戦術と妄想、ときどき女。

杉浦ヒナタ

第1話 淮水のほとり、妄想は炸裂する

 俺の前には美しい女たちが整列している。

 それも、ただの美女ではない。この国の王が選びに選んだ千人もの美女だ。その全てが王の後宮に侍る寵姫たちなのだ。


 風にのって流れてくる脂粉の匂いが心地よく俺の鼻をくすぐる。

 俺はこれから、この女どもを思うままに調教してやるのだ。


 ☆


 おっと、間違えた。

 調教ではない。軍事訓練を施す『調練ちょうれん』であった。

 この国の王が俺の司令官としての能力を試すために、後宮の女どもを用意したのだ。おそらく余興のつもりなのだろうが、俺は本気だった。


「よいか、俺が太鼓をひとつ叩いたなら、全員右を向け。二つ叩いたなら左を向くのだ。分ったな」

 俺は女どもに指示を伝える。


 はーい、などと笑いながら答える女たちだった。まったく言うことを聞きそうにはなかった。だが、すぐにその態度を改める事になるだろう。


 俺は太鼓をひとつ叩く。

 笑いさざめく女たちは全く指示に従わない。

 二つ叩くが、やはり彼女らは動こうとはしなかった。


 何がいけなかったのか、俺は真剣に考え込む。


「よし、分った。いきなり俺のような男が指示を出しても全員には伝わるまい。この中で最も位の高い姫よ、前に出たまえ」

 同格なのだろう、二人の女が進み出た。

 どちらも、いままで俺が見た事が無いほどの美女だ。なるほど、王の寵愛を受けるのも納得だ。


「うむ。それではお前たちを二組に分ける。この二人はそれぞれの隊長だ。隊長は俺の指示を部下に伝え、必ず指示に従わせるのだ」

 五百人ずつに分けた女たちを前に、俺はもう一度同じ説明をした。

「太鼓を一度叩けば右を向け。二度なら左だ」


 太鼓を鳴らすが、女たちは前より一層笑いころげるばかりだ。

 女ばかりではない。居並ぶ王とその側近たちも俺を指差し哄笑している。


「よし、一度目は命令が十分に伝わらなかったのだろうから、司令官つまり俺の責任だ。しかし今回は十分に命令の内容を伝えた。それでも指示を聞けないというのだから、これは隊長二人の責任である」

 俺は女たちを見回した。

 それでも彼女らは顔を見合わせ笑っている。


軍吏ぐんりに命ずる。この二人の隊長の首を斬れ!」

 俺は厳しい声で叫んだ。


 二人の女は軍吏によって地面に引き据えられた。

 慌てた王が止めに入るがすでに遅い。

 女の首は地に転がった。

 演習場に甲高い悲鳴が上がった。


「よいか、将軍の命令は絶対である。この女どもの次に位が高い者、前に出よ」

 静まりかえった女群から、泣きながら二人の女が進み出る。

 俺は、にやりと笑った。

 これで勝負は決まった。


 もう女たちは俺の思うままに動くようになった。

 俺はとっておきの命令を出す。

「よし、それでは女ども。

 女たちは、先を争うように俺に群がってきた。


 俺の軍装を引きちぎるように脱がせると、自身も裸になって豊満な身体をすり寄せてくる。これは想像以上に激しい。

「おいおい、そんなに揺するな。目が回るぞ」

 俺は笑いながら、左右の女たちの胸に手を伸ばした。

 耳元で女たちの嬌声があがった。

「ああ、韓信かんしんさま。こちらも……」

「韓信さまぁ……」


「おい……韓信!」

 はい?


 ☆


「……おい、韓信。起きろ、この穀潰し! なにをへらへら笑っているのだ,気持ちの悪い」

 汚いダミ声に、俺は我に返った。

 俺の目の前にはその声以上に汚らしいババアがいた。俺の肩を掴み、左右に揺さぶっている。

「そこをどけ。洗濯の邪魔だ!」

 ああ、俺は川沿いの洗濯場で妄想に耽っていたのだった。

 いまのは、兵書『孫子』で名高い、孫武そんぶの有名な逸話である。


「なあ、ばあさん。俺、腹が減ったのだけど」

 ゆらり、と立ち上がり、声をかけた。

「まったく。図体がでかいと腹が減るのも早いんだね。でも、もうお前に食わせるものは無いんだよ。川虫でも獲って食うがいいさ」


 俺はため息をついた。

 このばあさんに見放されては、もうこの街で生きていく術が無い。

「世話になったな、ばあさん」

「何だよ、改まって」

 洗濯の手を止め、こっちを見上げる。

「俺が出世したら、必ずこの恩は返すから」


「馬鹿いうんじゃないよ。最初からそんなもの期待しちゃいないさ。ただ、あんたがわしの息子に似ていたから飯を食わせてやっただけさ」

 彼女は鼻をこすった。

 その息子は秦の都、咸陽での陵墓造成に徴用され、そこで死んだのだという。


「まあ、偉くなったら顔を見せに来な。期待なんか、しちゃあいないがね」

 ははは、と洗濯をしながらばあさんは声をあげて笑った。



 俺は一振りの長剣だけを手に、この淮陰の地を旅立った。


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