夏思いが咲く

@chauchau

あなたと一緒なら


 異常気象が通常になりだしてどれだけの年月が経過しただろう。

 五月には夏日を計測し、かと思えば別の場所では雪が降る。集中豪雨で一ヶ月の雨量が一日で降りましたと去年は何度聞いたことか。


 とはいえ、

 それでも夏はいつからですか? と聞かれれば七月だと返事をする日本人が多いのではないだろうか。

 夏真っ盛りは八月だろう。残暑厳しいと言われれば九月だろうか。


 四季溢れる日本に生を受けた者として、最も暑く熱い夏にテンションがあがってしまうのは悪いことでは無いはずだ。


 七月。

 夏が始まる。




「しかしまぁ……」


 聞こえてくるのは、キーボードを叩く音と壊れかけのエアコンを出す悲鳴だけ。

 温度調節機能という偉大さを失ったエアコンのおかげで極寒と化したオフィスには、一組の男女が居た。


「昔は良かったわけですよ、だいたい二十日? くらいになれば夏休みが始まるわけですし、そこから一ヶ月。大学の時なんて二ヶ月以上休みがもらえるわけよ」


 キーボードの音を生み出しているのは男性の方。

 きっちりとノリのかかったスーツに身を包んだ彼は、姿勢正しく一切キーボードを見ずにブラインドタッチで仕事に取り組み続けている。


「それがどうだい。いざ社会に出てみれば夏休みなんて存在は都市伝説と化しているじゃないか。いったい全体世の中はどうなってるんだ、まったく」


 一方で、オフィスに居るもう一人、女性の方はといえば会社支給の安物リクライニングチェアに身体を預け、天井を仰ぎ見ながらブツブツと不平を零していた。


「花の二十代がまもなく終わるって言うのに、こんな時間まで可哀想に私は会社に残って残業残業、また残業」


 時折印刷した用紙を取りに行く以外、男性が席を離れることはない。まるで機械のように同じ姿勢をキープしてただパソコンに文字を入力し続けていた。


「この間もらったボーナスだってしょっぱいし、まあ? もらえるだけマシとか言うんだろうけどさ、分かっているけどそれでもさ」


「木下主任」


 タン。

 上書き保存を完了してから、男性は不平を言い続ける女性へと身体ごと向き合う。


「仕事されないのであれば帰られたらどうですか?」


「一人寂しく仕事をする後輩のために残ってあげている先輩に向かってなんとも冷たいこと言うじゃなーい!」


「そのせいで残業代を払うはめになる会社のほうが可哀想かと」


「ちゃんとタイムカードは押しているよーん」


 どや顔で己のタイムカードを見せつけてくる。そんな彼女の態度に、思わずといった具合で男性はため息を零した。


「優くんもさー、そんなに残業ばっかりしてないで偶には早く帰りなさいよ」


「自分は好きでしておりますので」


「早く帰らないと彼女さんも家で寂しい寂しいと泣いているかもよー?」


「今、私の家で待っている人は居ません」


「そうだけど、そういうことじゃなくてさー」


「それと」


 彼は、ふたたび身体ごと女性の方を向く。漫画であれば眼鏡がキランと光るような状況下ではあるが、残念なことに彼は眼鏡ではなかった。


「会社で優くんは止めてください」


「拙僧はすでに退社をした身で候」


「仕事中、ではなく会社で、と言ったのですが」


「揚げ足は嫌いでゴザル」


 彼女が頭の後ろで腕を組み、さらに椅子に背を預ければ、常日頃から自慢だと公言している彼女の豊満な胸がスーツを押しのけて強調される。

 その光景を見た男性が、勢いよく視線をパソコン画面へと戻す。気付いた時には時すでに遅く、横目に見える彼女の顔はそれはそれは悪い顔へと歪んでいる。


「おやおやおやおや、仕事中に人の身体をそんな風に見るのは如何なものでしょうなー?」


「…………」


 返事はキーボードの音。

 省エネ対策でオフィスの明かりはほとんど消され、薄暗い。それでも、彼の頬がうっすら紅く染まっているのを女性は見逃さない。


「話戻すけどさ、最近残業しすぎなのは本当だよ? 課長も心配しているし、無理は駄目だからね?」


「心配をおかけしてしておりますことは、申し訳ありません。ですが、あと一ヶ月だけですので」


「期限が決まっている奴かー……、倒れそうなら止めるよ」


「ありがとうございます」


 大きな伸び一つ。

 凝り固まった身体からパキパキと音が鳴る。


「ん~~ッ! …………頑張りは、なにか訳あり?」


「任せて頂いてる案件を良い結果に導きたいので」


「ほう」


「出世したいですし」


「即物的で分かりやすい」


「あとはまぁ……」


 少しだけ悩んで、


「お盆休みもしっかり欲しいですし」


「去年は結局半分くらい出勤させられてたもんね」


 彼女が自分の机の引き出しから取りだしたのは、コンビニ限定のチョコレート菓子。もしものストックとして大量に備えてあるそれを一つ。彼に向かって放り投げる。


「手で渡してください」


 見事頭に当たったそれを、彼は大切に机に入れる。


「んじゃ、それがしは先に帰るでゴザル、優くんもボチボチにしておくでゴザルよ」


 言うや否や、突風の如き速さで彼女はオフィスをあとにする。

 残された男性は、急に静かになったオフィスで一人仕事を続けていった。



 ※※※



 夏と言えばなんだろうか。

 海、山、BBQに花火や祭り。最近では無人島でのキャンプなんてものまである。結局家でゴロゴロなんてオチもあり得るだろうが、それもまた良いのかもしれない。

 きっと楽しい。

 彼女と一緒なら。


 昼間は猛暑でも夜になれば涼しかった五月とは違う。真夜中になっても吸い込まれる空気にじめっとした湿気と暑さが感じられる夏の夜。


 最後の十字路を左に曲がれば、住み慣れたアパートが見えてくる。

 無意識に自分の部屋へと目がいって、明かりが点いていることにほっとする。


 登る階段は、古さのせいでひどく音がなる。

 防犯に便利ですよと仲介業者が汗を垂らしながら言っていたのはもう何年前のことか。


 ドアノブに手を掛けて、ゆっくりと扉を開く。


「ただいま」


「優くん! お盆休みは温泉に行くでゴザル!」


「夏らしさはいったいどこへ」


 飛び出してきた彼女の豊満な胸に包まれながら、

 それでも良いかなと思ってしまった。

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