第8話 韓信を斬首に処す

 天幕に入った途端、張良は俺に抱きついてきた。

 豊かな胸を押し当て、甘えた表情で俺を見上げる。

「なぜもっと早く来てくれなかった。ずっと待っていたのだぞ」

 拗ねた口調が恐ろしく可愛い。


「済まない。でも、俺にも事情があったんだからな」

 俺は彼女の額を指で突っついた。


 もう、と張良は口を尖らせる。

「韓信の事を想い続けたら、こんなになっちゃったよ。ほら」

 そう言うと張良は服の裾をゆっくりとたくしあげていく。

 ほっそりとした脚。真っ白い太腿。でもその更に上、股間には俺もよくモノが…。

「うぎゃー!」

 俺は悲鳴をあげた。やはり張良は男だった。


 そこで俺は、はっと我に返る。

 俺は天幕の前で一人、ぼーっと立っていたのだ。


「やかましいぞ! 韓信お前、居眠りしていて護衛が務まるか。この愚か者」

 天幕から張良が出てきた。手を腰に当て、俺を睨んでいる。

 俺は楚軍から漢軍へ鞍替えして、この張良の護衛役になっていたのだ。


 俺は思わず、張良の小柄な身体を上から下まで見てしまった。やはり胸は全然ない。

「そうだよな、張良は男だもの」

「何を見ている。変質者か、お前は」


 俺は、ふと違和感を覚えた。

 いま張良は胸を隠すような仕草をしたけれど。そう、まるで女みたいに。


「実は人類発祥以来の男女分化の秘密について、深く思索を凝らしておりました」

「ほう。要するに女について妄想を巡らしていた、という事だな」

「まあその通りです。参謀どの」

 俺は答える。見ると張良は肩を震わせていた。


「……お前はクビだ、韓信」

 怒りを押し殺した冷たい声で張良は宣言した。


 ☆


 劉邦は漢中王に任ぜられた。

 漢中、そして蜀というのは中原の南西部の広大な地域をいう。だがその大半は山間部で、都市と呼べるものは一部の盆地にしかなかった。

 秦王国の時代に開発が進んできたとはいえ、いまだ各地で蛮族が暮らす、僻地中の僻地だった。

 当然、そこへ向かうにも道らしき道はない。山中は僅かに踏み固められた獣道のような所を歩くしかない。それでもまだましな方だった。


 やがて漢軍の一行は川沿いに出た。

「冗談だろう。ここを進むのか」

 それは渓谷の絶壁に穴を穿ち、そこへ杭を打ち込んだうえに板を敷き並べた桟道さんどうと呼ばれるものがあるばかりだ。

 大きな荷物を背負った兵達が、恐る恐る足を踏み出した。


 張良の逆鱗に触れてしまったが、そのまま劉邦軍を追い出されなかっただけでも良しとすべきだろう。

 俺は張良の命令で簫何しょうかという男のもとに回された。


「ほう、あなたが韓信どのですか。よろしくお願いします」

 この男は、俺のような下級士官に対しても丁寧な物腰で接してくれた。すぐに怒り出す張良と違い、よくできた人のようだ。


「では、さっそくこれを運んでもらいましょう」

 その莫大な荷物を前に、簫何はにこやかに笑った。

 前言は撤回する。この男は鬼だ。


 ☆


「ほう、軍とは水の流れのように進むべきなのですか」

 簫何は何度も頷いた。

「ああ。『孫子 虚実篇第七』にそう記されている。つまり一定の形を持たず、常に敵の実を避け、虚を突くのだな」

 いつの間にか、俺は戦術の解説をさせられていた。この簫何という男は聞き上手だ。実に気分良く俺を喋らせてくれる。


 大荷物を背負い、桟道を進む俺の尻を後ろから蹴り上げたやつがいた。おれはよろめいて谷底へ転落しそうになった。

「誰だ、殺す気か!」

 振り向くことも出来ず、おれは叫んだ。


「簫何さまに対して態度がでかいぞ、韓信。少しは控えろ」

 声で分った。張良だった。こいつ、いつから俺の後ろにいたのだろう。

「何だよぅ。もうお前の部下じゃないぞ、俺は」

「分っているとも」

 そこで張良は声を落とした。


「次の宿営地に着いたら、私と一緒に来い。漢王に引き合わせたい。よろしいですね、簫何さま」

「はい。わたしも賛成します」

「ちょっと待て、何の話だ」


 ☆


「この、韓信を登用なさる気がないのなら、この場で首をお斬りください」

 もちろんこの男の首ですが、張良はそう断言した。

 目の前に座る劉邦は不思議そうに俺を見ている。


 簫何と張良という漢軍の最高幹部ふたりに引っ立てられるように、劉邦の前に連れてこられた俺だった。

「なるほど、あの時の小僧か。本当にわしの部下になっていたとはな」


「では韓信、お前はこの軍でなにがやりたい。親衛隊か、先鋒隊長か」

 俺は一瞬落胆した。

「……正直なところを言ってもいいか、漢王陛下」

「お、おう。よいぞ」


「俺は、全軍の指揮がしたい」

 劉邦の表情は変わらなかった。これは彼が剛胆だとかそういう事ではないようだ。ただ単に俺の言った意味が分らなかったらしい。


「あの、すまん。何を言っているのだ? なあ、簫何。わし、耳がおかしくなったのかな。こいつ今、全軍の指揮がどうとか言ったように聞こえたのだか」

「左様でございます、陛下」


 俺は劉邦という男の理解能力を過大評価していたらしい。こうなったら、もう単刀直入に言うことにした。

「漢の大将軍に、俺はなりたいのだ」


 劉邦の頬がぴくぴくと引き攣っている。

 笑っているのか怒っているのか分らない表情でしばらく俺を見ていたが、急に立ち上がって劉邦は叫んだ。


「こ、この男の首を斬れ!」

 ぶるぶる震える手で俺を指差す。

「わしを愚弄するにも程がある。広場へ引き出して斬首せい!」



「残念だったな、韓信」

 冷静な表情を崩さず、張良が言った。


 



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