第三十五話 クロル・ララルイ

 僕の名前は、春の訪れを告げる風にちなんで付けられた。


 遠く離れた海から、温かく湿った空気を運び、山からの吹き下ろしを柔らかく押し返す風だ。


 僕の故郷ではその風の事を『クロル・ララルイ春の贈り物』と呼ぶ。




 故郷の冬は厳しい。乾いた強い風がポンチョと砂埃を巻き上げる。高い山から吹き下ろす突風は、時折り山頂付近の風花(粉雪)を運んで来る。


 良く晴れた寒い朝に、白い雪の結晶がキラキラと舞う光景は、とても綺麗だった。


 強い風が吹くと、獣の足を持たない僕は、煽られてフラフラと飛ばされそうになる。


 そんな時母さんはよく、僕を自分のポンチョの中に入れてくれた。長い尻尾を僕の身体に沿わせて、先っぽでポンポンとお尻を叩く。冷たくなった頰を、両手で温めてくれる。


 ふわふわの尻尾がくすぐったくて、クスクスと笑いながら母さんの腰にしがみついた。



 あまりに強い風が吹くので、冬の間は外に出られない日が多い。行商人も通わず、畑仕事もままならない。故郷の村は冬になると、風に閉ざされる。


 父さんは狩人だったので、動物たちが巣穴に引きこもってしまうと仕事がなくなる。冬の間は小さな家具を作っていた。


 母さんは、織り機で絨毯を織る。ピンと張られた縦糸に、何色もの横糸を使って複雑な模様を織り込んでいく。


 トントンと横糸を叩いて、カシャンと縦糸を切り替える。


 トントン、カシャンという織り機の音、シュッシュという、ナイフで木を削る音。暖炉の炎がパチパチとはぜて、ヒューヒューと吹き荒れる風が、カタカタと窓を揺らす。


 僕は暖炉の前で寝転がって、木の切れ端で木彫りの動物を作ったり、色とりどりの糸で小さな飾りを作ったりした。



 今はもう、夢の中でしか聞く事が出来ない音が、甘くにがく耳をくすぐる。僕のよこしまな耳なしの耳は、大した性能を持っていないくせに――。


 優しい音を……いつまでたっても忘れてくれない。


 


 あの日……。僕が耳なしの船に乗せられた日。


 父さんと母さんは、ポンチョを脱ぎ捨て獣の姿となって、どこまでも船を追いかけて来た。母さんが倒れても……それでも父さんは諦めなかった。


 高度を上げた船を追って、血だらけの脚で岩山を駆け登り、空に向かって大きく咆哮を上げた父さんの姿は、強く、雄々しく、そして……恐ろしいくらい美しかった。


 僕もいつかはあの美しい獣になれる時が来ると、信じていた日々は終わりを告げた。




 無理やり両親から引き離されて、僕は地球へと連れ戻された。僕を待っていたのは、本当の家族ではなくプロジェクトだった。


 世界規模で義務付けられた、精子と卵子登録システムから、最適な組み合わせを選び、優秀な受精卵としてこの世に生を受けた子供たち。


 僕はそんな子供たちの、ひとりだったらしい。


 特別なカリキュラムをこなし、研究者や芸術家、スポーツ選手として育てられる。


 何年も行方不明だった僕が連れ帰られたのは、本当の家族がずっと諦めずに探してくれていたとか、そんな理由じゃなかったんだ。


 たまたまパスティア・ラカーナを訪れた研究者が、僕を見かけて、休暇のついでに連れ帰っただけだ。


 どうして放って置いてくれなかったんだよ! 未開の地で教育もされずに育った僕が、不幸だとでも思ったのか?


 ああでも……初等教育の失敗例として、貴重なデータにはなったみたいだ。万々歳ばんばんざいだね!!


 初等教育には失敗したけれど、厳選された遺伝子は優秀だったらしい。地球の言葉を思い出した僕は、通信衛星のシステムを学んだ。遠く離れた故郷の様子を、少しでも詳しく知りたかった。


 いつか、パスティア・ラカーナに帰れる日を目標にして、少しずつ貢献ポイントを貯めた。プロジェクトの子供たちは、成果を上げなければ、地球から出る事は出来なかったからだ。


 僕の渡航がようやく認められたのは、パスティア・ラカーナを離れてから、八年が過ぎた頃。お土産を山ほど抱えてパスティア・ラカーナ行きの船に乗った。



 ずいぶんと遅くなってしまったけれど、やっと戻って来られた! 父さんと母さんは元気だろうか? 今でも僕を『クロル』と呼んでくれるだろうか。


 僕は二度と地球へ戻る気はなかった。


 でも、そんな僕を待っていたのは――。


 生き物の気配すらしない、焼け焦げて廃墟となった故郷の村だった。



▽△▽


「僕は話し合いになんて、応じませんでしたよ」


 だってあいつら、悪魔ですから。


 クロルは獰猛に口元を歪める。彼はまだ、業火の中にいる。


「避難の名目でやって来たって、地球人はこの地を植民地にするに決まってる。この美しい星を台無しにしてしまう!」


 この地の人々を、奴隷のように支配して、玩具のように扱う。


「マスターだって、地球の歴史を知っているでしょう? 獣化ウィルスは正しかった。人間は進化するべきではなかった生き物だ」



 俺はひと言も反論出来なかった。クロルの口にした事は、全て俺が一度は考えた事ばかりだった。


 ナナミは黙って考え込んでいる。クルミは、ブルブルと唇を震わせて、嗚咽をこらえている。


「そうして僕がダンマリを決め込んでいたら、奴らは転移装置を使い始めたんです。まだ有機物での実験さえ行われていない、試作品を起動した」


 未完成な試作品の暴走事故……あなた方は、時間を超えて――見苦しい地球人の保身と、僕の身勝手さに巻き込まれてこの地に飛ばされて来たんです。





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