5-4 言えない秘密
緩やかな上り坂になっているこの道を、傘もささずに駆け上がってくる剣。雨に濡れていても構わないと言わんばかりのその姿は、三割増しでいい男だ。……な、なんかこのままじゃ、僕がまるで恋愛漫画のヒロインポジションなんですけれども。
「バス急に降りんなよ! ハァ、あーびっくりしたっ」
声の届くところまでくると、上がった息に言葉を混ぜた。膝に手を当てて、地を向いて呼吸を整える。僕はそんな剣へ慌てて傘を差し出した。
「なっ、なんでそんな。ずぶ濡れじゃないか!」
「だってさ、ハァ、まーしー降ろしたら、バス勝手に走り出しやがんの。しゃーないから、俺はいつもンとこで降りて、走って追っかけてきたんですよ。こういうとき傘邪魔ンなるよなぁ」
[脇目もふらずってやつやん。びっしゃびしゃやがいね]
「ごめ、ごめん。あの、追いかけてくるなんて、思ってもみなくてっ」
「ほんとっ、まーしーのばか!」
顔を上げた剣。その表情は、小さいときと変わらない。優しくて頼りになる親友のまなざしだ。
「追いかけるよ、当たり前だろ。俺、まーしーのこと超大事なのっ」
[やっぱ過保護かいや]
「それなのに俺、まーしーがストレスに感じること言ってさ。マジ最悪だなって、クソ恥ずかしくなった」
剣の痛烈な表情が僕に近く向く。
「ごめんな、まーしー。まーしーにはまーしーのタイミングも考えもあるのに、俺、全部無視した言い方した。自分のことばっか考えてた」
「そ、そんなことないよ。剣はいつも、何事も僕のためを思って言ってくれるもの」
「だって俺は昔から、まーしーの全部を応援してるし、まーしーが成長してくのを一番傍で見たいって思ってんだもん」
それを聞いて、なんだか込み上げるものがあった。クッと息を呑んで下唇を噛んでいなす。
[ツルギのマシンに対する愛情、思ったよか深そやじ? 逆に尊敬やわ……]
しかし
「まっ、まーしー?!」
「僕の方こそごめんね。さっき、意気地無しなとこ剣に見つかって、恥ずかしくなって逃げちゃったんだ」
「まーしー、う、嬉しいんだけど、まーしーの制服も濡れるから離れた方がいいって」
「やだ。剣は僕を追っかけてきたからずぶ濡れになったんだ。原因である僕だってずぶ濡れになるべきだっ」
「『べき』って……。ばか、まーしー」
ぐじゅぐじゅと鼻を啜る。泣いている顔なんて今更見せられない。
「剣は一年間気が付いてたのに、僕が秘匿してることを優先して、いままで言わないでくれてたんだね」
「けど、なのに勝手に開示してマジで悪かったよ」
「ううん、僕もさっきの剣と一緒なんだ」
そっと離れた僕は鼻先を地へ向けつつ、鞄から常備しているタオルを左手のみで取り出した。
「僕も剣に隠しごとしてるの、ずっと苦しくてさ。いつか絶対に向き合わなきゃいけなかったのに、真実を知るのが怖くて、自分で作り上げた憶測の結果ばっかりに潰されてたんだ」
言いながら、剣に頭からそのタオルをかける。すると不意に皆本の『あの言葉』が
「あ、あー、だから、えと。『あり、がとう』」
「まーしー……」
「剣の真心、いまなら、わかるよ」
空いた左手でメガネを外す。溜まった涙を拭おうとしたら、剣が先に僕のタオルでそっと拭った。
「フハッ! まーしーは泣き虫なとこだけ、ずっと変わんねーなぁ」
「へへ……ごめん」
「タオルあんがとね」
「常備しててよかった」
「まーしーなら持ってんじゃねーかなーって、ちょーっと予測してたけどな。やっぱりだった。さすが」
[……夫婦やんこんなん]
微振動をスラックスポケットの中で感じ、はたと気が付く。皆本が返事をくれたかもしれない。「そうだ」と目を上げて、瓶底みたいなメガネをかけ直す。
「あの、剣」
「ん?」
「僕、すぐ変われるわけもないから、実行に移すまでに時間かかるかもしれないんだけど――」
「まーしーは変わんなくていいよ。そのまんまで、俺が昔から大好きな優しいまーしーだしな」
「――あ、いや違う。そ、そうじゃなくて……」
遮られてしまった言葉を取り戻す。剣の一言一言に、心の柔らかいところをきゅんと逐一摘ままれているような心地で、言いたいことの傍らで赤面が増した。
「ふ、踏み込んでみようと、思うんだ。僕も、剣みたいに」
[よっしゃ、ハッキリ言い切られ! ツルギ「何のこっちゃ?」てハテナんなっとるわいや。ユズキにガァーン言うたるて宣言しィね!]
「えとえとだからそのっ。何もしないよりいっそ当たって砕けてみたいと思ってっ!」
ライナルトに背中を蹴られた気分だ。勢いに乗せて、一息の早口で言い切ってしまった。
「もしかして、俺がさっき『
「違う違う! ちゃんと自分で考えて決めたことだよ。で、考えてるうちに、僕も知りたくなったんだ」
何をと訊ねられる前に、僕は照れ混じりに口角を上げる。
「『結果を越えた可能性』、ってやつ」
切れ長の整った両目を見開く剣。
「まーしー、ここ二、三日でスゲー変わってくね?」
「かっ、変わってない全然っ。まだまだだって! 僕は全然変わってないけど、き、『きっかけ』が勝手に、なんだかものすごく、僕目掛けて刺さりに来てるから……」
「フハッ! いい兆候ってやつですな」
傘をバフンと開いて、剣が一歩出ていく。
「告白するって決めたまーしーは、充分変わったと思う。もちろんいい方向に。スゲーよ、まーしーは」
「剣……」
「つーか、まーしーが砕けることはねーと思うんだけどね。だから告白しないのかなーって思っただけだったんだ」
「そ、そうかな。あの、ありがとう」
「どーいたしまして」
剣がいつもの笑みに戻った。ホウと胸を撫で下ろす。
「ハハ、つーかいつもまーしーが俺に寄り添ってくれっから、俺なりにアレンジして真似してるだけなんだけどさ。けど真心は本物!」
[なんけェ。やっぱりお互い様やねか]
本当だ。ライナルトの言うとおり、持ちつ持たれつという拠り所だったんだ。
どちらからともなく、学校方面へ一歩、一歩と歩みを進めていく。
「あの、ぼ、僕が、フ、フラれたら、また『いつもみたいに』、慰めてくれる?」
「当たり前! 万が一億が一そうなったときは、いつもみたいに一緒に乗り越えればいいだけだ」
「う、うんっ!」
「フハハ、頑張れぇまーしー。そういう気持ちと闘うことも、精神力の成長の一環だと思うしな」
[やっぱツルギ大人やなぁ。
精神力の成長か。確かに、もう一八歳だもの。脳ミソだけでなく内面も成長していかないと釣り合いが取れないよね。
「なぁまーしー。ガッコまでダッシュできる?」
「恐らく。マラソンならなんとかイケるので」
「ハハ、じゃガッコまで長距離走だ!」
「あはは! 水跳ねる!」
普段ならば余裕綽々で教室へ入って雑談をしたり読書をしているところだが、今日は遠回りをしたお陰で予鈴ギリギリの到着になってしまった。
僕は大して濡れていなかった一方で、剣は雨の中を走ったがためにジャージに着替えてから席に着いた。朝のホームルームでそれを担任に突っ込まれたものの、剣はお得意の冗談でかわしつつ教室内の笑いを華麗に
「うーん、やっぱりジャージじゃなくて道着のが格好ついたかな?」
一時間目が始まる前、剣は冗談を言いながら教室の後方に制服を吊るしていた。
「道着着たら、なんとなく防具着けたくなるんじゃない?」
「一理ある。なんなら竹刀持っとく?」
「フフ! 剣だけ部活始まるね」
剣を拭いた僕のタオルも傍に引っ掛けて、渇くのを待つ。そうしていると皆本がトタトタとやってきた。
「コラー、遅刻ギリギリコンビ」
「ヤベェ、皆本センセーだっ」
「プフッ! 皆本、おはよう」
「ふふふっ、二人ともおはよん。成村くん、本当に道端に捨てられていた仔犬に傘を貸してきたからずぶ濡れだったのかな?」
「おっ、さっきのあれ真に受けてんのォ? 皆本は純粋ですねぇ」
「えー? じゃあ嘘?」
「さてさてどうでしょう? 真意は俺とまーしーのみぞ知る、という……」
「えー、ずるぅい! 真志進くんと秘密共有?」
「み、皆本。そんな御大層なものじゃないよう」
「うーん、朝から降ってたしさすがに傘無かったわけじゃないとは思うんだよねぇ」
きゅんと眉間を寄せて考えている皆本が眩しい。かわいい。癒される。
[
どうやって?
[折見て精神交換すんがいぜ。当たり前やんけ]
「ねぇねぇホントはどうだったの? わたしにも教えて真志進くん」
「ダメ! ……あ、違。み、皆本はいいよっ!」
「プフッ、まーしー何テンパってんだよ」
剣はクスクス笑っているけれど、皆本は瞬間的に
言えない秘密も、案外悪いことばかりではないかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます