だった。

「――マコっちゃん、今日はあんまし進んでなかね」

 後ろからダイキが声を掛けてきた。空いた皿を両手に持ち、うっすらと額に汗を滲ませている。さっきから厨房とフロアを頻繁に行き来し、大車輪の活躍だ。

「え? ああ、うん」真琴はゆるりと顔を上げた。

「腹ン調子の悪かと?」

「ううん、違うよ」

 真琴は愛想笑いを浮かべた。首を伸ばし、店内を見回して言った。「……忙しそうやね。何か手伝おうか?」

「え、そげなんよかよ」ダイキは目を開いた。「ひょっとして、気ば遣っち注文するんば抑えとう?」

「そんなことないよ。今日はほら――先にちょっと、食べてきたから」

 真琴は嘘をついた。

「そんならよか。あの、あんましお構いしきらんばってん、なんかあればいつも通り言うてね」

「うん、ありがと。頑張ってね」

 同業者ゆえの共感を抱き、真琴は立ち去るダイキを見送った。そして箸を持ち直し、さっきより丁寧に料理を解し始めた。


「――ここ、いいですか」

 左肩の後ろあたりで声がして、真琴は振り返った。

 以前ダイキが『萩原さん』と呼んでいたあの男性が、ごく微かな笑みを湛えて真琴を見ていた。

「え? は、えっ――」

 真琴は左隣の席を見た。自分のバッグを置いていたのだ。

「すいません――他は満席みたいで」萩原は言った。「あ、もしかしてお連れがいらっしゃるんですか?」

「い、いえ大丈夫です」

 真琴は慌ててバッグを取り、自分の右側のカウンターに置いた。「ごめんなさい、どうぞ」

 萩原はすいません、と会釈して席に着いた。するとそのタイミングでダイキが右手にお冷やとおしぼり、左手に荷物入れの籠を持ってきて、萩原さんゴメン、今日はこぎゃん感じでと言って申し訳なさそうに眉根を寄せた。萩原は大丈夫だよと笑顔で頷き、とりあえず生ビールと、残っていれば本日の刺身を、なければカツオのたたきでと注文した。

 ダイキが去ったあと、萩原はスーツのジャケットを脱いで丁寧に裏返しにたたみ、荷物入れに置いたビジネスバッグの上に被せた。そしておしぼりでこれまた入念に手を拭くと、ぐるっと店内を見渡してから真琴を見て言った。

「平日なのに大盛況ですね……ライヴか何かあったのかな。マリンメッセで」

「そうみたいですね」

「すいませんでした。席、けてもらって」

「とんでもない。混みあってるときに席を二つも使うあたしが悪いんです」

 真琴は顔の前で手を振り、ぺこりと頭を下げた。

 萩原は首を振った。「いつもより遅くなったから、もういてるかなと思ったんやけど」

「残業ですか?」

 真琴は訊いて、心の中で自分に驚いた。なんでそんな言葉がすらっと出てきたんだろうと思った。

「ええ、まあ」

 そんな真琴の心の内など知る由もなく、萩原は柔らかな表情を変えず、それでいてあくまで素っ気なく答えた。真琴はそうだろうな、あたりまえじゃないかと思った。

 そこへダイキがビールと刺身を運んできた。刺身はイサキ、カツオ、ヤリイカなどが盛られていた。イサキの刺身は食べたことがないと言う萩原に、真琴はポン酢で食べるのも美味しいですよと教えた。すると萩原はダイキを呼び、ポン酢を注文した。ダイキはすぐに持ってきて、マコっちゃんナイスアシストと言って笑った。


 ポン酢に浸けた切り身を一つ食べて、萩原はうんうんと頷きながら親指を立てた。

「美味しいです」

 真琴は控えめに笑って頬杖を突いた。「余ったら漬けにしてもいいし、塩焼きやソテーにしてもシンプルな味が楽しめますよ。もちろん煮物にも向いてます。和風だけじゃなくて、洋風のアクアパッツァとかもね」

「詳しいんですね」と萩原は言って真琴を見つめ、ビールを飲んだ。

「……まぁ……一応、それを生業なりわいにしてるので」

「料理人?」

「……ええ、まあ、一応」真琴は俯いた。

「なるほど。それでここに、定期的に来て研究されてるんだ」

「えっ?」

 驚いて顔を上げた真琴に、萩原は穏やかに微笑んだ。「以前お見掛けしましたから。そこの席で、いろいろとたくさん注文して食べておられるのを」

「あ、はぁ……そうです」

 この人にも見られていたんだなと思った。端っことは言え、店の真ん中を走るカウンターなんかでやっていたら、周りの目を引くのも当たり前だ。

「分析しておられる感じだった」萩原は肩をすくめた。「料理を、結構その――大胆に崩して」

「……ええ、そうですね」真琴は苦笑いした。「つい、夢中になっちゃって」

「お仕事熱心というわけだ」

 僅かだったが、萩原の声に棘が生まれた。

「え、そんな――」

 違いますか? と萩原は首を傾げた。真琴は少し目を細めると、萩原から顔を背けた。今の自分に最も相応しくない表現だと思った。俯いて水の入ったグラスを見つめると、ぽつりと言い捨てた。

「……ただの……職業病です」

「だったら、あれはやめた方がいい」

 萩原はきっぱりと言った。箸を置いてカウンターに両腕を乗せると、顔を上げて拗ねたような眼差しで見つめ返してくる真琴に、些か咎めるような視線を投げかけて続けた。

「まず、まったくもって美味しそうに見えない。ここの料理はどれも絶品なのに、あれでは台無しです。研究のためとはいえ、あまりに酷い。作った人に失礼だ。冒涜と言ってもいいかも知れない」

「そんなつもりじゃ――」

「ご自分の作ったものが同じような扱いをされていたら? 研究熱心ですね、どうぞ思う存分分解してくださいって思いますか?」萩原は容赦がなかった。

「……不快にさせたのなら謝ります」真琴は唇を噛んだ。「ただ、私には私の目的が――」

「ならテイクアウトするかデリバリーでも頼んで、家で一人でやればいい」萩原はにっこりと笑った。「そしたら誰も文句は言いません。ただし残念ながらあなたの心根に変わりはないだろうけど」

 真琴は黙り込んだ。結局こんな思いをするんだと思った。――ひどい。あたしってそんなに悪いことをしたの――?

「失礼しました。美味しい食べ方を教わっておきながら」萩原は頭を下げた。

「いいえ。ご忠告、ありがたく存じます」

 そして二人はカウンターに向かい、各々の料理を食べた。萩原はさらに何品か注文し、酒を飲んだが、もちろん会話は無く、むしろ両者の間には不穏な空気が流れていた。


 しばらくすると、真後ろのボックス席にいた男性の客同士が言い争いを始めた。例のライヴ帰りの連中だ。知り合いらしい隣席の何人かがなだめに入り、ダイキも様子を窺いに来たが、口論は収まる気配がなかった。そしてついにつかみ合いの喧嘩が始まり、ダイキは店長に言われて警察を呼んだ。

 警察を待つあいだ、ダイキが当事者たちを店の表に出そうとしてその一人の肩に手を添えた瞬間、その男が大きく腕を振りかぶり、ダイキの顎に一撃を見舞った。ダイキはぐらっと揺れたかと思うと、萩原と真琴の間に倒れ込んできた。

「ダイキくん――!」

 真琴がダイキの身体を抱え、起こそうとしたときだった。殴った男が真琴のブルゾンの襟を引っ張った。真琴はダイキから勢いよく離され、しりもちをつきそうになった。すると萩原が真琴の背中に回って彼女を受け止めた。萩原は立ち上がり、男の腕を掴んでぐいっと自分の前に引き寄せた。

「あ――」

 真琴が声を上げた瞬間、萩原が静かに男に言った。

「……いい加減にした方がいい。一部始終、動画で撮られてるで」

 男は我に返ったのか、ゆっくりと首を回してあたりを見渡した。

 何人もの客が手にしたスマホを男に向けていた。そのうちの一人が「全部撮ってるちゃ」と言った。

 男はだらりと椅子に落ちた。

 やがて警察官が到着し、当事者たちは警察署に連行された。ダイキも同行を求められ、怪我の具合が軽かったので応じた。店内は片付けられ、店長が残った客に謝罪をし、今日の代金はいただきませんと言ったが、ほとんどの客はそんな気遣いは無用だと言って支払いを済ませ、店を後にした。


 真琴も店を出たところで、萩原が声を掛けてきた。

「大丈夫ですか? 怪我、してませんか?」

「ええ」と真琴は頷いて、萩原に手を差し伸べた。「あの、助けてもらったんで」

 萩原は微笑んだ。「帰りはどうやって?」

「え、あの――歩いて」

「送りましょうか? タクシー呼ぶから、回りますよ」

「大丈夫です。ここからそんなに遠くないんで」

「時間、遅いですよ」

「平気です。仕事で慣れてるし」

 そうですか、と萩原は言った。そして小さく肩をすくめ、ちょっと気まずそうな表情を浮かべると言った。

「あの――今日はすいませんでした。不躾なことを言って」

「あ、いえ」

 真琴は頭を振った。そしてあえて神妙な顔を浮かべた。「あたしこそ――お気を悪くさせてたみたいで、ごめんなさい。あなたのおっしゃる通りだと思います。以後、ちゃんと気を付けます」

 萩原は嬉しそうに頷き、そして言った。「萩原と言います。萩原豊」

「朝吹真琴です」

 萩原は深くお辞儀をした。そして身体を起こすと、今度は極めてあどけない笑顔で訊いてきた。「大阪?」

「え?」

「俺、西宮やねんけど」

「ああ――」と真琴も笑顔になった。「大阪市内。上本町うえほんまち

福岡こっちへはいつから?」

「二年前」

「俺は去年の夏。七月」

「ほな、まだ浅いんや」

「うん。せやから、この店は命綱」

 そうなんや、と真琴は笑った。「じゃあ、また」

「うん、また」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 真琴は通りを歩き出した。その後姿を見送りながら、萩原はタクシー配車アプリを開いた。


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