#7.3 善と悪の狭間で

 それは期末テストが始まる一週間前のことだった。

「お前、やる気あんのか!!」

 突然、英語の教師が怒鳴り声をあげた。教師が顔を真っ赤にしながら僕に向かって歩いてきたのを見て、冷や汗がどっと出た。

 勉強に打ち込みすぎて、連日睡眠二時間だったこともあり、意識が朦朧としていたのは確かだった。彼は僕の近くで足を止めると、手にしていた教科書を振りかぶり、僕の隣に座っていた佐賀内の頭を叩いた。

「漫画を読んでる暇があったら、勉強せーや!このドアホが!」

 佐賀内がかけていた眼鏡と一緒に、何かが床の上に落ちた。それは、以前、僕が佐賀内の机の中に入れておいた漫画だった。

「おい、深海。そこに落ちている漫画を破け」

「え?」

 教室の中がシンと静まりかえり、僕の戸惑いの声だけがやけに響いた。

「俺の命令が聞こえんかったか?今ここで、それを破けって言ったんや」

「そんなこと・・・・・・」

 出来ませんと言う隙も与えず、教師は床に落ちた漫画を僕に握らせた。横山が「教師命令だぞ。早く破けよ」と言ったのを機に、クラスメイトが次々に「破け」と騒ぎ始めた。結局、僕は手の中にある漫画をビリビリに引き裂いた。紙が雪のように落ちていく様を、佐賀内は泣きながら見つめていた。



 その日の夜、僕は佐賀内のことが引っかかっていて、勉強どころではなかった。母が寝た後、懐中電灯を片手に自分のスマホを家中探し回った。一時間ほどかけてスマホを見つけ、電源ボタンを押した。次々とクラスLINEの通知が届き、バナーには『誰か警察に通報しろよ』『自殺は良くないよ』といった文字が表示された。

 クラスメイトが騒いでいるのは、二十分ほど前に佐賀内がある動画をクラスLINEに載せたからだった。

『3-Aの皆さん。僕は今日をもって死ぬことにしました。僕がいじめを受けている時、誰も僕を助けてくれなかった。僕はあなた方を呪いながら、この世を去ります。最後に、この動画を見たからといって、絶対に僕を助けようとはしないで下さい。それでは皆さん、さようなら』

 動画を見終えた僕は、財布とスマホをポケットに突っ込み、全速力で学校に向かった。

「佐賀内!!」

 教室の扉を開けた瞬間、ガムテープが顔面に飛んできた。

「助けないでくれって言っただろ!なんでよりによって、お前なんだよ!!」

 佐賀内は教壇の上に立ちながら、再び僕に向かってガムテープを投げつけてきた。

「ごめん。でも、助けて欲しいって言っているように聞こえたから」

 自分でも分かるぐらい声が震えていた。佐賀内は「うるさい!」と叫びながら、さらにガムテープを僕の身体目掛けて投げつけてくる。

「僕のことを見捨てたくせに、今さら助けに来られても迷惑なだけなんだよ!」

 佐賀内が自身の首にロープを掛けようとしたので、慌てて彼の身体にしがみついた。

「迷惑でもいい。僕はお前に生きていて欲しいんだよ」

「うるさい、邪魔するな!」

 佐賀内が僕の顎を思い切り蹴り上げた。僕がもたれかかった衝撃で、いくつかの机が横倒しになった。

「佐賀内、頼む。お前が望むことならなんだってする。だから、死ぬのだけはやめてくれ」

 動画で首つりロープを見た時、死んだ兄の姿を重ねた。もし佐賀内が自殺してしまったら、僕はもう二度と自分を許せなくなる。それだけは、絶対に嫌だった。

「僕が望むことならなんでも?」

 佐賀内はロープを首から外し、教壇に膝をついた。自殺を止めてくれたのかと安堵したのも束の間、彼は僕の顎を掴んで持ち上げると「じゃあ、僕にキスしてよ」と言った。

「同性愛者に偏見がないって言ってたじゃん。それを今ここで証明してみせてよ」

 同性愛者に偏見がないなんて彼に言った覚えはないし、そもそも彼が同性愛者であること自体、初耳だった。

 佐賀内の顔が近づいてきた。恐怖で歯がカタカタと鳴る。逃げだしたい衝動に駆られながら目を強く閉じると、佐賀内が僕の身体を後ろに向かって突き飛ばした。机の角が後頭部に直撃し、僕は意識を失った。僕が再び目を醒ました時、佐賀内の姿は消えていた。



 翌日、例の動画を誰かがTwitterに載せたせいで学校中が大騒ぎになった。

「彼です!全部彼が悪いんです!」

 例の英語教師が僕を職員室へと引きずり込むなり、大勢の前でそう叫んだ。昨日の威圧的な態度とは裏腹に、子供のように泣き喚く彼を見て、僕ははらわたが煮えくり返るほどの怒りを感じた。

「自宅にも帰っていないそうだ。一体どこに行ったんだ?」

「池にでも飛び込んだんじゃないかしら」

「そういえば近くに森がありますよね。あそこで首を吊ってるとか?」

 様々な憶測が飛び交うなか、僕の母親と佐賀内の母親が職員室にやって来た。母は何度も佐賀内の母に頭を下げていたが、佐賀内の母は僕に向かって「この人殺し!」と怒鳴り散らすと、僕の母親を突き飛ばして職員室を出て行った。

 その日、僕と母は軽蔑の視線を浴びながら家に帰った。家に帰ると、母は僕の頬を叩き、両手で顔を伏せながら大声で泣き始めた。居たたまれなくなった僕は、自室に逃げ込み、誰も入れないように内鍵を掛けた。

 現実なんてどうでもいい。僕にはTellmoreがある。そう思い、Tellmoreのアプリを開こうとしたその時、ふと昨日の佐賀内の言葉が頭を過ぎった。

『同性愛者に偏見がないって言ってたじゃん。それを今ここで証明してみせてよ』

「あれ・・・・・・?」

 嫌な予感が全身を駆け抜ける。<グレイ>が転校すると言った数日後、佐賀内が転校してきた。<グレイ>とのやり取りを読み返そうと、Twitterのアプリを開いた。

『君のこと、大好きだったよ。さようなら』

 それは、昨日の晩に<グレイ>から送られてきたメッセージだった。

「ああああああああああああ!!!!」

 僕は机の上に置いていた手鏡を床に叩きつけると、粉々に砕け散るまで踏みつけた。

 僕のせいで、佐賀内が死んだ。僕が殺した。僕のせいで・・・・・・!!

 割れた鏡を手に取り、自分の腕に突き立てた。赤い血が床に垂れるのを見て、僕はさらに自分の腕を深く傷つけ、その写真をTellmoreやTwitterに投稿した。

 今まで大勢の人が僕に助けを求めに来たんだ。痛みを知っている彼らなら、きっと僕のことを理解してくれる。優しい言葉をかけてくれるはず。そう信じていた。だが、投稿には大量の非難が寄せられた。

『気持ち悪い』『最低』『胸糞悪いもの見せんな』『メンヘラ野郎』

 期待を裏切る反応に腹の底から怒りが込みあげ、僕は手当たり次第に部屋の中にある物を破壊した。

 次の日、僕は再び学校に行って頭を下げる羽目になった。SNSに投稿した画像の中に制服が映っていたせいで、学校が特定されてしまったのだ。だが、僕の価値がどれだけ下がろうが、今の僕にはどうでも良かった。むしろ、落ちるところまで落ちてしまいたいと思った。

 純善たる正義も、友情も、この世には存在しない。あるのは、ヘドロみたいに腐ったゴミの山と豚ばかり。校長にひたすら頭を下げ続ける母を横目で見ながら、僕はただ時間が過ぎるのを待っていた。

 校長室を出ると、横山が声をかけてきた。話があるから付いてきて欲しいと言われ、僕は彼の後を付いて行った。彼は階段の途中で振り返り、下の段にいる僕を見た。

「クラスメイトを死に追いやった自責の念に駆られて、階段から飛び降り自殺を図ろうとした。どうよ、これ?最高のシナリオじゃね?」

「は?なに言って・・・・・・」

「死ね」

 横山に強く押され、身体が後ろに傾いた。僕はそのまま階段の踊り場へと転落し、骨折治療のため数週間入院することになった。退院後、僕は「人殺し」と呼ばれるようになった。母親からも愛想を尽かされ、精神的に追い詰められた僕は、自分に関するありとあらゆる物を捨てた。そうしなければ、生きていけなかった。

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