第3話 視線



「視線」








「おはようございます」


 CAW (クラウドアンドウインド) がいつも集まる会議室のドアを開けて加賀谷が入ってくる。

 事務所ビル七階の、音楽部門事務所のすぐ隣の部屋。

 先だってのインタビューを行った控えの部屋がそれにあたる。


 メンバーの集まっているその部屋は会議室と銘打ってはいるが、壁一面がはめ殺しの大きな窓で室内は自然光で明るく、床は木目の綺麗なフローリングになっている。窓際には人の背丈ほどの大きな観葉植物の鉢植えが幾つか置かれその瑞々しい緑が彩を添えている。

 明るい日が差し込む窓にはロールスクリーンがついていて、夏の強い日差しを適度に和らげてくれる。その素材は天然の和紙を使い日本の伝統的な模様、麻の葉文様が薄く透かし模様として入ったモダンなデザインになっていた。

 壁は床と同じように木材を使用し、事務所の中の会議室というよりは大きな鏡があればそこはダンスのレッスン室にもなり得るような広い空間だった。その部屋のところどころを区切るパーテーションもロールスクリーンと同じ素材の和紙を使用したパネルで出来ている。その和紙のもつ光の透過具合で部屋の中は適度に明るく落ち着いた空間になっていた。

 部屋の中に置かれているテーブルや椅子、棚など室内にあるものは全て木製のものを使用し、その木の持つ質感や色などが事務所と言う無機質な空間を温かみのあるものに変えている。それら全ては社長の趣向で、ビル全体の内装にも木が使用されテイストは全て統一されていた。

 そんな落ち着きのある空間の、その中央の窓際にはアップライトピアノが置かれている。それは大倉がCAWのために購入したもので、時間があるとメンバーはそのピアノの周りに集まり、何かしら歌っている。常に音楽がいつもそばにあって、自然とメロディがあふれ出す。それがその部屋での日常だった。





「おはよう、今日も暑いな」


 ドアを開けて入ってすぐの壁際にあるドリンクサーバーでよく冷えた麦茶をカップに注ぎながら真野が答える。


「ああ、加賀谷おはよう」


 ソファに座って携帯をいじっていた氷川が顔を上げる。

 そのそばでテーブルの前に立っていた皆川が振り向き声を掛けた。


「あ、加賀谷さん、おはよー」


 皆川は手にしていた沢山の封筒をテーブルの上にそっと置いて再び加賀谷の顔を見た。


「ほんと、スゴイよね、加賀谷さんのファン」


「……え? いきなりどうしたの?」


 皆川が加賀谷からふっと視線を外し、テーブルの上の色とりどりの封筒へその視線を落とす。


「コレ、殆どが加賀谷さん宛てのファンレターなんだよ? しかも中には何通もひとりで出してる人もいるし」


「……ありがたいよね、僕ら、こんなに支えられてるんだ」


 目を細めてその色とりどりの封筒を眺める加賀谷を、ソファに座って見ていた氷川があたたかい眼差しで見つめる。

 そんなふたりを見た真野がすこしだけ顔を曇らせた。


「……でも最近、イベントでも急にお客さんが増えて……今のあの加熱ぶり、ちょっと怖いものがあるよな」


「……だよな。加賀谷さんの事でこの間のイベントの後もファンの子同士でケンカ、あったって言うし……」


 心配そうに皆川がつぶやく。


「キョウ! その話はすんなって言ってんだろ!」


 珍しく氷川が強い口調でたしなめた。


「あっ!? お、俺、そんなつもりじゃ……」


 ふと漏れたその言葉に、思いがけず氷川から強く言われて皆川はすっかり縮こまってしまった。


「……まあ、良くも悪くも人気があるって証拠だよ。俺ら、知られて、売れてナンボだからな」


 ぽんぽんと皆川の肩をたたき、真野が助け舟を出す。


「キョウ、すまないが隣の事務所に行って今日の予定表、貰ってきてくれないか」


「オッケー!」


 真野ににっこり微笑んで皆川は部屋を出ていった。

 そんな皆川を見送ると真野は振り返り氷川を厳しい目で見つめた。


「……悠一、気をつけろ」


「え?」


「お前、加賀谷が絡むと顔に出るぞ」


「はっ!?」


 真野の忠告にふたりは顔を見合わせる。


「ありがとう真野さん、僕も気をつける」


「……すまない、真野さん」


 少しだけ重い空気が漂う中、明るい日差しのような声で皆川が戻ってきた。


「真野さーん、今日の予定表。あ、もちろん悠一や加賀谷さんの分も貰って来たよ」


 その明るい笑顔に救われた三人は、皆川の持ってきた予定表に目を通した。


「今日も予定がみっちり入ってるなぁ……」


「そんなテンション落とすなって。ほら、冷たいもの、持ってきてやるから」


「僕も行くよ」


 皆川と加賀谷が連れ立ってドリンクを取りに行く。


「悠一は麦茶でいい?」


「ああ、頼むわ」


「俺ももう一杯頼む」


 真野が声を掛ける。


「了解真野さん」


 部屋の奥から二人が両手にカップを手にして戻ってきた。加賀谷は氷川に、皆川は真野に、それぞれ手渡す。


「あー美味い! やっぱ冷たいものはいいなぁ」


「悠一、猫舌だもんね」


「そうそう、酷いよな、悠一の猫舌」


 三人で和やかに話している途中、ふと加賀谷が気づいた。


「……そう言えばマネージャーはまだ?」


 何気なく訊ねた加賀谷の声で真野があっ、と声を漏らした。


「しまった。加賀谷が来たら取材場所へ行くから携帯にメールしてくれって言われてたんだ」


 先に来ていた真野に伝言を残して葉月は他の部屋でスタッフと打ち合わせ中との事。

 千葉と薬師丸はスケジュールの都合で直接現場で落ち合う事になっていた。

 真野は鞄から携帯を取り出すとちまちまとメールを打ち始めた。


「……こんなにゆっくりくつろいでる場合じゃなかったんだ」


「まあ、加賀谷、慌てない。予定の時間よりは余裕あるんだし」


 マイペースの氷川が言うと便乗して皆川も頷く。


「俺が淹れたお茶、飲んでからでも遅くないって。……冷やしてあるのをカップに注いだだけだけどな、あはは」


 そんな皆川の屈託のない笑顔に真野もつられて気が緩む。


「まあ、一息ついてから行こうや」


 納得のいかない真面目な加賀谷をよそに、他の三人はティータイムを楽しんだ。


「……でも、ホント、加賀谷のファンはちょっと目に余るものがあるよな。お前に危害が及ばない保障はないんだから十分注意しろよな」


 ふと思い出すように真野がつぶやく。その眼差しはとても真剣なものだった。

 事の重大さを認識して氷川も頷く。

 それは先日の事だった。











「加賀谷さん、あの子、知ってる?」


 その日は雑誌の写真撮影のため、事務所の近くの公園にスタッフとメンバーが集まっていた時の事。

 取材場所や日時などのスケジュールは普通は非公開である。事務所側も厳しく情報を制御しているのにも関わらずどこから情報を得たのか、ひとりの女子高生が植木の影から現場をじっと見つめていた。

 髪は黒髪で長く、前髪はきれいに揃えられている。今時珍しいセーラー服で、夏用の白い半袖である。追っかけひだのスカートは流行のミニ丈ではなく膝下まであり、ソックスも白のハイソックスに黒のローファーを履いていた。

 明らかに今時の高校生の容姿とは離れていたが、とても清楚で背筋も伸びていてどこかのお嬢様と言った感じである。ところが不釣合いに大きな茶色のボストンバッグを両手でしっかり抱えていた。夏休みの最中、制服姿ではあるがどう考えても学校帰りとは言いづらいその異質な雰囲気に自然と目が向く。


「キョウのファンじゃないの?」


 公園の駐車場にはワゴン車が二台停まっており、その間を埋めるようにして大きなビーチパラソルが三つ並んでいる。ワゴン車の一台にはカメラなどの機材やメイク道具などが積まれていて、もう一台はメンバーとスタッフが乗ってきたものだ。

 三つ並んだビーチパラソルの下では大きな扇風機でかろうじて涼をとるメンバーやスタッフが撮影準備に追われている。そのパラソルの下でパイプ椅子に座り、メイクさんの手によってファンデーションを塗られている加賀谷が、同じように隣に座って髪をセットされている皆川に答える。


「違うって、加賀谷さんを見てるって」


「そうかな」


 その会話にメイクスタッフがわって入ってきた。


「あの制服、ここらへんじゃ見ないですね。いかにもお嬢様な……。どこの学校なんでしょうね」


 そこへ公園内で個人ショットの撮影を終えた真野が戻ってきた。


「どうかしたのか?」


 屋外の撮影と言う事もあって、大声で話せないのは当たり前なのだが、必要以上にヒソヒソと小声で話すふたりにいぶかしげに声をかける。


「あの木の陰にいる子、知ってる?」


 皆川が顎をかるくふり、その方向をさす。真野の視線に気づいたのかその少女は木の陰に身を潜めた。


「どこかで見たような……」


 真野は腕を組み首を捻っていたが、はっと気付いたように思い出した。


「あの制服の子、先週のイベントで福岡にいた!」


「福岡!? マジで?」


 皆川が素っ頓狂な声をあげる。


「よく覚えてたね、真野さん」


 加賀谷が感心したように言うと真野は眉をひそめた。


「いや、普通私服だろ? イベントなんかに来るのにさ。制服姿だったから妙に目立ってた気がして……」


 そんな噂をしていた矢先だった。木の陰にいた少女が真っ直ぐ撮影現場へとやってきたのだ。

 そして加賀谷の目の前に立つととんでもない物を突き出した。それは白地にこげ茶の文字でかかれた用紙……婚姻届だった。


「加賀谷さん、一生のお願いです! 私と結婚して下さい!」


 用紙を差し出す手は震え、下を向いている所為せいで長い黒髪が顔を隠している。顔がはっきり見えなくとも黒髪の隙間から覗く耳の先が真っ赤になっていて、それだけで赤面している事は十分伝わってきた。

 その場にいた真野、加賀谷、皆川は突然の出来事で驚きのあまり、ただ目の前の少女を見ているだけだった。

 ちょうどそこへ車に荷物を取りに行っていた葉月が戻ってきた。


「えっ!? あなた何してるの? 誰の許可を得てここに入ってきたんですか!? 撮影の邪魔になるので外へ出て下さい」


 一般人が、ましてやファンの子がタレントに言い寄ってくるのはマネージャーとして阻止しなくてはならない案件である。

 撮影現場という仕事をしている状況で個人的にファンサービスなどしている余裕はない。スケジュールは分刻みで組まれている。

 葉月がマネージャーとして少女と加賀谷との間に割って入った。

 さらにそこへ個人ショットを撮り終えた氷川が戻ってくる。


「あー暑い。何か飲み物……って、どうしたの? 誰、その子?」


「悠一さん、実はこの子勝手に……」


 葉月に最後まで話させずに加賀谷がそれを止める。


「葉月ちゃん、いいから」


 葉月を制すると加賀谷はメイクさんに一言謝ってその場を離れて貰った。

 そのまま椅子から立ち上がり、少女の正面に立つ。


「……君、名前は? 何処から来たの?」


 突然の出来事に一瞬驚きはしたものの、やさしい眼差しで加賀谷は訊ねた。

 そのやさしい声にさっきまで震えていた少女はゆっくりと顔をあげて加賀谷の顔を見詰めた。


「あの、私、ユミと言います。福岡から来ました。……ずっとずっと加賀谷さんが好きでした」


 震えが止まると今度は一転して真剣な眼差しで加賀谷を見詰める。思い詰めた瞳だった。


「気持ちは嬉しいけど……ごめんね、僕には君の気持ちに応えてあげられないんだ」


 その言葉を聞き、悲しみと困惑の表情で見つめ返すと少女は加賀谷の胸に飛びついた。


「どうしてですか!? 私、こんなに加賀谷さんの事が好きなんですよ!? 何故分かってくれないんですか!」


「君、落ち着いて……」


 氷川が横から割って入ろうとしたが、それより先に皆川が割って入った。

 左手で後ろから少女の肩を掴み、ぐいっと引き離すと右手が上がり次の瞬間、ぱん! と乾いた音が辺りに響いた。


「いたっ……!?」


 ユミと名乗った少女は頬を手で押さえ、殴った皆川を睨みつけた。


「何我がまま言ってんだよ! いい加減にしろ!!」


 その怒鳴り声に辺りが騒然とする。数人のスタッフが遠巻きに様子を伺っていた。


「……ちょっと休憩にしませんか」


 見かねた氷川がスタッフにすまなさそうに進言した。


「俺からもお願いします」


 真野が後押しするようにスタッフに申し出る。

 一部始終を見ていた葉月が仕方が無いと言った風に頷いた。


「ちょっと早いですが今から昼休憩、約一時間の休憩に入ります。スタッフの皆さん、よろしくお願いします」


 その声を聞いた加賀谷は少女の肩に手を置き、なだめるように言った。


「……ここじゃなんだから、公園をちょっと歩こうか」


 加賀谷は氷川と真野に目配せしてから少女に目をやると、ゆっくりと歩き出した。


「真野さんあの子、ちょっとヤバイから俺たちも付いていった方がいいんじゃ」


「ああ、ふたりきりにしたらちょっとマズイな、あれは」


「俺も行く!」


「わたしも行きます」


 皆川が叫び、葉月が落ち着いた声で言う。二人が並んで氷川たちの前に立ちはだかる。

 今にもとびかかりそうな勢いの二人を氷川が穏やかな目で見た。


「葉月ちゃんが行くと火に油を注ぎかねないから、ここは俺たちに任せてくれ」


「そういうわけにはいきません」


 凛とした眼差しで葉月は真っすぐに氷川を見つめた。


「私にはタレントを守る義務があります」


「分かってるよ。でも、葉月ちゃんに何かあったら困るから、ここは任せてくれないか」


 氷川はふっと笑うと軽く頭を掻いた。


「嫁入り前の娘さんに怪我でもさせたら……社長にどやされるよ。大の男が何してるってね」


「そりゃそうだな。タレントの顔でも平気で殴るぞ、社長なら……」


 真野が腕を組んでうなる。

 この暑さにも関わらず氷川がぶるりと身体を震わせた。

 ふたりの言葉を聞いて葉月が悔しそうに唇を噛む。


「悠一さん……すみません。力不足で」


「いや、そういう問題じゃないよ」


 うなだれて俯く葉月の肩にそっと手を置く。

 そのまま隣に立っていた皆川にも声を掛ける。


「キョウは動揺してるみんなに落ち着くよう指示してくれ。ムードメーカーのお前ならこの空気、変えられる」


「悠一……」


「そうだな、休憩明けに仕事が上手くはかどる様、空気作っておいてくれないか」


「真野さんまで……」


 氷川は皆川に向かって微笑むと隣に並び背中をバン! と一度叩いた。

 叩かれた反動で半歩前に出ると皆川は渋々頷き、葉月と一緒にスタッフの元へと歩いていく。

 その姿を見届けてから氷川は真野の方を向きなおし、頷きあうと少し距離をおいて加賀谷たちの後をつけ始めた。




 緑が眩しい真夏の公園。

 植え込みには鮮やかな黄色のひまわりが天を仰いで凛と立っている。とても都内にあるとは思えないほどの緑の豊かさと、平日の昼間、静かな時間が流れる。時折吹く爽やかな風が加賀谷の髪を揺らしていた。


「……あそこのベンチに座ろうか」


 濃い緑の葉を茂らせた大きな樹の下にベンチがあり、その葉でベンチを覆うほどの影が出来ている。ずっと下を向いたまま、加賀谷の後ろを付いてきた少女はこくんと小さく頷くと、木の造りのベンチに腰掛ける。

 その隣に少しだけ距離を置いた加賀谷が座った。


「制服姿でどうしたの? 学校、夏休み中だよね?」


 加賀谷がやさしく訊ねる。

 その質問にびくっと肩を震わせ、俯いたまま先ほどの勢いとは正反対に消え入りそうなか細い声で答えた。


「東京で塾の夏期講習を受けるってウソをついて……家を出てきました。……帰るところが無いんです」


 その返答を予想していたのか、加賀谷は落ち着いたまま続けて訊ねた。


「何があったの? 話してごらん?」


 ふと顔を上げて加賀谷の顔を見る。しかしその視線はすぐにまた足元に落とされた。


「私の父が古くから続く華道の家元で、地元の政治家や資産家と繋がりがあって」


 少女は膝の上に置かれたボストンバッグの取っ手を両手で強く握りしめた。


「……まだ私高校生なのに両親に無理やり婚約させられそうになったんです。短大を卒業したら地元の資産家の跡取り息子と結婚しなさい、と」


「君は断ったんだね?」


「もちろんです! 私にはそんな気持ち、全く無かったし……第一私が好きなのは加賀谷さんです!!」


 ベンチから立ち上がり、加賀谷の前に立ちはだかる。

 それでも加賀谷は慌てず、ゆっくりと穏やかな瞳で話し出した。


「ごめん、本当にごめんね。君のその気持ちに僕は答える事が出来ないんだ。僕には好きな人がいる」


「えっ…!? まさか、マネージャーさんですか!?」


 ふっと微笑むと、加賀谷は少女の顔を見つめ、そのまま続けた。


「違うよ、でも……とても大切に思ってる人なんだ。そしてその人も僕を必要としてくれている。大切にしたいんだ……」


 加賀谷の言葉を最後まで聞かずにその少女は再び叫びだした。


「加賀谷さんと結婚して、両親に認めてもらうの! そんな人なんて忘れて! 私、加賀谷さんじゃないと死んじゃうから!!」


 少女は持っていた大きなボストンバッグの中から細長いものを取り出してぴたりと手首に当てた。それはかみそりだった。

 震える右手で左手首の上にかみそりをあてがいながら、加賀谷を睨みつける。

 少し離れた場所から見ていた氷川と真野がふたりの様子がおかしい事に気づいた。


「真野さん、あれ!?」


「ヤバイな、止めないと」


 ふたりが少女の死角から気づかれないように近づく。

 氷川が背後から少女の腕をつかもうと手を伸ばした時、ばきっと乾いた音が辺りに響いた。氷川はうっかり枯れ枝を踏んでしまったのだ。


「あっ!」


「近づかないで!! 死んじゃうから! 加賀谷さんを殺して私も死ぬの!!」


 少女の手首にあったやいばが今度は加賀谷に向けられている。


「うっ……」


 興奮した少女は今にも加賀谷に向かってそのやいばを切りつけようとしている。

 氷川と真野は成す術もなくその場に固まってしまった。

 じわりと氷川の額から汗が流れ落ちる。それでも加賀谷は落ち着いていた。


「僕の目を見て」


 加賀谷は真剣に少女に視線を注ぐ。

 静かに椅子に座りながら少女の顔を見上げ、見つめ続ける。

 ゆるぎない加賀谷の視線に少女は少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。

 次の瞬間ふっと少女の力が抜ける。

 そのタイミングを逃さず、加賀谷は少女の右手を掴んだ。


「あっ!」


「もう、要らないね」


 少女はがっくりと力なくうなだれ、加賀谷の手にかみそりを渡す。


「ユミちゃん、ずっと僕の事、見ててくれていたの?」


「……」


「いつも君みたいに僕を、僕たちを思ってくれている人のために、頑張ってる……頑張れている。いつも支えてくれてありがとう」


 やさしい加賀谷の言葉に、その少女は膝から崩れ落ちその場に座り込んで泣き出した。


「加賀谷さん、ごめんなさい、ごめんなさい……」


「僕のこころの支え、じゃダメかな? 君のことも、ずっとこころで支えたい、応援してくれる君やみんなに歌で、歌って行く事で応えたいんだけど……それじゃダメかな?」


 加賀谷はそっと泣きじゃくる少女の肩に手を置き、やさしく諭すように話しかけた。

 加賀谷の問いかけに少女はそっと顔を上げる。


「……私、加賀谷さんの特別になりたかった。その他大勢のファンのひとりでいるのがイヤだったの」


「その他大勢って……。みんなが僕を、僕たちを支えてくれているお陰で歌って来れたんだよ? その他なんて事、ないよ。ひとりひとり大切な……僕の大切な人たち、だよ」


 加賀谷は真剣に誠実に少女を見つめる。その瞳には一点の曇りも無かった。

 そんな澄んだ加賀谷の瞳を少女は縋るように見つめ返した。


「いつか、加賀谷さんがその大切な人にふられたりしたら、その時は……私にもチャンスが出来る?」


「う、うん。あ、いや、その……そうかも知れないし……そんな時が来るかどうか分からないけど……」


 返答に困った加賀谷の顔を見て、初めて少女が微笑んだ。


「分かりました、私、帰ります」


 少女はすっと立ち上がると晴れやかな顔で笑って答えた。


「……ようやく丸く収まったのか」


 見守っていた氷川と真野が歩み寄ってきた。


「真野さん……」


 加賀谷が申し訳なさそうに頷いた。


「君、怪我は無いね?」


 氷川がちょっときつく訊ねると、少女はおどおどと頷いた。


「ったく……。人騒がせだな」


 真野がにっこり笑いながら少女の肩を叩く。


「ふたりともごめん、心配かけちゃって」


 加賀谷が氷川と真野に向かって頭を下げて謝った。


「怪我とかなくてなによりだよ」


 真野がうんとひとつ頷くとシャツのポケットから携帯を取り出した。

 携帯の画面を見ながらメールを打つ。


「じゃ、葉月に彼女を駅まで送るよう言っとくわ。君、ちゃんと帰るんだぞ」


 少女は深く頭を下げた。髪がさらりと前へと流れ落ちる。


「……加賀谷さん、みなさん、本当にごめんなさい」


 頭を上げると大きなボストンバッグを両手で抱え、真野に促されて歩きだした。

 ふいに加賀谷が少女の後ろから声をかける。


「ありがとう! 君の気持ちは忘れないから!」


 右手を上げて、手を振って見送る。その言葉に足を止め振り向いた少女は軽く会釈をしてから再び歩き出した。公園の出口で葉月と合流し、そのまま駅の方向へと向かっていく。姿が見えなくなるまで見送ってから氷川が加賀谷に怒鳴った。


「加賀谷!! 何かあったらどうするつもりだったんだよ!?」


 顔中汗だくになって、ずり落ちたメガネを指で直しながら加賀谷をじろりと見る。さっきまでの冷静な態度からは想像もつかないほどの剣幕だった。


「……悠一、心配させてごめん。でも、分かって貰えると思って」


 その信じ切った穏やかな声に氷川の全身から力が抜ける。


「……ったく!! 心配して損した!」


 そんなふたりの元へ真野が戻って来た。


「彼女、ちゃんと葉月に頼んだから」


「ああ、見てたよ」


「ありがとう、真野さん」


「じゃ、行くか」


 三人揃って駐車場までの並木道を歩き出す。ふと、真野が足を止めた。


「……今回は大事に至らなかったけど、注意した方がいいな」


 半歩先を歩いていたふたりは同時に振り向いた。


「そうだな、ちょっとヤバイよな」


 氷川が頷いて答える。真野がそうじゃなくて、と付け足した。


「……お前らふたりの関係も含めて、だよ。絶対悟られるな」


 声を少しひそめた真野にふたりははっとして顔を見合わせた。


「……そうだね、注意しないと」


「大切にするなら尚更だぞ」


「うん……」


 三人の間の空気が少しだけ重くなる。そんな三人の気持ちとは裏腹に空は真っ青にどこまでも高かった。




 その後は何もなく無事取材を終え、その日は終わった。だが、加賀谷にはまだひっかかるものがあった。


「気のせいだといいんだけど……」


 移動の車に乗って窓の外を見ながら加賀谷がつぶやく。


「何か言った?」


 隣に座っていた氷川が訊き返すと加賀谷は何も、とだけ答えてまた窓の外を見た。

 しばらく車の揺れに身を任せているうちに加賀谷は氷川に肩を借りて浅い眠りについた。













「加賀谷さん来たそうですね。下にタクシー待機させてますのでそれで移動します」


 部屋のドアが開くと同時に声が掛かる。真野から連絡を受けた葉月が戻ってきた。

 お茶を飲んでいた四人はその声を聞いて出かける準備をはじめる。

 ふと思い出しように加賀谷がつぶやいた。


「でも……まだ誰かの視線を感じるんだ」


 その言葉に驚いた氷川が手にしていた携帯を落としてしまった。


「……まさか、またあの子?」


 その携帯を拾いながら加賀谷が答えた。


「ううん、違う。全然別の感じ。それに……」


 氷川に携帯を手渡しながら、伏し目がちに少し考える。


「……それにって、加賀谷、何だ?」


 心配した真野が訊ねた。


「仕事中なんだ。その視線を感じるのって。なんかもっと……悪意のある感じ。凄くとがった視線を感じる時がある」


「マジ!? なんだよ、それ!?」


 皆川が目を丸くして叫んだ。少し離れたところでスケジュールを確認していた葉月がその声に気づく。


「どうかしましたか? 喋ってないで少し急いで下さい……先に行きますね」


 スケジュール管理用の大きな手帳をぱたんと閉じて葉月が部屋を出ていく。

 その葉月が出ていったのを見届けると加賀谷が人差し指を立てて口に当てた。


「この話はまたね。さあ、急がないと葉月ちゃんに怒られちゃうよ?」


 加賀谷が明るい声で言うと先に立って部屋を出た。その後をぱたぱたと納得がいかない顔で皆川が続く。

 その場に残った真野が唸り、氷川は首を捻る。


「……大丈夫なんだろうか」


 氷川が腕を組んで考え込む。

 渋い顔をしていた真野は、ふうっとため息をひとつつくと氷川の顔をじっと見た。


「まあ、注意するに越したことないけどな。俺も気をつけるが、悠一、お前……」


「ん?」


「加賀谷を守ってやれよ」


 ぽんと軽く背中を叩く。


「真野さん……」


「一番近くにいる、お前ならではだからな」


「……ああ! そうだな」


 加賀谷への視線の主に多少疑問を感じつつも、氷川は努めて明るく答えた。


――これからは俺が加賀谷を守る。いつもそばにいる。この俺が……。


 氷川はその言葉に自分に課せられた責任の重みと、ふたりの為の未来を大切に思い、気を引き締めた。







 外の日差しはまだまだ強く、容赦なく照りつける。それでもほんの瞬間、秋の気配をまとった風がすっと通り抜ける。

 夏の終わりが近いいつもの事務所で、氷川は加賀谷の身を案じ、これからの事を少しだけ考えたのだった。



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