第22話 日本国内地、独立行政法人気水研究所

「やっぱりここは問題だねぇ」

 と呟いたのは共著者のひとりであり、研究所では勇凪の監督者スーパーバイザーである井戸田いとだ准教授であった。勇凪が雑誌に投稿し、「添削の必要あり」として戻ってきた論文と三人の査読者からのコメントを見直していたところだ。

「はぁ」

 しかしそれでゴーサインを出したのはあんただろうが、などとは勇凪は言わなかった。


 研究所の井戸田の部屋は勇凪の居室の上階であり、特任研究員といういわば臨時職員の勇凪とは違い、ひとり用の居室である。しかし壁は窓とドア以外の二方が本棚で埋まり、窓とドアも辛うじて開く程度の空間しかなく、床には書類や書籍、そして何が入っているのかもわからぬ段ボール箱が散乱している状態であれば、複数人で使っている勇凪の部屋の個人スペースよりも足の踏み場が少ないように見えた。

「実際のところ、漂流ブイの直接的な測定データを使っていないから発電効率の低下の原因をただちに海面上昇に繋げてしまうのはかなり推測な感がある、っていうのは査読者の言う通りだと思うよ」

 井戸田は見た目は年齢より若く見えるにも関わらず、髪はほとんどが白髪だ。声は若いのに喋り方はどこか定年後の老人のような色合いがあり、語り方は静かで、しかし勇凪はどこか圧力を感じた。勇凪と違い、彼は定年雇用の職員だ。定年雇用かそうでないかというのも、日本ではひとつの研究者としての能力の指標であるといえるかもしれない。よほど時節に恵まれていない限りは彼にも雇われの研究員だった期間があるはずだが、どのようだったのだろうか。

 議論している内容とまったく関係のないことを考えている己に気づき、勇凪は心の中で深呼吸をして気持ちを切り替えた。


 学生や部下の研究員の研究成果を横取りする教授だとかの話は聞いたことはあるが、たいていは創作で、現実にそういった話は聞いたことがない。あるいは勇凪のように理学系の研究室ではなく、工学系やほかの研究分野ならありえるのかもしれない。他分野のことはわからないが、少なくとも勇凪の知る限りでは、他人の研究成果を横取りするような人間はいなかった。改竄だとか捏造にも手を染めることはない。彼らはあくまで研究に真摯で——だからこそ厄介なのだ。一度目標と設定したとなれば生半可な結果では許されない。

 勇凪の投稿した論文は、日本太平洋側の波力発電と風力発電の発電効率に関するものだ。実際の発電所の発電量と、衛星センサーによる大気・海洋の測定値から推定した発電予想量を比較している。それらはおおむね一致しているが、いくつかの地域に例外がある、という内容だ。二百年前の大規模気候変動によって、電力の供給には問題が起きた。以来、安定電力供給は重要な課題であり、主要な発電方式である波力と風力について日本での発電効率と今後の予想、および今後の建設課題について解析した、という建前になっている。

 建前になっている、というのは論文のイントロダクションでそのように書いたということだ。つまり、この研究はとりあえず手元に計算できそうなデータがあったから使ってみたというだけの研究ではありませんよ、ということだ。ちゃんと目的があって、それを果たした暁には世の中に役立ちますよ、ということだ。

 建前は建前だ。実際のところ、勇凪がこの論文を通してやりたいことは、電力の安定化などではなかった。衛星センサーから推定した計算値と実測値の差についてだ。例外的に発電予想値が、特に波力について大きくずれていた場所は勇凪がよく知っている場所だった。


 ガンジス島。


 二百年前に出現した、新島と呼ばれる種類の島だった。

 そしてその発電効率の低下原因が、ガンジス島周辺の海面高度の上昇によるものである、と勇凪は論文の中で推測していた。


「現時点では、査読者が指摘している三つの点が痛いね。ひとつめ、発電効率の低下が環境的な要因なのか発電装置そのものの原因なのかどうかわからない。ふたつめ、列島近海やその他の地域の漂流ブイでは海面高度の変化が観測されていない。みっつめ、本当に海面高度が上昇していたとして、それを軌道エレベーター建設に関連づけるのは無理がある」

 ひとつめの指摘についてはその通りだ。論文の中で勇凪は、波力発電の効率低下を、本来予定していた海面高度より高くなってしまったため起きたのだろう、と書いた。だがそれはあくまで推測の域を出ない。

 ふたつめについてもその通りで、海面高度を測定する漂流ブイという観測装置はあるのだが、残念ながらオングル島近海には存在しない。オングル諸島よりずっと北西にある日本列島の近海域にはあるのだが、そちらでは海面高度の大きな変化は確認されていない。

 この原因は、オングル島の環境・地形的な要因が影響しているのではないか、と勇凪は推定している。たとえばたったいま、宇宙空間から地球に向けて、現在の海水の十分の一の量の水が突如として入って来たとする。そうしたら世界の海のどこもかしこもが、その十分の一に相当するだけ高くなるかというと、そうはならない。海流や風、塩分や水温といったさまざまな要因によって、海水面の高さは決定されるからだ。

 海水面が上昇する原因はそれだけではない。海面の高さが変化するとき、それが意味するところは二種類だ。すなわち、海の高さが上がったか、陸地が下がったかだ。そして勇凪は、オングル島の海水面低下の原因は後者だと考えている。

「それはどうしてだっけ?」

「削岩と地下水汲み上げです」

 巨大な剣がオングルの大地を抉っている。

 オングル諸島のうちのひとつの島では、三十年ほど前から軌道エレベータの基部建設工事が行われていた。超大規模な国家事業である。


 幼い頃に見た軌道エレベータは今でも思い出せる。当時学校で習った話では、二十年後——つまりちょうど今頃建設工事が完了している予定だったが、十年ほどまえに工事が滞っていて数年工期が延びると言う話を聞いた覚えがある。つまり、あと数年で完成するのだ。

 軌道エレベーターそのものは島にとっては大きな負荷ではない。なぜなら、エレベータそのものは浮いているからだ。だがエレベータに乗るための基部は陸上もしくは海上に建設される。オングルの基部は、安定性を求めて陸上に建設を求めた。そのために、多量の土砂をくり抜き、地下水を汲み上げた。不安定になった地形は、容易に地盤沈下を引き起こす。前世紀の話ではあるが、たとえばマニラの首都圏南東部では、地下水の過剰な組み上げによって年間一センチメートル以上の地盤沈下していた地域もあった。

 局所的なもので済めば良いが、一箇所の地盤沈下が連動してオングル諸島全体に影響してくる可能性を勇凪は危惧していた。オングルは海抜高度がほとんど海水面と変わらないような島だ。少し海水面が上がっただけで、島全体が水没してしまうだろう。 


「うーん」

 ありえない、とは井戸田は言わなかった。だが表情は渋い。

 勇凪は三十路手前だ。世間一般で見れば、壮年期といえる年齢だろう。相応の役職に就き、活躍しているのが妥当だ。

 だが研究者としては、むしろ若い部類に属する。もちろん若くして結果をなす研究者もいるが、勇凪には国家事業を敵に回すだけの実績があるわけではない。

「ブレイクスルーというのはなかなかありえない。基礎研究の下積みがあって、初めて結果が出てくるものだ」

 それは大学院生時代の指導教官だった教授の言葉だ。


 映画かドラマか何かだったか、世間の研究の流れに関わらず、自分の世界に閉じこもりきりで画期的な研究を行う研究者というのを見たことがある。だが、それはありえない——いや、可能性が低い、というべきか。なぜなら、他の研究者の研究をまったく知らずに自分の思いついたことを研究しても、それがまったく新しいことなのかどうかわからないし、途方もなく長い道のりがかかるからだ。古い研究者の言葉に「自分の研究結果は巨人の肩に乗った結果だ」というものがあるが、これは他の論文の引用することの有用性を示したようなもので、ほかの研究者が積み重なった上に新たに自分の研究をほんのわずかでも突き立てることで、新たな研究結果が導かれるものなのだ。研究によって導き出される解というのは、いわば塀の向こうの世界であり、少しずつ少しずつ積み重ねた結果として、それまで見えなかった世界が突如として見えてくることもあるのだ。


「いや、しかし、内容は悪くないんだ。解析そのものには否定的なコメントはないし。とにかく査読者のコメントに沿ってリバイスを頑張ってみよう。細かい部分はおいおい相談としてね」

 と井戸田はひとまず後押ししてくれた。


 二度のリバイスを経て、海外の高いインパクト・ファクターを持つ雑誌に勇凪の論文が掲載されたのは、その九ヶ月後のことだった。

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