第3話 個人授業のはじまり

 巨大な馬車の高みから俺たちを見下ろしていた、秦の始皇帝が死んだ。


 あの時の、人を人とも思っていないような冷たい視線は未だに俺の記憶から消えてはいないが、どこか胸を撫で下ろす気分だった。


 あの男以外であれば、怖いものはない。そんな気がした。

 それだけあの『秦始皇』という存在は、俺のなかで胸に打ち込まれた鋭い杭のようにいつまでも痛み続けていたのだ。


 時を同じくして、国の伝説的な名将、項燕こうえん将軍が兵を挙げたと伝わってきた。その名の下に多くの民が集まっているという。

 項燕将軍の名前なら俺も知っている。それだけの有名人という事だ。

 俺もその軍に加わるため、旅支度を始めていた。


「あんた、馬鹿じゃないの。項燕将軍って言ったら、もうとっくにこの世にはいないでしょ。死んでるのよ、その人は」

 俺の耳元で、キンキン声で喚いている女がいる。


「うるさいよ、蒯通かいとう。それ位、俺だって知っているさ」

 名将項燕を称しているのは、陳勝という男だ。項氏とは何の関係も無い。

 するとその女は、あからさまに俺を見下した表情になった。


「あの連中の正体を分っていて、それでも麾下に付こうというの? あんな小手先の欺瞞に頼るような連中に先は無いよ」

 この女の言うことは正しい。でもこの世は、それだけではないのだと俺は思う。現に、この男の下には多くの反乱軍が集まっているのだ。

 あの兵を思うまま動かしたい、俺はそればかりを考えていた。


 俺は街で助けた、この生意気な女と旅を続けていた。

 それまで父親と一緒に行商をしていたと云うその少女だったが、俺はそれに半信半疑だった。ただの行商人にしては、諸国の情勢に通じ過ぎている気がする。


「とにかく、私は反対だから。あんたにはもっと相応しい主君がいるはずよ」

 へえ、俺は彼女の顔を見直した。

「なんだよ、えらく親切じゃないか。もしかして俺に惚れたのか」

 すると、蒯通の顔色が変わった。


「図に乗るのも大概にしなさいよ。私はあんたを利用して、この中原に一大商圏を確立しようと思っているんだから。途中でつまらない死に方をされては困るの。いい、分ったら自重しなさいよ。今は様子を見るときだからね」


 しかし、日に日に陳勝の軍は勢力を拡大していき、戦闘では常に秦の正規軍を圧倒するまでになっていた。

 俺の焦りは日に日に募っていく。


「どうせ今から行ったって、背が高いだけで兵力も何も無いあんたを相手にはしてくれないから」

 平然と蒯通は言う。

 実際にその通りなのだろうが、どうにも癪に障る。


 ☆


 今は亡き楚国の重臣といえば『楚辞』で名を残す屈原の屈氏が名高い。それに次ぐ名声を持っていたのが武将の家系である項氏だ。

 陳勝が詐称した項燕もその一族だった。


 実際にその項燕の血を引くのが、江南で兵を挙げた、項梁こうりょうという男だった。

 俺は蒯通の薦めもあって、その元へ向かう事にした。


 項梁の軍で出会ったのは、どこかで見覚えのある男だった。

 背が高く、顔がひょろ長い。さらに、長いあご髭を蓄えたこの男。

 そうだ思い出した。

 始皇帝の行列を並んで眺めた男だ。

沛公はいこう』と周囲の連中は呼んでいた。


 沛公、劉邦りゅうほうと。


 そして、あの時には居なかった小柄な男に俺は目を留めた。

 髭が無いその顔は少女のように幼く見えた。普段はもの静かに、足音さえ立てずに劉邦に付き従っているが、ふとした時に鋭い目付きになった。

 張良、あざなを子房というのがこの男の名前だった。


 やがて、この男は滅んだ戦国六国のひとつ、『韓』の宰相の一族だと知った。

「こんなやつまでいるのか、劉邦の軍は」


 しかもこの張良という男は、博浪沙において、あの始皇帝を襲撃した伝説の男だというではないか。

 俺はこの劉邦という男を見直した。どうやらただのヤクザ者の親分では無いのかもしれない。


 もっとも、俺の所属は、総大将である項梁の甥で、項羽という男の下だった。しかも前線の指揮官ではなく、大勢いる彼の身辺警護役の中の一人だと云う事に俺は落胆した。


「最初から指揮官なんか、なれる訳ないでしょ。まだ、一兵卒でないだけマシというものじゃない」

 蒯通があきれたように言った。

「大体、あんた兵の動かし方さえ知らないでしょ」


「何をいう。おれは天下の大将軍を目指す男だぞ。兵ぐらい動かせるに決まっているだろう」

 俺は憤慨したが、はいはい、と蒯通に軽くあしらわれた。


「じゃあ、自軍の二倍の敵が目前に迫りました。はい、まずどうするの」

「突っ込む」

 俺は断言する。だって、他になにがある。


「…ま、まあ、いいや。では、その敵が包囲反撃して来ました」

「反撃を全力で押し返す」

 うーん、と、なぜか彼女は顔を曇らせる。ついには眉間を押さえてうつむいた。


「どうだ。ぐうの音もでまい。これが韓信さまの戦略よ!」

「あのね、韓信」

 蒯通はため息をついた。

「言いたくはないけど、あんた、バカなの? そんなんじゃ一軍の指揮官どころか精々、小隊長止まりだから」

 言われている意味が分らない。


「兵書とか、読んだことある?」

「分りきった事を訊くな、蒯通。兵書どころか、俺は字が読めないのだからな」

 これはこの当時としては別に恥じることではない。だが自慢する程のことでもないけれど。


「ああ、そうだろうね。これは……困ったな」

 どうしよう、今のうちに見切りをつけようかな。蒯通が小さく呟いた。


「ここに『孫子』があります」

 蒯通は荷物の中から巻いた竹簡を取り出した。

「知ってるよね、『孫子』くらい。ああ、知らないか…ごめん、ごめん」

 どうもこの女は、俺の事を完全にバカだと断定したらしい。少しくらいなら知っている箇所だってあるんだからな。


「今夜から、この兵書について徹底的に講義します」

 急に先生口調になった。くそ、なんて生意気な。

「ちゃんとした将軍になれるよう、頭に叩き込んであげますから。いいですね」

 はあ、俺は小さく返事した。


「ところで、今夜からと云うのはあれか?」

 俺はこの女の真意に気付いた、と思った。

「当然ひとつ寝台で、寝物語という事なのだろう?」

 なんだ。結構、やらしいな、この蒯通という女は。でも、そういうのって、俺も嫌いじゃないぞ。


 うへへへ、と笑う俺を蒯通は凄い目で睨み付けた。

 手にした『孫子』を両手で握りしめる。ぶるぶる、と手が震えている。

「ん?」


 電光石火。俺の頭部に『孫子』の竹簡が叩き込まれた。

(頭に叩き込むって、こういう意味じゃないのでは……)

 そのまま俺は気を失った。



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