君の装い

霧江サネヒサ

君の装い

 中を穿ち、律動を開始すると、彼女は白く滑らかな脚を男の腰に絡ませた。柔らかな肌に指を這わせると、女はくすぐったそうに身を捩る。


「気持ちいい?」

「うん」


 男の質問に、短く答えた。

 上気した頬、濡れた瞳。

 嘘を言ってはいないだろう。安心して、彼女を思う存分貪り、男は眠りについた。


 深夜、ラブホテルで火災が発生し、恋人たちは災厄に見舞われる。

 天井が燃え落ちてきた一室では、女の悲痛な叫びが響いていた。


「誰か……! 誰か助けて! 動けない人がいる!」


 恋人である男が瓦礫に足を挟まれ、避難出来ずにいるのだ。女の顔は、焦りと緊張で染められている。


「こんな……このままじゃ……」


 女は真っ青になって、うわ言のように呟いた。

 消防車はまだか。サイレンの音は聴こえない。それどころか、火災報知機も鳴っていない。

絶望的な静けさと炎が襲い来る。ふたりを殺さんと、煙が巻きついて来る。


「俺はいいから、早く逃げろ……!」

「でも…………」


 男の台詞を聴いた彼女は口を引き結び、かぶりを振った。


「……私がなんとかしないと」


 彼女は覚悟を決めて、両手を首の後ろに回すと、今まで全く存在を感じさせなかった継ぎ目を開き、服を脱ぐように皮を脱いだ。


「一葉……?」


 目の前の光景に理解が追い付かない。

 脱皮をする虫のように、ずるりと彼女の背中から出てきたのは、中に収まるはずのない体格差がある男だった。

 何が起きているのか分からない。ただ、内臓が冷たくなっていく心地がする。

 男は一葉を――――脱いだ皮を鞄に放り込み、裸のままで瓦礫を三樹男の体の上から退かした。


「早く逃げなきゃ」


 聴いたことのない声がする。

 得体の知れない男はガウンを素早く羽織り、鞄を肩に掛けると、片足を引き摺る三樹男を支えて歩き出した。

 三樹男は幻の中に囚われているような感覚に吐き気が込み上げる。

 きっと悪い夢を見ているのだ、煙を吸って気絶したのだと。そうに違いない。

 見知らぬ男に連れられてホテルの外に出たところで、彼は意識を失った。




 病院で目覚め、最初に彼女、森島一葉と目が合う。


「三樹男!」


 彼女は飛び上がるように喜び、男に抱き着いた。柔らかくて落ち着く感触と、 一葉の香りがする。


「一葉……良かった…………」


 安堵と、生還した喜びで彼女を強く抱き締めた。


「苦しいよ……あっ」


 小さく声を上げる一葉。どうやら、ネックレスがとれてしまったらしい。


「これ、よくとれちゃうんだよね」


 ネックレスを着け直す、その仕草が嫌な記憶を呼び起こした。

 皮を脱ぐ、見知らぬ男。化け物。


「…………お前、誰だ……?」

「私は森島一葉だよ?」


 本人も予期せぬ呟きに、一葉は動揺もなく平然と答えた。


「……ふざけるな」

「ふざけてないよ」

「一葉を殺したのか?!」


 映画や漫画で見たような、得たいの知れないものが彼女を襲う凄惨なシーンが脳内を埋め尽くさんとする。


「殺してない。着てるだけ」


 化け物。

 化け物!


「一葉を返せよぉ…………」


 目の前の彼女の皮を被った存在に、恐怖を感じる。三樹男は、無意識のうちに距離を取ろうとした。


「私が一葉なんだよ。彼女を着るようになったのは、昨日今日の話じゃないんだから」


 化け物が三樹男の腕に触れ、諭すように語る。


「それは…………どういう…………?」

「私は、昔から森島一葉なんだ。ずっと三樹男と一緒だったのは私。君が好きな一葉は私」

「なに、なにを…………」


 化け物は訳の分からないことを言う。


「夢だ。これは。悪夢だ」

「ごめんね。三樹男が辛そうなの、私のせいなんだよね?」

「うるさい! ひとりにしてくれ! 何なんだよ!」

「……ごめんね」


 彼女は、それから一度も三樹男の前に姿を現さなかった。

 退院する日が来ても。

 実家に戻った。いつも通りだ。

 大学にも行った。いつも通りだ。

 ただ、一葉には会わなかった。


「お兄ちゃん、元気ないね? まだ痛むの?」


 退院から数日経ったある日、三樹男は妹に訊かれる。


「いや、そうじゃないけど」

「さては、一葉ちゃんと喧嘩したんでしょ~?」


 妹は明るい調子でふざけてきた。その気遣いが、今は癇に障る。


「……ああ、そうなんだ。よく分かったな」


 三樹男は、努めて自然に聞こえるように言葉を返した。


「そりゃあ分かるよ~。何年、兄妹やってると思ってんの」

「ははは……そうだな…………」


 何年、一葉と共にいたのだろう。この時間は何だったのだろう。

 足元が砂のように崩れていく。

 あの化け物は、なんだ? どういうものなんだ?

 三樹男の中に疑問と怒りが満ちていく。

 一葉はどこに行った?

 自分は、あの化け物に会わなくてはならない。覚悟を決めた。

 化け物は、幼馴染みで恋人の森島一葉の家にいた。

 彼女の両親が普通に過ごしていることは、三樹男の両親伝いに知っている。

 彼女の両親は本物か? 自分の親は? 妹は?

 もう分からない。


「お前は誰だ?」

「だから、森島一葉だってば」

「一葉になる前があるんじゃないのか?!」

「それは……でも、あれは……」

「本名を言え……!」

「本名じゃないけど、舞賀広だよ。これは、知らない人が勝手に付けたんだ。本名は、やっぱり森島一葉だって」

「なんだよ、知らない人って?」

「両親の振りして、私と一緒に住んでた人たち。何者なのかは、分からない。小さかったし」


 研究者のようなものだったのではないか、と化け物は言う。


「もうお前が何者かはいい、頼むから一葉を返してくれ」

「それは私。中学生の頃に私のことを好きになったって言ったよね? それも私」

「いつから……一体いつからお前が一葉になった……?」

「五歳の頃から。だから、三樹男が好きな森島一葉は私なの」


 五歳以前の森島一葉を、桜井三樹男は特に好きだった訳ではないだろうと言いたいらしい。


「そういうことじゃ……そうじゃ、なくて…………!」

「なに?」

「それは…………」


 自分が何を言っているのか、何を言えばいいのか、分からない。

 だが、必死に思考する。


「でも、お前は五歳の一葉を殺したんだろう……?」

「殺してないよ、着てるだけ」

「じゃあ一葉を元に戻せるのか?」

「それは、無理だけど……一葉は私だし……」

「やっぱり殺してるじゃないか!」

「そんなこと……」


 五歳の子供を殺した奴のことなど愛せるか! 三樹男は憤り、この化け物は赦されない悪だと断定した。


「もういい。お前なんて……」


 気持ち悪い。この化け物。

 三樹男は頭を抱えていた両手を、だらりと下げ、一葉の皮を被っている男を睨む。


「脱げ」

「え……うん…………」


 化け物は言われた通りに皮を脱いだ。


「これでいい?」


 知らない男。知らない声で、知らない香りの。


「服を着ろ」

「これしかない」


 これ、とは森島一葉の皮のことだろう。


「父親の」

「ああ、うん……」


 一階の父の部屋へ向かい、服を借りた後、二階の自室へ戻る途中で、三樹男が待ち構えていた。


「お前は嘘を吐いてるんだ……一葉を返せ…………一葉を返せよ化物ォォォ!」


 三樹男の手には包丁が握られており、彼は正気ではない。


「私を捌いたら、森島一葉が取り出せるとでも? 無理だよ、逆なんだから」

「死ねぇ!」


 桜井三樹男の精神は限界を迎えている。

 突進してくる三樹男を躱し、トン、と指先を彼の後頭部に当てる。そして、そのまま下に向けて直線を引くと、三樹男の頭は裂けていく。

 首も、服の下の背中も、裂ける。中身は失われ、ぺらぺらの皮になる。

 三樹男が理性的であれば、化け物とは戦ってはいけないと考えられたかもしれないが、全てはもう遅い。


「が……あ…………」


 包丁が、カラカラと音を立てて床に落ちた。

 それから、服も床に崩れ落ちる。

 化物と呼ばれた男は父親の服を脱いで、それから桜井三樹男を着る。着ると、彼の記憶を読み込める。

 ふたりの思い出。出会いの記憶。

 五歳の森島一葉と桜井三樹男がキャッチボールで遊んでいて。羨ましくて。

 ボールを取りに「私」のいる茂みに来た一葉を着て、三樹男と遊んだ。同年代の子と遊ぶのは初めてで、とても楽しかった。

 別に、一葉の振りをしようなどと意識はしていない。

 時は流れて、同じ小中高に通うふたり。

 高校一年生の頃、三樹男は一葉に告白し、恋人になる。大学も同じで、恋人関係も継続。

 あの火事までは、円満な関係だった。

「私」は、あの選択をしたことを嘆けばいいのか。考えても仕方ないことだけれど。

 可哀想なふたり。


「やっぱり、君が愛してたのは私じゃないかぁ」


 三樹男を着た、薄く笑う男の両目からは、涙が流れていた。


「これから、私は君を装って……お前の思い出と共に生きていくよ、俺……」


 三樹男と一葉は、ずっと一緒に居たのだ。だから、彼の振りをするのなど、造作もないはず。

 服を着てから、桜井三樹男は涙を拭い、自室に戻って女の皮をゴミ箱に放り込んだ。

 それから、鏡を覗き込み。

「お前だけでも、普通に死なせるから」と呟いた。




 桜井三樹男は、眠るように息を引き取った。

 享年七十八歳。

「私」が桜井三樹男を着てから五十七年の時が流れた。


「生涯独身だったね」

「恋人、帰って来るかもしれないって思ってたんだろう」


 葬式に集まった親戚のお喋りが聞こえてきた。

「私」は三樹男の死体の中で生きている。

 桜井三樹男という服さえ脱げば、変わらず自分は生きていけるが、「私」はそうはしない。

 式の最中、棺の側で妹が泣いていた。彼女は好ましい人物だったので、「私」も悲しくなった。

 その後、火葬場への移動が始まる。

「私」が、このままでいなくては普通の死にはならないので、「私」には焼死するしか道がない。

 この死に様を、皮肉なものだと感じる。森島一葉はゴミ焼却所で焼やされただろうから。

「私」は、ゴミとして燃やしてしまった彼女には悪いことをしたと、少し後悔している。しかし、ふたりも着ることは出来ないので、許してほしい。

 それから、あの火事を逃れたのに、「私」たちは結局は燃えるのである。

 舞賀広などという名ではなく、森島一葉とは言い難く、桜井三樹男とも言えない者は、一声も上げずに、自らの愛に殉じて死んだ。

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君の装い 霧江サネヒサ @kirie_s

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