第2話 日本国特区ガンジス諸島、海上

 じっと仰向けで寝ている少女の顔を観察する。年齢は、十歳の勇凪よりはだいぶ幼く見える。六、七歳くらいだろうか。しかし少女の容姿は勇凪の、というよりガンジスの住人とまるきり違っていたので、年齢の予想にはあまり自信がない。

 まず肌が白い。太陽に透かさなくても、青い血管が見えるほどに白い。それは服の下も同じで、やはり白いということを確かめた。髪の色は黒で、それだけは勇凪と同じなのだが、ふわふわした髪は手で触れてみると心地良い。閉じられた瞼を無理矢理に開かせてみれば、瞳は海と同じ碧色だった。目鼻立ちがはっきりしていて、これは異国の人間であろう。


 色を確かめ、瞼を開かせて、最後には叩いてみても、少女は一分も動かず、一言も発さない。意識が無いのは明らかである。

「うーん…………」

 勇凪は唸った。

 たぶんこれは厄介なことなのだ。ここで時間を食っていたら、学校に遅れるだろうし、そうなったら余計に補習を受けなければいけない事態に陥るかもしれない。昼休みさえ潰されて、サッカーができる時間が減ってしまう。

 状況を見る限りでは、この少女は事故に巻き込まれたのだろう。これはたぶん、非常用の脱出装置、避難艇のようなものだ。この辺りでの交通機関といえば泳ぎとヨットと輸送用の大型船のほかに水面効果翼機エクラノプランがある。だがヨットでも、こんな重厚な避難艇なんてあり得ない。大型の輸送船なら、もっとほかの物も落ちているべきだし、この辺りは地面効果で水面すれすれを滑空する水面効果翼機のルートではない。

 ならば突発的な事故なのだろう。ヨットを止めて空を見上げても、空と雲と太陽ばかりしか見えないが、とても遠くから落ちてきたのだ。家を出る前に母が言っていた事故の関係者だろう。少女の乗っていた箱はたぶん、軌道上で事故を起こした旅船から射出された避難艇で、成る程頑丈そうだ。落ちた衝撃で開いたのだろうか。

 しっかりしている避難艇なので、救難信号くらい出しているだろう。ならばここでぷかぷか浮いていれば、そのうち沈むより早く海上保安船が来て助けてくれるだろうから、心配ない。それよりは、サッカーだ。


 そう一度は思って学校に向けて軽快にヨットを飛ばしながら気づいたのは、これは非常に話題性があることに違いない、ということだった。

「だって、事件だ」

 ガンジス諸島は日本領に属するものの、本州などの内地から遠く離れており、世俗を賑わすような事件からは物理的にも情報的にも隔絶されている。であるからには、心躍る事件など滅多に起きないのだが、万が一の事態があれば、島中がその話題で持ちきりになる。そうした話題を自分で提供できるとなれば、きっと友だちからも賞賛の目で見られるに違いない。改めて何かしなければいけない。何かを。ヨットを百八十度回頭させたのは、そうしたわくわくした気持ちからだった。


 最初に見つけたときとは変わらず、少女を乗せた柩のような緊急艇は海の上に浮かんでいた。一度は解散したはずの海鳥がまた集まってきていたので、見つけるのは簡単だった。

(いちおう、誰かに連絡しておいたほうが良いのかな)

 海で事件が起きた場合は、ガンジス本島の海上保安隊に連絡するように学校では教えられている。だがその連絡に躊躇してしまう。というのは、緊急時に連絡しろと言われているのだが、この状況が緊急なのかどうか判断できなかったからだ。緊急時でもないのに連絡したら、怒られるかもしれない。それは、嬉しくないし、楽しくない。


 ヨットの台座下部にある電話を起動させ、迷った挙句に勇凪がかけたのは、家の番号であり、頼ったのは母であった。

「海で変な女の子拾っちゃったんだけど………どうすればいいの?」

『何の子? なに、何の話? 数の子?』と電話に出た母は、面倒臭そうに応じた。『あんた、もうちょっと要領良く喋りなさいな』

「えっと、海の上に女の子乗せた箱みたいのが浮いてた。箱っていうか、ちっちゃい船みたいなやつで、たぶん今日の朝のニュースでやってた事故で落ちてきたのだやつだと思う。たぶん」

『事故って……衛星軌道上の?』母の声は急に真剣味を帯びたものになった。『避難艇に乗って海に落ちてきたのね。その子、怪我はしてない?』

「してないよ、たぶん」

『そう、良かった。ちょっとその子と代わってくれる?』

「えっと……」ヨットの隣の小舟の中の少女を一瞥する。最初に見つけたときと変わらず、微動だにしないで目を瞑ったままだ。「寝てる。起きない」

『寝てるって、起こしてあげてよ』

「ぜんぜん起きないよ。何しても」

『何してもって、ちょっと待って……意識がないんじゃないの? 呼吸は?』

 急かした声で言われて、勇凪は小舟に飛び移って初めて少女の呼吸を確かめた。鼻の先に出した手に、空気の動きは感じられなかった。

「してない」

『馬鹿!』


 母の怒声が響いたことで、勇凪は一気にパニックに陥った。呼吸が止まっている。呼吸が止まったら、死ぬ。死んでしまうのだ。いま、目の前のこの少女は、勇凪の目の前ので死につつあるのだ。


『ああ、くそう、違った、混乱させては駄目ね、馬鹿じゃない、ええと、心臓は?』

 耳を胸に当てても、少女の身体は何の反応も返さない。

「う、動いてない………たぶん、動いてない。ぜんぜん………」

『勇凪、そっちの座標は、今海上保安隊に連絡したから、そのうち到着すると思う。でも待っていられない。救命装置に入れて。使い方はわかるでしょ?』

 少女の乗っていた柩から、己のヨットへと跳んで戻る。ヨットの中央部には座席がある。子どもはみんな立ち乗りで、それは座って乗るより立って乗ったほうがかっこいいからだ。それでもヨットに座席がついているのは、この席の本当の機能が緊急救命装置だからだ。座席についている目盛りを「開く」に合わせると、シートの部分が開き、中に子どもなら入れる程度の空間が現れる。少女を柩から引き摺り、座席の中の空間、緊急救命装置の中に入れる。蓋を閉める。子どもが使う場合は、これで良かったはずだ。座席の中で、意識のないはずの少女が動くような音がする。たぶん電気ショックだとかで、少女の身体を無理矢理快復させているのだろう。あと心臓マッサージと呼吸器。


 音がしなくなったので、緊急救命装置の蓋を開く。胸に耳を当ててみると、心臓は動いていた。だが呼吸は止まったままだ。

 母親の指示を仰ごうとして電話に近づくが、接続が切れている。繋がらない。

 どうやら緊急救命装置に電気を使いすぎて、バッテリーが上がってしまったようだ。止まっているときでも、降り注ぐ太陽光による太陽光発電と海水温と気温による温度差発電でボートは常に充電をしている。電話程度の充電ならすぐに溜まるはずだが、それなのに電話が使えないのは、たぶん緊急救命装置に優先的に電気を貯めているためだ。設定を変えれば電話に多少の電気を流すくらいはできるのだろうが、その設定の変更方法がわからない。これは、駄目だ。

 もう一度少女の胸に耳を当てる。心臓は、動いている。それは、わかっているのだ。ああ、わかっている。心臓は大事で、でも呼吸も大事だということはわかっている。知っている。そのときの対処方法も。


 小さな鼻を抑えて、顎に指で上げ、口付けをする。息を送る。小さな胸が上下する。だがそれだけだ。自発的な呼吸がない。二度、三度。それでようやく、少女は水を吐き、咳き込み始めた。

 薄らと海と同じ色の瞳が覗く。

「あ………」

 か細い声が、血の気の薄い唇の狭間から漏れ出したとき、勇凪の目からはぼたぼたと涙が流れた。涙の粒は少女の顔に落ちる。良かった。生きていた。死ななかった。死なせないで済んだ。

「大丈夫?」

 少女は勇凪の声に反応して瞳を瞬かせ、しかしすぐに瞼を閉じてしまった。

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