字句の海に沈む(下)

次の日。

俺はランプの人工的な光で目が覚めた。

アルカナはもう旅支度を整えていた。

「あ、お寝坊さんだ」

「……アルカナのせいで寝付けなかったんだ。それにここじゃ朝も夜もない」

「私のせいで?」アルカナは可愛らしく首を傾げた。

「なんでもない」

「それにしてもパトスの髪の毛、すごいよ。鳥の巣みたい」

「いつもこうなんだ。アルカナのまっすぐな髪の毛が羨ましいよ」

アルカナは照れたのか髪の毛をしきりに左手で梳く仕草をした。


俺たちはまたも簡単に朝食を済ませると、すぐにテントをしまい来た道を戻る。

ランプが切れたら帰ることは出来なくなる。それだけは避けなければならなかった。


「アルカナ。今度はより注意深く周囲を見ながら歩こう」

「もし見つからなかったらどうするの?」

「そのときは体制を整えて出直すしかないな」

「……もう一度ここに来るのはちょっとつらいね」



アルカナはそのあと静かに歩いた。

俺も自分からペラペラと話す方ではないと自覚しているので沈黙が続いた。

二時間程度歩いたあと一度休憩を挟む。



そして休憩が終わり出発したとき、アルカナが突然こう言った。

「私ね、本当は辞書データを消滅させに来たの」

「消滅?」


その告白に俺は目を見開いた。


「そう。私はね、戦争でお父さんもお母さんも友達も故郷も――この右腕もなくしたの。唯一残っているのはこのお母さんからもらったこの左耳のピアスだけ。だから戦争が大嫌いなの」

「……そうだったのか」


こういうとき、気の利いた言葉を掛けてやれない俺の脳内データを恨めしく思う。


「お父さんとお母さんはね、学者だったの。言葉を研究していたんだ。家にはそんな本ばっかりあったから、自然と私も、ね」


それに俺は納得した。

だからあんなにも言葉というものに詳しかったのだ。


「――だから戦争になったとき、私は誇りだったお父さんたちの研究が急に恐ろしくなった。世界を変えてしまうようなそんな争いの火種のひとつになってしまうだなんて思いもしなかったから」


昨夜アルカナは『言葉っていうのは恐ろしい力だよ』と言った。その意味が、すこしだけわかった気がした。


「つまり、アルカナは戦争の一端を担った辞書データを消滅させようとしてここにきたわけか」

「うん。でも、昨晩パトスと話しているうちに、残しておいてもいいかなって思ったんだよ」

「どうして?」

「あれは確かに争いの種になったかもしれない。だけれど、やっぱり人間のすべてが詰まった私たちの誇りでもある。だから、そのままでもいいかな、と思ったの」

「また戦争の火種になるかもしれない」

「そしたらパトスが――」


そのときだった。

俺らの目の前にふわりと青白い光が浮かんでいるのに気がついた。


手のひらくらいの大きさのその光は、俺たちを誘うかのようにゆっくりと点滅した。

そして俺には、いや、俺たちにはわかった。


「アルカナ。これ、辞書データだよな」

「この不思議な感覚――うん、間違いないね」

「でも来た時はなかったはず……?」

「これを見逃すはずはないよ。なんで今出て来たんだろう?」


それはとても不思議なことだった。

しかしそんなことはどうでもいい。

俺はやっと見つけたそのデータを目の前にして、達成感のような、でも寂しいようななんとも言えない気持ちになった。


「あのさ、パトス。さっきも言ったけれど、私はもうこのデータを消滅させなくてもいいと思っているの。――だからさ、パトスの中に取り込んでよ」


アルカナの錆びた青色の瞳には、少女のものとは思えない力強い意志が込められていた。

俺は迷っていた。もう俺がどうにかしていいものだとは思えなくなっていたからだ。

「でもアルカナ。このデータは人間みんなの」

「パトス。私にはこれを取り込む体がないけれど、あなたなら出来る。それにデータを取り込もうとすればわかるはずだよ」

「わかるってなにが」


アルカナはそれ以上何も言わず、ただ俺をじっと見つめた。

そして俺は覚悟を決める。


相手は人類の叡智。膨大な言葉のデータだ。

俺の身体と適合するかも正直わからない。だけれど、この少女が、アルカナがそう言うのならやってみよう。ただそう思った。


俺はアルカナに向かってこくりと頷くと、ゆっくりその青白い光に手を振れた。

その瞬間バチバチと火花が散る。

「――パトス!」

「……大丈夫」

俺はそのまま手を引っ込めずに光との同期を図った。それは奇妙な感覚だった。


無数の言葉が、頭のなかに流れてくる。

それはまるで淀みなく淡々と流れる水のようだった。

知っている言葉もあるけれど、ほとんどは未知のものだ。


その次に俺はとても広い球体のど真ん中に浮かんでいるような感覚を味わった。

その周りには言葉がぐるぐると止めどなく巡っている。

空間はあの光と同じく青い。青くて明るい。

この青さはなんだろうと考えた。


答えはすぐに見つかった。

――そうだ。これは海だ。

言葉の海。

無限に続くかのような広大に続く海。

その真ん中に俺はいた。

すこしでも気を緩めれば飲み込まれてしまうような、そんな海の超自然を感じながら、俺は周りを観察した。

ときどきどこかで言葉が小さく跳ねた。

と思ったら、それが水しぶきになって、いつの間にか虹を作っていた。


その虹はなんだか七色ではないようだった。

この言葉の世界では何色にも見えるようだったし、ともすれば色なんかないようにも思われた。


その海を俺はとても長い時間観察していた。

そしてある考えに至った。


俺はふと気がつくと、アルカナのいる世界に戻っていた。




「本当にいいの?」アルカナはか細い声で聞いた。

「あの言葉たちは大きい海原だ。あんなの俺ひとりじゃ取り扱えないよ」

それに、と俺は付け加える。

「だれかの言葉を俺が取り込んでも、なんだかそれは嘘な気がしてさ」


アルカナは俺のその言葉を聞いて、一瞬だけ考えるような顔をしたが、ふっとなにもかもを包み込むような優しい笑顔になった。


俺は辞書データを取り込まず、あの洞窟に置いておくことを決意した。

アルカナも辞書データを消滅させるようなことはせず、二人は洞窟を出た。


洞窟の外は晴れていた。

俺とアルカナは目が眩みそうになりながら、並んで歩く。


「ねえ、辞書データを取り込まないなら、 パトスの故郷はどうするの?」


それについて俺はひとつ提案があった。


俺はとっておきの笑顔で言う。「俺にいい考えがあるんだ」

アルカナはすぐ右を歩きながら首を傾げた。

「いい考えって?」

「アルカナは故郷と右腕がない」

「――だから?」


俺は十歳も離れている少女に、恥ずかしがりもせずに、こうお願いした。


「アルカナが俺の故郷に来て、二人で言葉の研究をするというのはどうだろう。俺はアルカナみたいに頭が良くない。だけれど、アルカナの右腕になって一生懸命勉強する。それでいつの日か、故郷を復興させるんだ」


俺は横目でちらりとアルカナを見た。


「――あいにく私はもう左腕だけの生活に慣れているんだよ」それから、アルカナはいたずらっぽく微笑んだ。「だけれど帰る場所もないしね。右腕が出来るのも案外便利かも」


それを聞いて俺は、アルカナの左手を握った。


これから俺たちには膨大な言葉の海が立ちはだかるだろう。

たまにはそれに溺れて沈んでしまうかもしれない。


だけれど、なんとなく俺たちなら大丈夫だと思った。

小さな左手を握りながら、そう思った。

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字句の海に沈む 西秋 進穂 @nishiaki_simho

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