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 発達障害という言葉はテレビで聞いたことがあった。通勤途中の本屋で、いつもは表紙だけ見て通り過ぎてしまうけど、大人の発達障害、というようなタイトルの本はたくさん出ていた。

 中身を立ち読みする。不注意、ケアレスミス、忘れっぽい、電話対応がうまくできない、マルチタスクができない。その症状は、あまりにもわたしに当てはまっていた。

 そうか、と思った。わたしがこれまで、友達に見下されてしまったり、仕事ができなくて周りに迷惑をかけてしまったのは、このせいなのかもしれない。少しだけ心が軽くなった。

 決して怠けているわけではありません、と本には書いてあった。わたしのせいではない。決して、わたしのせいではないのだ。



 「想像力がある」ということのほかに、わたしにはひとつだけ誇れたことがあった。それは、恐竜に詳しいことだった。

 幼稚園のとき近所の図書館で、『すすめ!恐竜パラサウロロフス』という本を見てから、好きになった。図鑑を借りて、たくさんの恐竜の名前をおぼえた。

 女の子たちは恐竜についてあまり知らず、男の子には恐竜が好きな子が多かったから、ふだんだれからも相手にされなかったわたしは、皆が知らない恐竜の名前をそらで当てて見せるときだけ、すごい、という称賛の言葉をもらった。

 でも、それも小学校二年生ぐらいまでのことだった。教室で恐竜図鑑が回し読みされることもなくなり、最後に恐竜の話をしたのは、四年生の春、クラスでおとなしそうな男の子数人のところへ行って図書室で借りてきた本を見せたときだ。そのなかの一人、シゲトシくんは一年生のとき同じクラスで、わたしが翼竜のページを見てケツァルコアトルスの名前を見ずに当てたとき、すげえ、すげえ、と嬉しそうに言った子だった。

 見て、ケツァルコアトルス、と言うと彼らはいちように困ったような顔をした。シゲトシくんが、え、まだその本借りてるの、低学年向けじゃん、と小さな声で言った、そのときが最後だ。



 「あなたは発達障害ではありません」


 白髪交じりの先生は、パソコンの画面をしばらく見てからこっちを向き、そう言った。え、と言ったまま、わたしはしばらく固まってしまった。

 心の病をわずらっている人に対して偏見をもってはいけないとは頭の中ではわかっていたけれど、もし万が一にでも知り合いに会ったら嫌だと思ってしまって、病院は、会社からも実家からも離れた場所にした。ネットで調べて、口コミでは、誠実で、親身になってくれる先生と書いてあった。

 先生は、結果を聞いてわたしが安心すると思っていたのか、わたしがしばらくぽかんと口を開けていたあと、え、でも、でもわたし、と一生懸命言うのを見て、少し不思議そうな顔をした。


 「こういうことは個人差も大きいですし、一口に発達障害といってもたくさんのパターンがありますから、一概には言えませんが、検査結果を見る限り、まったく問題はありませんよ」


 でも、でも、とさらにわたしは言い、懸命に説明しようとした。どんなに頑張ってスケジュール表を確認してもかならず入力ミスがあること、エクセルの関数が入っているセルを、気を付けていても消してしまったり変な数字を入れてしまうこと。研修室の机の位置が、何度も行っているのにいつもわからなくなってしまうこと。コピー機の操作をいつも間違えてしまうこと、イベントのとき、自分がどう動けばいいか、いつまでたってもわからず、いつも皆に迷惑をかけてしまうこと。

 しばらく静かにわたしの話を聞いていたあと先生は、柔和な笑顔からすっと真顔になり、あなたは、発達障害では、ありません、と、噛んで含めるようにもう一度言った。



 大学では考古学を専攻した。恐竜のことを勉強したかった。恐竜について勉強するための専攻が「考古学」ではなく「古生物学」だと知ったのは、入学式が終わり、授業が始まってからだった。わたしは、ひとつも詳しくない土器や遺跡の発掘などをして、大学の四年間を過ごした。

 それでも、漠然と、将来は博物館や美術館で働きたいと思っていた。

 学芸員の資格は学部で取れるけれど、実際に就職するのは、大学院へ行かなければ難しい。院は、基本的には学部のときのゼミでそのまま研究をするから、入学試験はあまり難しくないと何人かの先輩が言っていたのを聞いたことがあったが、二年間行くぶんの学費は高かった。

 でも、そのときのわたしには、自分がもう一年ちょっとあとにどこかの会社に就職しているという姿を、まったく想像することができなかった。院に行ったとして、卒業するときにまた、同じことを思うだろうとは、薄々気付いていたのだけれど。

 博物館や美術館ならきちんと想像できたかというと、そうではない。でも、少なくとも訪れたことはあった。


 わたしは、大学院へは行けなかった。

 学費が払えなかったからではない。うちは決して裕福ではなかったけれど、父も母も、志帆に将来の夢があるなら、遠慮せずに行きなさい、と快く言ってくれていた。

 わたしは、院の入学試験に落ちたのだった。



 四月になり、五月が過ぎ、六月になった。わたしは、月に一度か二度は祖母のもとを訪れた。施設の庭にはあじさいが咲きはじめている。

 祖母は、物忘れが目立って何度も同じことを尋ねてくるような日もあれば、施設で仲良くなった友達の話や、ボケ防止にクロスワードパズルをやっていることなどを、しっかりと話してくれる日もあった。

 どちらにしても、わたしや家族のことを忘れてしまうようなことはなく、いつもわたしが行くと、とても喜んでくれる。

 わたしがロビーで祖母と一緒にいると、ほかの利用者さんや職員さんが通りがかりに、あら、松本さんいいわねえ、と声をかけてくれた。職員さんの中には、わたしに対して、やさしいお孫さんね、かんしんね、と褒め言葉を言ってくれる人もいた。わたしはそれが、とても嬉しかった。

 施設では朝、七時ごろ起きて、朝ごはんを食べる。頭の体操と祖母が言っている、パズルや工作などの課題をやって、お昼ごはんを食べる。皆で体操したり歌を歌ったりして、おやつを食べておしゃべりをして、そのあとは自由時間で、祖母は読書が好きだから、少し本を読んだりする。施設には、移動図書館が来てくれる。入浴は、職員さんに見守ってもらって、週に何回か、昼間にする。歳をとるとあまり汗をかかなくなるのよと言って笑っていた。夜ごはんを食べて、歯みがきをして、眠る。祖母は、そんな一日の流れを何度か話してくれた。

 いいな、と思った。祖母の暮らしは、とても静かだった。静かな、老人ホームでの祖母の生活を、わたしはうらやましいと思った。

 話の途中でぼうっとしてしまっても、祖母は気にしない。志帆ちゃんももう会社勤めなのねえ、と、また言って、にこにこ笑った。きゅっと喉が痛くなって、あっ、ねえ、とわたしはわざとあかるい声を出した。


 「おばあちゃんの、若いとき、とか、なにか仕事とかしてたの」


 思えば、わたしは祖母にそういう話を聞いたことがなかった。話し始めると、祖母は、びっくりするほど昔のことをよく憶えていた。もしかしたら記憶違いの部分もあるかもしれないけど、それでも、学校や職場の友達の名前、近所の様子、住んでいた土地の地名や、家の中の様子なども、こと細かに話すことができた。

 祖母は女学校を卒業して、銀行に勤めた。当時には珍しく、祖父と結婚してからも、父を身ごもるまでは何年か勤めていたと言った。

 そのとき一緒に勤めてたお友達とは、そうね何年かまえまではよくお茶していたのよ、今はもうみんな歳とっちゃって、元気でいるのかもわからないけどねぇ、と祖母は少し寂しそうに、でも、懐かしそうに言った。

 職場のお友達、と口の中だけで、繰り返すように言う。わたしにはまだ、そういえる人はひとりもいなかった。

 祖母は銀行に何年か勤めたあと、父を産み、叔母を産み、叔父を産み、育てた。その間に、祖父は市役所に勤め、一時は事業を起こして失敗し、そしてまた、別の会社に勤めた。

 祖母は父を産んでからは外に働きに行くことはなかったけど、子育てをしながら、祖父を支え続けた。

 孫が生まれ、伴侶である祖父を看病のすえ看取り、引っ越して、ひとりで暮らし、そして、今ここにいる。

 それは、長い長い人生だった。たくさんのことを成し遂げてきた人生だった。さっき、うらやましいなと思ってしまったことを、急に恥ずかしく思った。ここでの生活は、言うなれば八十数年の人生をしっかりと生き抜いてきた人が、辿り着いた安息の場所だった。わたしはまだ二十三歳で、そして、なにひとつ成し遂げていなかった。


 施設まで来る途中、地下鉄の駅のチラシ置き場にあった科学館のチラシには、大恐竜展の文字があった。夏休みに合わせて開催されるようだった。

 そこには、ブラキオサウルスやパキケファロサウルス、アンキロサウルス、そして、ケツァルコアトルスの姿もあった。

 一枚もらってきたそれをおばあちゃんに見せると、おばあちゃんはにこにこしながらそれを見た。これ、ケツァルコアトルス、と言うと、一度では聞き取れなかったのか、え、なあに、と聞き返される。


 「ねえ、よく連れてってくれたよね、昔、科学館」


 もう一度、おばあちゃんと科学館に行きたいと思った。JRから地下鉄に乗り替える前の、駅のコンコースの真ん中にある時計の下で待ち合わせをして、切符を買ってからゆっくり地下鉄の階段を降りて乗り、地下鉄の駅の一番出口を出て、科学館まで歩いて行って、一緒に大恐竜展を見たい。

 少し暗くて怖い、昔の海の生きものの展示コーナー、実物大の足跡の模型、ほんものの三葉虫の化石。広いホールの真上に大きな翼を広げる、骨だけのケツァルコアトルス。常設展の、ジオラマの街を走る鉄道模型や、人体の模型、磁石を動かして砂鉄をくっつけるブースを、一緒に見て回りたい。せめてそのひとつひとつの思い出を、おばあちゃんと詳しく話したいと思った。

 でも、おばあちゃんは嬉しそうに頷いて、そうねえ、志帆ちゃんはね、むかしからおばあちゃんのところに、よく遊びに来てくれたものねえ、と言っただけだった。



 梅雨が明けると、すぐ猛暑になった。会社の夏休みは、七月から八月の間に、自分の好きな日に、五日間取ることができる。八月のお盆にまとめて休みを取る人が多いようだったが、わたしは七月の後半の、海の日のある連休の前後に二日間、あと三日は、お盆に取ることにした。

 海の日は、わたしが小学生のころは、まだ七月二十日だった。もうすぐ夏休みに入る時期、終業式の前に一日だけ入る休みが、嬉しかったのをおぼえている。

 七月の休みは、実家に帰った。実家は、そんなに遠くない。特急とか新幹線を使うまでもなく、在来線で二時間ぐらい。最後の日にアパートに帰り、その日は、何もせずに過ごした。

 休み明けに出勤するとすぐ、松本さん、ごめんね、と津田さんに話しかけられた。業務時間まえに津田さんから仕事の話をされるのは珍しい。津田さんはグレーの七分袖のジャケットに、白っぽいスカートを合わせていて、それが、とてもよく似合っていた。


 「あのね、社内報の八月号、入稿の締め切り昨日までで、印刷所から電話来たの」


 さあっと血の気が引く。毎月発行している社内報のデータを印刷所に送るのは、わたしの仕事だった。


 「サーバに入稿用のデータなかったから、勝手にまとめて送っておいたの、フォルダに入れたから確認しておいてね」


 すみません、とわたしが言うよりさきに、津田さんはふわっとスカートを揺らして向こうを向き、自分の席に戻って行った。白いスカートには、薄く控えめな、小さな花の模様があった。

 社内報のデータは、わたしのパソコンのデスクトップにあった。デスクトップのデータは、それぞれのパソコンのパスワードを入れないと見られない。先週、作っていて、作り終えたら、共有サーバに移そうと思っていたのだ。

 サーバの社内報のフォルダには、津田さんが一から作ってくれたのであろうデータがあり、それはわたしの机の上にも印刷して置かれていた。メールボックスを開くと、津田さんから印刷会社の人へ送った入稿のメールが、わたしのアドレスにもCCで届いていた。

 首筋と顔がずっしりと重たくしびれるように感じた。津田さんの作ったデータを開こうとして、間違えてデスクトップの、自分が作っていたものを開いてしまう。パソコンの動きが一瞬遅くなり、閉じるボタンがきかなくなった。見るともなく画面と、手元の印刷物を見ていると、わたしが作ったデータに、間違っているところがあるのを見つけた。


 昼休み、会社の隣のコンビニでお弁当を買って戻ると、谷口主任と清水さん、宮本さんが、主任の机のところで話しているのが目にとまった。

 小さく仕切られた奥の休憩スペースにだれもいないのを確認して、そちらへ行こうと側を通りながら見ると、主任の机の上には科学館の大恐竜展のチラシが置いてあった。

 あ、と思わず声を出してしまう。三人が、こちらを振り返った。


 「あ、松本さん、見る?そういや、学生時代、考古学だったっけ……あ、でも恐竜って考古学じゃないよな」


 言ってこちらにチラシを見せてくれる。まさか間違えて入学してしまったとは言えず、わたしは、曖昧に笑った。

 でも、今なら、雑談ができるかもしれないと思った。わたしは、自分が仕事ができないという引け目から、職場の人と軽口を叩くことができなかった。それに、あたりさわりのないプライベートのこと、たとえば、休日は何しているのとか、大学ではどんな勉強をしていたのとか、好きな映画や音楽はあるのとか、そういった質問にも、上手に答えることができなかった。

 わたしには趣味はなく、家にいるときはテレビはつけているものの好きな番組もなく、映画もほとんど観たことがなかった。音楽も、とくに好きなのはない。大学のとき考古学を勉強していたことは、言ったことがあるけど、じゃあ、どんな勉強をしていたのとか、なにの研究をしていたのと問われると、本当に大学へ行っていたのかと疑うほど、ちゃんと説明することができなかった。


 「あ、はい、えっと、主任、好きなんですか、恐竜」


 え、と言って一瞬の沈黙のあと、主任は少し笑った。

 

 「あはは、息子がね、行きたいっていうからねー」


 うちの娘も恐竜好きですよ、女の子だけど、と清水さんが言い、いいじゃないですか、恐竜、男の子も女の子も関係ないですよと宮本さんが言う。そうねと清水さんが言い、そうだねと主任が言い、和やかな笑いが起きた。


 「松本さん、恐竜好きなの?」


 言った主任の声は優しかった。はい、とわたしは答える。今度こそ、と思った。


 「はい、好きなんです、恐竜、えっと、これがアンキロサウルスでこれがブラキオサウルス、これがパキケファロサウルス、石頭なんです、それで、これがケツァルコアトルス、」


 はっと気が付くと、皆、いちように困った顔をしていた。あの、小四のときと、同じだ。

 すごいね、詳しいね、と清水さんが、とりなすように言った。それが、わたしがこの会社に入って初めて言われた、すごいね、という言葉だった。


 「え、ケチャ……なんだって?」


 ケツァルコアトルスです、と小さな声で言うわたしに、ああ、と谷口主任が言った。


 「それさ、あれでしょ、でかすぎて飛べなかった説あるらしいよね、こないだNHKでやってた」


 あーそれ私も見たかもです、と清水さん。そうなんですか、翼竜って書いてあるのに、なんか面白いですね、と宮本さん。


 わたしは黙ったままそっとその場を離れ、休憩スペースに行った。

 ケツァルコアトルスは飛べなかったかもしれない。

 わたしは、そのことを知らなかった。


 お弁当を食べていると、少し遅れて事務室に、津田さんが戻ってきた。来客対応で遅れて昼休みを取る津田さんに、おつかれさまです、と声がかかる。

 近くのベーカリーの袋を提げた津田さんは、一度こっちへ来ようとした。ちょうどからあげを頬張っていたわたしは、おつかれさまですと言わなくては、と思った。大きいからあげを一口で食べてしまったために口をもぐもぐさせているわたしと目が合うと、津田さんは目を伏せ、ふわっと向こうを向いて、自分の席に行った。

 津田さんの頬には、長いまつげが影を作っているように見えた。



 秋の人事異動で、わたしは異動になった。異動先は、西浦という知らない町にある製薬工場だった。

 工場といっても、わたしは製薬のなにか技術を持っているわけではないので、薬を作る仕事をするわけではない。物品の管理や、薬の出荷の事務などをする仕事だ。西浦工場はうちの会社のもつ工場の中でも大きくて、そこで働く人も多い。

 異動の前の面談で係長は、わたしの異動の理由を、西浦工場の人がひとり産休に入ってしまったから、と説明した。


 「急だし、ご実家のほうから遠くなるから、悪いけどな、……うん、同じ仕事をする人も、たくさんいるし……うん、まあ、うん、よろしく、頼むよ」


 わたしが異動するのは十月一日だったけれど、八月の頭には、もうそのことを知らされた。西浦工場の近くには社宅があり、そこを借りることができる。だから自分でアパートを探す必要はなかったけど、少しでも余裕をもって引っ越しできるようにということなのだろう。

 そのまえの日にネットで、辞令が出てから一週間で異動しなければいけなかった人の記事を見て、こわいなと思っていたから、わたしは会議室で係長と向き合いながら、やっぱり、わたしは恵まれているんだ、と思った。

 たしかに実家からは少し遠くなるけど、それでも本社のある駅から一時間以内だから、在来線で行けるし、そもそも実家にそう頻繁に帰らなければいけない用事もない。工場も社宅も駅からは少し歩くが、一応電車も通っていて、車を買ったり、乗ったりする必要もないようだった。

 わたしは大学のとき免許を取ったけれど、車を持っていないどころか、自動車学校を卒業してから一度も、運転をしたことはなかった。


 ふつう人事異動は四月にある。去年もときどき、時期はずれに人事異動のお知らせというのがメールで飛んできていたけど、それはわたしの見る限り、新しいプロジェクトチームができるので部長級の人が兼任になるとか、そういったものだけだった。

 わたしの異動と同時に、広報一係の人が二係に異動して来、契約社員の春田さんは一係に異動になるなど、広報部の組織は結構大きく変わった。清水さんはいつの間にか時短の時期を過ぎたのか、もう、四時に帰らなくなっていた。


 机の片付けは、すぐに済んだ。わたしの机には、仕事の資料は少しだけしかなかった。共有のファイルにもデータで同じものがあるはずの広報誌や、間違いを正されてもう古いものなのに取ってあったイベントの報告書、失くしてしまったと思ってもう一枚印刷し直したイベントの日程表、そして新入社員研修のときの資料など。

 引き継ぎもほとんどなかった。わたしのやっていた仕事は、ほとんど広報二係のほかの誰かが、わたしよりずっと詳しく把握していた。



 大恐竜展を、わたしは一人で見に行った。八月のおわりだった。この夏は暑く、残暑はいつまでも厳しかった。

 地下鉄を降りる。一番出口が工事中で、少し迷ってしまった。公園の中を歩き、汗をかきながら科学館に着く。学校はまだ夏休み中のはずだけれど、館内は混んではいなかった。チケットも、ほとんど並ばずに買えた。

 大人なのにひとりで科学館に来るわたしは、恥ずかしいかなと思ったけど、来ている人たちはそれぞれ親子や友達同士のようで、わたしのほうなど見てはいなかった。

 科学館では昨年、一番上の階に大きなプラネタリウムができて、話題になった。それを目当てにか、親子連れではない若い人の姿も目立つような気がした。

 わざと薄暗くしてある通路をゆっくり通り、展示を見た。化石や足跡の模型、年表などを見ながら歩く。むかし、見た大恐竜展の展示とは違う気がしたけど、忘れているだけかもしれなかった。というより、一度やったのとまったく同じ展示内容ではやらないだろう。模型やパネルの間に、DVDや3Dで見る映像のような展示があり、これは、たぶん子どものときにはなかった。展示をする技術も、進んでいるんだなと思った。

 いくつかのコーナーを過ぎ、ホールに出る。自分の身長が伸びたせいか、むかしほど広くは感じなかったけれど、それでもじゅうぶんに大きい。たくさんの翼竜が空を飛んでいた。今回は、骨の模型ではなく、翼のようすまで復元されたもの。

 近くで小さな子が、こわい、と泣き声を上げた。わたしも子どものころ怖がりで、とくに暗いところはこわくて、遊園地のアトラクションにせっかく並んだのに途中でこわくなってしまって、呆れ顔の父に抱きかかえられて列の横をむりやり通って戻ったのを憶えている。それでも、なぜか恐竜は平気だったなと思う。

 常設展は、今、見ると、体験型の展示が多かった。大人ひとりで遊ぶのは気が引けて、各階をさらっと歩いて回るだけにする。

 最後に、地下に下りてみようと思った。一階まではエレベーターがあるが、地下に行くには、階段しかない。入り口がどこだったか、すぐに思い出せなかった。

 しばらく迷って、何度か通りすぎてしまった、シャッターの閉まっているところが、むかし地下へ降りて行った階段の入り口だとわかった。シャッターには、地下休憩室は建物の改装のため閉鎖いたしました、売店はミュージアムショップの横に移転しました、と、ワープロで打った紙が貼られていた。日付はもう、一昨年ぐらいのもの。その隣には、近隣に新しくオープンしたらしいカフェのチラシが、何枚か貼られていた。


 お土産屋さんの横を見ると、たしかにそこに売店があった。少し見たが、むかし好きだったピッカラというお菓子は、もうないようだった。ミュージアムショップ、とカタカナで書かれたアーチのような看板があるお土産屋さんは、むかしと変わっていなかった。

 ミュージアムショップで祖母にお土産を買ってもらったことがあった。うすい金属でできた、しおりだった。星座の柄で、かに座、と書かれていて、カニのイラストがついているもの。

 店に入ってみると、同じようなデザインのものが今も売られていた。赤いリボンがついた、金色のしおり。

 十二星座の隣に、恐竜の柄をあしらったものがいくつかあった。値段は同じだ。あのときも、これもあっただろうか。わたしは、好きだった恐竜の柄を、選ばなかったのだろうか。


 外に出ると八月の夕方の日差しはまだまだ強く、すぐに汗が出た。公園の噴水がざっと上がり、子どもの楽し気な声がする。

 公園といっても遊具があるわけではなく、木々に囲まれた広場になっている。派手な格好をした数人のグループが、音楽をかけてダンスをしていた。その向こうでは、親子らしき男の人と男の子がキャッチボールをしている。犬の散歩をしている人もいた。



 異動する十月一日は、月曜日だった。そのまえの週の金曜日、わたしは前もって買っておいた、箱にたくさん入ったクッキーを持って会社に行った。定時後にそれぞれの席にクッキーを配って歩くと、皆、ありがとう、異動先でも頑張ってねと丁寧に言って、受け取ってくれた。

 荷造りは両親が来て手伝ってくれ、もうほとんど終わっていた。土曜の午前中に引越センターの人が来て、家具もぜんぶ持って行ってくれることになっていた。エアコンは、もともと社宅についている。


 ほとんどの人にクッキーを渡し終えて、宮本さんの姿が見えないことに気が付いた。もうわたしには、この部署でやるべき仕事はひとつもない。でも、クッキーを机の上に置いてさっと帰ってしまうのではなく、ちゃんと手渡しをしたほうがいいだろうと思った。

 少し探すと、奥の休憩スペースの隅に、宮本さんが座っているのを見つけた。こちらに背を向けていちばん奥に座っていたから、衝立の影になっていて見えなかったのだ。

 最後にひとつ残ったクッキーを手に持って近づき、あの、と声をかけると、宮本さんは俯いたまま言った。


 「みんなに、なんて言った?」


 え、みんなに、なんて、と、つい繰り返してしまった。

 訊かれたことに対して咄嗟にどう返したらいいかわからないとき、オウム返しをするのは、わたしのくせだった。ほとんど無意識だけれど、黙ってしまうよりはいいと思っていた。そして、わたしがオウム返しにすると、多くの場合その次の言葉、ヒントになるようなもう一言を、言ってもらえることが多かった。

 けれど、宮本さんは黙っていた。しばらく、黙っていて、そして、さっと顔を上げた。


 「みんなに、なんて言いましたか?」

 「え、……みんな、」

 「……」

 「……え、……え、っと、お世話に、なりました……」

 「それだけ?」

 「え、……それだけ?」


 宮本さんは立ち上がってこちらを向いた。彼女のほうが少しだけ、背が高い。宮本さんの顔を見ると、目が赤くなって、涙目になっていた。唇がわなわなと震えている。

 どきんどきんと耳のあたりまで鼓動がして、胸が苦しくなった。あのさ、と宮本さんは言った。


 「係長が、ま、松本さんの仕事、どれだけ減らして、自分で事務、引き受けてたか、っ、知ってる?……主任が、松本さん作った統計の、数値っ、合わなくて、夜中までやってたの、知ってる?っ、清水さんが、イベントの日、お母さんに、お子さん預けてっ、いつも、最後までっ、いてくれたの、知ってる?……あ、あんたがっ、社内報の締め切り!忘れて!休んだ日!津田さん、た、体調悪かったのにっ、ぜんぶデータいちから、残業して作ってたのっ、は、春田さん、っ、あの子より、っあんたよりっ、お給料安いなら、辞めたい、って、っ、なのに、なのにっ、いつも!平気な顔で!定時で帰って!注意されても、っ、へ、平気な、顔でっ、わ、笑っ、へらへらしてっ!」


 困ったとき笑ってしまうのも、わたしの悪い癖だった。これまで、面と向かってそれを咎められたことはなかった。そんなふうに思われていたことを、わたしは初めて知ったような気もしたし、ずっと知っていたような気もした。

 宮本さんが、こんなに言葉に詰まりながら、息を切らせて話すのを、わたしは初めて見た。新入社員研修の自己紹介のときも、仕事でも、宮本さんはいつも、落ち着いた少し低めの声で、すらすらと喋っていたのに。


 「笑わないでっ」


 言われて、あ、しまった、まただ、と思った。宮本さんは一度ぎゅっと目をつむり、開けた。


 「……わ、わたし、わたしっ、あんた、あんたのことっ!」


 おい、どうした、なんかあったか、と後ろから係長の声がした。宮本さんは、さっとわたしの横をすり抜けて休憩スペースを出ていった。

 衝立を出るか出ないかのとき、ゆるせない、と宮本さんが小さな、ほんとうに小さな上ずった声で、言うのが聞こえた。

 わたしは、手に持っていたクッキーをズボンのポケットに入れ、自分の席に行ってかばんを持った。宮本さんのほうを見ると、宮本さんは自分の席で、下を向いてティッシュで鼻をかんでいるところだった。

 わたしは、お疲れさまでした、と言って広報部を出た。だれかが返事をしてくれたかどうかは、わからなかった。



 異動してからしばらく、祖母の施設から足が遠のいていた。久しぶりに訪れたとき、もう季節は冬になっていた。祖母は拍子抜けするほど何も変わっておらず、わたしがしばらく行かなかったことについても、何も気にしていない様子だった。

 いつものようにロビーで自販機のコーヒーを飲み、来る途中に駅のドーナツ店で買ってきたドーナツを食べる。固めのドーナツを買ってきてしまったので少し心配になったが、そう言うと祖母は、ばあちゃんまだ歯いっぱいあるから大丈夫よ、と言って、美味しそうに食べた。

 

 「ありがとうねえ、こんないっぱい買ってきてくれてねえ」

 「え、いいんだよ、おばあちゃん、わたし、ボーナスも出たし、」

 「まあ、志帆ちゃんももう会社勤めなのよねえ、まあ、すごいわあ」


 ドーナツを飲み込んだ喉が、ぐっと詰まった。慌ててコーヒーを飲む。少し噎せてしまったが、祖母はそれも、気にしていないようだった。

 祖母は何度も同じことを言ったし、それは、習慣みたいなものだった。そう言われたとき、わたしはいつも、えー、そんなことないよ、とか、ありがとう、とか、笑って答えていた。でも、咄嗟にそう言えなくて、黙ってしまった。ロビーには、小さな音で、「川の流れのように」が流れていた。


 「でも、おばあちゃん、わたし、……わたし、仕事できなくて、全然、できなくて、異動になっちゃった、……すごくないよ、全然、すごくないの」


 沈黙が降りた。おばあちゃんはしばらくきょとんとした顔をして、そして、言った。


 「志帆ちゃん、だいじょうぶよ、志帆ちゃん、頑張ってるもの……頑張ってるだけで、すごいのよ」

 「……」

 「こんなばあちゃんに、お菓子持ってわざわざ会いに来てくれるの、志帆ちゃんだけよ、おばあちゃん、すごく自慢なのよ、やさしい、自慢の孫よ、こんな素敵な子ほかにいないわよ、だいじょうぶ、だいじょうぶよ、志帆ちゃん」


 泣きそうになったのを堪えて、えー、そんなことないよお、と言って、わたしは笑った。

 椅子に座りなおすと、ズボンの右のポケットに、めしゃり、という感覚があった。そっと腰を浮かせて探ると、あの日、宮本さんに渡さなかったクッキーが出てきた。

 クッキーは袋の中で粉々に割れ、でも、ズボンはあれから何度か着て洗濯もしたのに、クッキーは粉々に割れた状態で、透明なビニール袋から出ることなく、あった。



 異動になってから初めて本社に行ったのは、二月の終わりで、研修だった。入社二年目と三年目の職員が受ける研修のうちのひとつだったから、同期もたくさんいるはずなのだけれど、わたしには顔と名前が一致する人はほとんどいなかった。

 ずっと前のほうの席に、宮本さんが座っているのが見えた。秋まで、肩ぐらいまであった髪を、今はショートヘアにしていた。紺のジャケットを着ている。宮本さんは、イベントのない日でも、いつもきちんとした格好をしていた。

 研修が始まるまで、あと五分ほどあった。後ろに座る人が宮本さんの肩を軽く叩き、宮本さんは笑顔で後ろを振り返った。わたしは下を向き、資料に目を落とした。


 西浦の駅に着いたのは夕方四時だった。上司からは直帰でいいと言われていた。工場から社宅までは道を挟んですぐだが、駅からは歩くと二十分ほどかかる。でも、歩けないほどではなかった。工場のすぐ前にバス停があるが、このあたりはバスの本数がとても少なく、駅からのバスは一時間に一本しかない。バス停で、次のバスが四時四十分であることを確認して、社宅までの道のりを歩き出した。

 日が落ちるのはまだ早いとはいえ、暗くなる前に家に着いた。社宅は半多製薬と、近くにいくつか建っている工場や会社が合同で借りているらしく、住んでいるのはぜんぶが西浦工場の人ではなく、ほかの会社の人もいる。どの会社の人も皆まだ会社にいるのか、あたりは静かだった。

 かんかんと音の鳴る階段をのぼって、二階の自分の部屋へ行く。手袋をしていても指先が冷たく、感覚がなくなってしまっていた。

 座って、テレビとエアコンのスイッチを入れる。テレビでは、テロップに古代生物紀行という文字が映り、恐竜の番組をやっていた。

 しばらく見ていたけど、ケツァルコアトルスは出てこなかった。わたしの知っている恐竜の名前は、言われず、いつの間にかテレビの中で恐竜は絶滅し、鳥や哺乳類が登場していた。


 部屋が温まってくると、冷たい風の中をずっと歩いてきたせいか、鼻水が出てきた。近くに置いていたティッシュを取りながら、あの日、わたしが広報部を出るとき、宮本さんが自分の席で、俯いて鼻をかんでいたことを思い出した。

 あのとき、宮本さんは泣いていただろうと思った。宮本さんの、ほっそりとした手を思い出しながら、わたしは静かに鼻をかんだ。


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会社員はケツァルコアトルスのことを思わない 伴美砂都 @misatovan

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