第7話 滅亡の丘に立つ

 秦の都、咸陽は炎と煙に包まれている。

 盛大に立ち昇ったその煙は強い風に乗り、郊外の楚軍の陣営まで流れてきていた。

 俺はその煙たさに閉口しながら、蒯通かいとうが残していった『孫子』を読んでいた。


 全国為上 破国次之

  ―(敵の)国をまっとうするを上とし、その国を破るは之に次ぐ―

 全軍為上 破軍次之

  ―敵軍をまっとうするを上とし、その軍を破るは之に次ぐ―


 (『孫子』 謀攻篇第三 その一)


「となると、これはやり過ぎなのだろうな。蒯通よ……」

 俺は小高い丘の上からその惨状を見て思った。

 降伏してきた秦の最後の王、子嬰を殺したうえ、街に火を放つなど。


 長身の男がこちらへ向かって歩いて来るのに気付いた。武将らしからぬ温和な表情のその男は、俺を見て片手をあげた。


 隣に腰を下ろしたのは、将軍の鍾離昧しょうりまいだった。

「お前は、あの祭りに加わらないのか?」

 彼は眼下の街を指差した。

「ああ。火事場泥棒は好きじゃない。かと言って、女を抱きながら焼け死ぬのも、いい趣味じゃないしな」


 くっくっ、と鍾離昧は笑った。

「お前らしいな。そう思って酒を持ってきた。飲むか?」

 下げていた大きな壺を掲げてみせた。

「もちろん、いただくとも」


 俺たちは差し向かいで酒を飲み始めた。

「うまいな、これは咸陽の酒か」

「心配するな。ちゃんと金を払って買ってきたものだぞ」

 ……おそらく嘘だろうが、これ以上野暮は言うまい。

「そうか。なら遠慮無く」


 ☆


 先にこの咸陽を陥落させたのは、別働隊の劉邦の軍だった。

 楚の懐王は軍議の場で、先に咸陽に入ったものを関中王とすると宣言していた。それに従うなら劉邦がこの咸陽を中心とした関中の王となるべきだった。

 だが、飾り物に過ぎない懐王の言葉に従う気は項羽にはなかった。


 参謀の笵増はんぞう老人は劉邦を罪に落とし、処断するつもりだったようだが、項羽はなぜかそれを制止した。

 命拾いした劉邦は、論功行賞により漢中の王とされた。

 果たしてちゃんとした道があるのかどうか分らない程の、峻険な山岳と渓谷を越えて行かなければ、漢中に辿り着くことは出来ない。

 これは実質上の追放だった。


「だが、不思議だな」

 鍾離昧はぐい、と酒をあおった。

「北方の鉅鹿では、秦兵十万人を平然と生き埋めにした項王が」

 なぜ劉邦を許したのだろう、鍾離昧は納得が行かないようだった。

 だが。

「俺には興味がない」

 あえて無関心を装う。実を言えば、並んで始皇帝の行列を見物した時から気にはなっているのだ。なぜか、惹かれるものがあの親父にはあるのだった。

 それに、劉邦の傍に仕える軍師の張良という男もだ。


「おお、そうだ。お前を占ってやろうと思っていたのだ」

 そう言うと鍾離昧は、細く切った竹にそれぞれ異なる模様を描いたものを何本も取り出した。

筮竹ぜいちくというものだ。韓信の将来を占ってやる」

 それを地面に並べていく。

 やがて結果が出たらしい。鍾離昧は微妙な表情を浮かべている。


「どうだ。いい結果だったのか」

 俺が問うと、鍾離昧は頷いた。

「そうだな。お前は大将軍までなれると出た」

「本当か! それはいいぞ。俺の目標がかなうと云う事だ」

 ああ。だがな。と彼は続ける。


「その先、お前は一国の王になるだろう」

「いいじゃないか」

 思いもよらない将来図だった。


「だがそこで、大いにしくじる」

「だめじゃないか」

 こういうところは、やはり俺らしい。


「ところで、自分は占ってみたのか」

 俺が訊くと、鍾離昧は苦笑した。

「ああ。おれは将軍止まりだとさ。まあ、これぐらいが丁度いいのだろう」

「そうか。では飲め」

 俺は酒をすすめた。

「うむ。では将来よろしく頼みますぞ、大将軍どの」


 ☆


「変な噂を聞いたのだが」

 だいぶ酔いが回った頃、鍾離昧が切りだした。

「なんだ、噂とは」

 俺も上機嫌になっていた。この男と飲む酒は美味いのだ。つい過ごしてしまったようだ。


「項梁将軍を謀殺した奴が、この陣営にいるらしいのだ」

 俺は一気に酔いが醒めるのが分った。

「な、なんだそれは。今更そんな話をするとは」

「笵増老人がしきりと進言しているらしくてな。どうしても下手人を見つけるのだと息巻いているのだ」

 背筋が寒くなった。あの無表情な老人がそこまでの執念をみせるとは。


「笵増老人は、自分が老い先が短いことを分っているようだ。……それまでに、盟友だった項梁将軍を殺した犯人を見つけたいのさ」

「そ、そうか」


「韓信」

 鍾離昧は燃え上がる街の炎を見ながら静かに言った。

「もし心当たりがあるのなら、だが」

「……」

「今ならこの陣営を抜け出すのは容易い。兵の一人や二人、いなくなったとしても、あの炎にまかれて死んだと思ってもらえるだろうからな」


「鍾離昧」

「なんだ、韓信」


「この酒は、美味かった」

「ああ」


 ☆


 俺はその日のうちに楚の陣営を出奔し、劉邦の軍(今は漢軍と呼ぶべきだろう)へ駆け込んだ。

 陣内は、出立の準備で慌ただしかった。


「張良どのに会わせてくれ。以前、道案内をした韓信というものだ!」

 俺は大声で叫んでいた。


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