第3話 日本国特区ガンジス諸島、海上

 緊急救命装置と人工呼吸によって、海の上に浮かんでいた少女が鼓動と呼吸を取り戻してから、およそ十五分後。白い飛沫を巻き上げながらやって来た船は、急いでいるぶんだけ海面を走行しているというよりは飛んでいるかのように見えた。母が連絡してくれた海上保安隊の水中翼船がようやく到着したのだ。

 保安隊員たちは少女を水中翼船に運び込んだあと、勇凪にも船に乗るようにと言った。第一発見者ということで、話をしなければならないのだという。

 保安隊の水中翼船は、水の抵抗を抑えるために船体の下部に突き出た水中翼を持っており、水面から船体を浮かせている。そのため、通常の船より積載できる量は少ないものの、自動車程度の速度で海上を疾走できる。初めて間近で見る海上保安隊の高速船に心が躍った勇凪は、一も二もなく船に飛び乗った。


「心臓マッサージは、きみのヨットの緊急救命装置を使ったんだね?」

 身体が真っ黒に焼けた大柄な隊員が、船の中で質問をしてきた。メモを残そうとしているからには、調書が必要なのか。あるいは少女の治療に必要なのかもしれない。勇凪は正直に頷いた。

「そう、的確な処置だったね。きみのお母さんの通報だと、呼吸も止まっていたということだったけど、人工呼吸もしたの?」

 続けて問われて、勇凪は己の顔が熱くなったのを自覚した。

 人工呼吸というのは、どうしても唇と唇をくっつける必要があり、要は、キスだ。学校で人工呼吸の方法は習うわけだが、そのときの相手はゴム製の人形だった。そんな人形相手でも、実技のときは囃し立てられるわけで、勇凪も友人相手にからかったものだ。今回は人形ではない。可愛い女の子相手だった。だがあのときは、必死だった。だから、余計なことを考えずに、学校で教えられた通りのことをしたのだ。

「いや、偉いよ。的確な処置だったね。おかげであの子も助かったんだから、うん、とても偉い」

 保安隊員の言葉には取り繕うような色が無いではなかったが、正直な気持ちが込められているということもわかった。人助けだ。善いことをしたのだ。そう己に言い聞かせ、勇凪は恥ずかしさを抑え込もうとした。

「きみのおかげで、ひとりの女の子の命が助かったんだ。今、手当をしている船員から連絡があったんだけど」と保安隊員は己の耳に嵌め込まれたレシーバーを指差す。「きみの応急手当のおかげで、女の子は無事だよ。もし君が見つけていなかったら、死んじゃっていたかもしれない。ありがとう」

 知らない女の子だ、ただ死ななくてよかった以上の感想はない。それでも、褒められればそれだけで嬉しい。相手がかっこいい海上保安隊員ならなおさらだ。手をぱたぱたさせ、ふふ、と思わずに笑みが漏れてしまうのだ。


「あ、もうちょっと訊いてもいいかな? どういうふうにあの子を発見したのか、とかを纏めたいので、そのときの話を聞きたいんだけど」

 手招きしながら告げられて、勇凪は隊員の向かいに座って話をした。朝、ヨットでいつも通り登校したこと。自分が学校で誰よりもヨットの扱いが上手いこと。学校ではサッカーが流行っていること。ヨットで走っていたら、海鳥が海面に集まって鳴いているのを見つけたこと。

「ふむん、海鳥が集まっていた……と。それで不思議に思って近づいたら、女の子がいた、と。そのあと、きみがお母さんに電話をした記録があるね?」

 正確にいえば、その前に一度、勇凪は少女を見捨てて学校へと舵を向けたのだが、いちいちそんなことを話す必要も無いな、と判断し、勇凪は頷いた。「どうすれば善いかわからなかったから」

「なるほどね。それで、呼吸も心臓も止まっていたから、ヨットの救急救命装置を作動させた、と………。こういうかんじで、間違い無いかな?」


 救命隊員は一枚の書類を見せてくれた。話をしながら救命隊員が手持ちのボードで書き付けていたのは、どうやら状況を纏めた報告書類のようなものらしい。この場でさらさらと書いたにしては、綺麗な書体だ。字が汚いと言われることの多いので、羨ましい。文書には、勇凪の視点で、今日という日にあの少女を見つけるまで何があったのか、勇凪がどのように判断し、どのように行動したのかが書かれており、最後は『彼女の一刻も早い回復を祈ります』という殊勝な文で締めくくられている。

「だいたい」

 そう頷いたことで、勇凪は自由な立場になった。病院に到着するまでの間は僅かな時間だったが、船の中を見て回ることができた。しかも、海上保安庁隊員の直々の案内つきで、だ。写真も撮ってもらった。すごい、これは確実に自慢できるぞ。


 いろいろと質問もさせてもらった。船の性能や、海上保安庁隊員の活動について。海賊やその対処について。隊員が海上保安庁に就職してから起きた最も大きな事件について。どうすれば海上保安庁の隊員になれるかについて。

 少女の状態やどういう事故にあったのか、までは聞かなかった。気にならなかったわけではない。そうではないが、女の子に興味を示すというのが、あまりかっこいいことではない気がしたのだ。だから聞けなかった。


 港に停泊したあと、堤防に待機していた救急車に乗って、ガンジス島唯一の総合病院に移動した。救急車に乗せられたのは単に付き添いのためだと思っていたが、医師から検査を受けるように言われてしまった。高圧電流が流れる緊急救命装置を使ったからなのだという。検査内容は細長い卵のような形の装置に入ってしばらく待つだけという簡単なものではあったものの、待ち時間も含めるとけっこうな時間がかかり、終わる頃にはもう昼になっていた。

(今日は学校に行けないのかなぁ)

 自分は本来なら無関係な人間なので、病院に拘束されるのは御免だ。だが自分の検査が終わったときに母の未明が病院に来てしまい「あんたも心配でしょうから、その子の無事が確認できるのを待ちましょう」などと腕を掴んで言うのだ。逃げられない。体重差がありすぎる。


 そういうわけで、勇凪は病院一階、緊急外来の前室の長椅子で座って待つことになった。病院の白い壁の片側には、外の波間の風景がディスプレイされている。穏やかな、ただ流れ過ぎているだけの海で、こんなのは自宅の桟橋からも眺められるのだから、退屈だ。無事も何も、応急処置で心臓も動いているし、呼吸もしているのだ。一度動き出せば、そうそう心臓も止まるまい。ならば心配するだけ、杞憂だ。

 そんなふうに構えていた勇凪だったが、やって来た白衣の医者に少女の状態を説明されて、母が何を危惧していたのかを知った。

「命は無事です。意識も戻りました。ですが、意識の混濁と記憶の喪失が現れています」

「それは、原因は……?」

 母が問うたが、勇凪も同じく問いかけたい気分だった。意識の混濁と記憶の喪失? 少女は助かったのではないのか? 高いところから落ちてきたから、避難艇の中で頭を打ったのだろうか?

 だが医者の答えは違った。


「おそらくは呼吸が止まった状態で脳へ酸素が行き渡らなかったのが原因でしょう。彼女が載っていたのは、航宙機に搭載されている個人専用の緊急避難艇で、通常なら中の人間が危機状態に陥った場合には快復させるための機能があるのですが、軌道上からの落下で機能を停止していたようです。まだ目覚めたばかりなので、肉体的な影響についてはまだ完全にはわかりません。リハビリで治るかどうかも……」

「呼吸が止まったから?」

 思わず声をあげてしまった。医者が向き直り、優しい口調で語りかける。

「人間はずっと呼吸とか心臓が止まっていると、脳がおかしくなってしまうんだ。酸素が送れないと、細胞が死んじゃうんだよ。そうすると、心臓がもう一度動き出したあとも、後遺症といって、悪い影響が出てしまう場合があるんだよ。今回の場合は、心臓が止まっていた時間が長過ぎたんだ」

 単語のすべてが理解できたわけではなかった。だが医者の言わんとしていることはわかった。

「おれのせい?」

 医者が驚いたような顔になったが、すぐに穏やかな表情に戻って勇凪の頭を撫でた。

「いいや、違うよ。勇凪くんはよくやった。それどころか、勇凪くんがいなければ、あの子は死んでいたんだ。だからきみはヒーローだ」

 医師はそう言って、勇凪のことを褒めた。母は勇凪のことを抱き締めた。涙が肩にかかった。


 だが勇凪は——勇凪は喜べなかった。なぜなら、一度は少女のことを見捨てて学校へ行こうとしていたからだ。その間に何分も時間が経っていたからだ。その時間がなければ、もっと早く少女を助けられていたはずだからだ。確信があった。もっと早く彼女を助けてあげていれば、後遺症が残らなかっただろう、と。

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