#4.1 ココロの距離

 兄が生きている頃の夢を見た。兄は頭がいいにも関わらず、家ではいつも道化のように明るく振る舞って、母や僕を笑わせてくれた。僕が泣いていたら、泣き止むまでずっとそばにいてくれた。僕が退屈しないように、よく一緒に遊んでくれた。そんな優しい兄が、僕は大好きだった。

「・・・・・・ぎさ、渚!!」

 目を開けると、制服の上に緑色のエプロンを身に着けたハルが立っていた。

「そろそろ起きないと遅刻するよ」

「・・・・・・お前、ハルか?」

「そうだよ。昨日、一緒に寝たのを忘れた?」

「その言い方、語弊があるからやめろ。兄さんはリビングにいるのか?」

「朝早くに学校から呼び出されて出ていったよ」

「そっか」

 時計を見るとすでに七時半を過ぎていた。

「朝食作ったから、準備が出来たら降りてきて」

 ハルが部屋を出て行った後、ベッドから立ち上がろうとすると、床に落ちていた薬瓶に足を滑らせて派手に転んだ。



 リビングの扉を開けると、何やら焦げくさい臭いがした。僕が着席するなり、ハルが真っ黒な何かを乗せた皿を僕の前に置いた。

「じゃーん!こちら、オムライスです」

「新種のオムライスだな」

 オムライスは、もっとこう黄色でふんわりした感じの外見ではなかっただろうかと思いながら、中身を開けると、予想通り、中も真っ黒だった。

「お前、これどうやって作った?」

「ごはんとケチャップをあらかじめ炒めておいて、卵と塩と牛乳を入れて混ぜたものをフライパンに入れて加熱。先ほど炒めたご飯を卵生地の中央横に置いて包みました」

 おかしい。作り方は合っているはずなのに、何が起きたら炭になるのだろう。

「ハル、一口食べる?」

「渚のために作ったんだ。遠慮なく食べて」

 ハルがきらきらした笑顔を僕に向ける。もはや拷問だ。机を叩きたい衝動を抑え、ひとまず両手を合わせて「いただきます」と言った。もう二度と彼をキッチンに立たせてはいけないと固く誓いながら、スプーンで黒い物体を突き刺した。

「それにしても、この家、本当に物が少ないね」

「普通だろ」

「そうだ、今度アルバム見せてよ。渚の子供の頃の写真、見てみたい」

 写真という単語を聞き、嫌な記憶が蘇りそうになった。僕はハルからリビングの時計に目線を移した。

「ハル。悪いけど、先に行って。後でちゃんと追いかけるから」

「あ、ほんとだ。そろそろ出掛けないと遅刻するね。じゃあ、駅で合流しよう」

 ハルは元気よく「行ってきます」と言いながら、家を出て行った。

「子供の頃の写真、か」

 そんなもの、とっくの昔に全部捨てたとは言えなかった。ハルには知られたくないことが山ほどある。この家のこと、学校のこと、自分の醜い部分、過去の汚点。それらを隠し通さなければ、僕はきっと嫌われてしまう。

「隠さないと。何もかも全部」

 心の中にある不安を打ち消そうと、僕は炭と化した物体をゴミ箱へと流し込んだ。



 通勤ラッシュの電車のなか、音楽を聞いていると、隣にいたハルが僕からイヤホンを引き抜いた。

「へえ、渚はこういうのが好きなんだ」

「別に好きとかじゃないから。早くイヤホン返せよ」

 僕が外で音楽を聞くのは、余計な雑音を聞きたくないからだ。

「そうなんだ。僕は好きになれそうだよ、この曲」

 ハルが僕を見てニコッと笑う。彼の中性的な顔立ちは、万人受けする顔だと分かっていたが、そんな彼の隣にいる根暗男は一体何者だという視線を、先ほどからビシバシと感じた。

「あのさ、こういうことは、僕とじゃなくて彼女とやれよ」

「嫌だよ。僕、渚以外の人間に興味ないから」

 周りにいた人たちが驚きと好奇の目で僕らを見る。正面の鏡に映る僕の顔には、帰りたいという四文字がはっきりと刻まれていた。

「頼むから公共の場でそういう発言はやめろ」

「なんで?僕、何かまずいこと言った?」

「そういうの、迷惑なんだよ」

 絶句するハルを見て、言い過ぎたことに気づいた。居たたまれなくなった僕は、電車の扉が開くと同時に、駅の階段を駆け上がった。

「渚、待って。置いていかないで」

「ハル。悪いけど、外では他人のフリをしてくれ」

「どうして?」

「お前だって、僕なんかといるより、他の奴と一緒にいる方が楽しいに決まってる。せっかく自由に動けるようになったんだ。どうせなら楽しい学生生活を送って欲しいんだよ」

 カバンの紐を強く引かれ、ハルと向き合う形になった。真正面から見つめられると、不思議と彼から目を逸らすことが出来なかった。

「勝手に楽しくないなんて決めつけないでよ」

 この分からず屋と言いかけたその時だった。僕らのすぐ近くで、スマホのシャッター音が鳴り響いた。僕は反射的にハルの身体を突き飛ばした。

「わっ・・・・・・!」

 バランスを崩したハルが地面に倒れそうになったが、間一髪で誰かが彼の身体をキャッチした。

「セーフ!あれ、秋草じゃん。おはよう」

「おはよう、高橋君。支えてくれてありがとう」

「どういたしまして」

 ハルと親しそうに話しているのは、かつて僕と同じ写真部に所属していた高橋たかはしけいだった。その場から離れようとすると、またしても中学時代の知り合いとぶつかった。

「きゃっ・・・・・・!」

「ごめん、天音あまね。大丈夫か?」

 地面に座り込んだ彼女に手を差し伸べたが、天音は僕の顔を見た途端、小動物のように怯えた表情を見せたので、僕はさっと自身の手を後ろに引いた。

 頭の中に偽善という二文字が、雨が降るが如く羅列していく。その場にいることに耐えられなくなって、僕は通学路の坂を駆け上がった。

「新しく来た養護教諭の人、噂通り格好良かったね。モデルかと思った」

 教室に入ろうとすると、中からクラスメイトの話声が聞こえてきた。

「深海先生だっけ。長身の爽やかイケメンとか、本当に見ているだけで癒しだよね」

「ねえ、今日のお昼休みに皆で保健室に行こうよ。お弁当誘ったら、一緒に食べてくれそうじゃない?」

「いいねー!行こ行こ!」

 後ろから高橋たちがやって来るのを見て、僕は静かに教室に入り、机の上に突っ伏した。




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