聖婚

七沢ゆきの@「侯爵令嬢の嫁入り~」発売中

第1話 聖婚

 彼女は血の海の中に立っていた。


 着ている服も絞れるくらいの血に濡れ、顔も手も真紅。

 それでも彼女は表情一つ変えていなかった。


 彼女の身長は180cmを超えているだろう。

 とにかく女性としては街中で目を引くほどの長身なのは確かだ。

 けれどびっくりするほどの痩躯でもあって、彼女の体から女性らしさを見出すのは難しい。そのうえ、身長とアンバランスな幼さの残る顔立ちはまだ17、8歳くらいだろう。


 だから、この女が足元で呻いている人間たちをすべて打ち倒したと言っても信じる者はいないに違いない。


 すいと吊り上ったきつい目、薄い唇、白い肌。きつくブリーチされたざっくりと無造作なショートカット。助けを求める血塗れの男たちを見ても眉ひとつ女は動かさない。


 それなりに顔立ちは整ってはいるが、どうにもひんやりとした印象を与える女だった。


 

                 ※※※


 

 廃ビルの一室。さすがに血まみれの服は不快だったのか、彼女は誰もいない部屋に移動してシンプルなシャツとロングスカートに着替えていた。


 その部屋に入ってきた男が、そこに立つ彼女の姿を見てぱちぱちと拍手をする。愛想のいいセールスマンのようにニコニコと。


 その男は仕立てのいいスーツに身を包み、温和そうな顔をして、例えれば外資系の企業に勤務するサラリーマンといった感じだった。だからこそ、その拍手はまるでそこにはそぐわない光景だった。


「やあ高野真希さん。

 どーも。俺、あいつらを派遣した九十九連合若衆筆頭の後藤です。あれ全部俺んとこの武闘派だったんだけど、まさか全部ノシちゃうとはな。計画狂ったわ」


 彼女___真希___は答えない。ただ、茫洋とした眼差しで後藤を見つめるだけだった。


「真希ちゃんねえ、おまえ、やりすぎたの。ここらへんは俺たちのシマ。ちゅーか俺のシマな。そこでおまえらみたいなガキにデカい顔されたらこっちのメンツが丸つぶれなわけよ」

「ケツモチやウリはしてないわ」

「ケンカだけって言いたいんだろ?」


 後藤が芝居がかった仕草で肩を竦める。


「それでも困るわけ。ここで暴力を売ってもいいのは俺たちだけだ。多少ならガキの遊びで目こぼしするが、おまえらのはもうそんなんじゃないからな。おまえを女王にしたチームはでかくなりすぎたんだよ」

「だから?私たちはウタッてくる奴を殺ってるだけ」

「ご高説どうもありがとう。まあそういうわけでおまえさんには消えていただく。どう消えるかはこれから俺が決める」


 スーツの内ポケットからナイフを取り出した後藤がシースを投げ捨てる。

 そして、その切っ先を真希に向けた。


 後藤がヒュウ、と口笛を吹く。


「ナイフを眼のまん前に突き付けられてまばたきしなかったのはおまえさんだけだよ」

「たかが目ひとつだもの」

「両方潰したら?」

「別に。何も見えなくなるだけよ」

「ずいぶん短絡的だな」

「殺しに来たんでしょ?殺しなさい」


 真希の目がギッと変わった。茫洋とした眼差しはくるりと反転するように狂気をはらむ。


「____できるのならね」


 すっと真希の手が動いた。


 後藤に突きつけられていたナイフを叩き落とし、そのままその首筋へ手刀を叩きこむ。

 それと同時に、真希の長い脚が一瞬で動き、重そうな安全靴の爪先が後藤の脛を砕こうとした。


「うん、なかなか。噂通り容赦がないな。ためらわないのは大事なことだ」


 けれど、そのすべての動きを想定していたように後藤の体が前に動く。

 後ろに逃げられることよりも急に接近されることの方が攻撃しづらい。それを熟知した動きだった。


「だが軽い」


 ニヤリと笑った後藤の指先が真希の首筋の頸動脈を突き、そのまま流れるように側頭部に裏拳を入れる。

 

「予言しよう。これからおまえは脳みそ揺れ揺れで立ってらんなくなる。相手を跪かせたくなったら足より頭を狙え。衝撃が強すぎて死ぬかもしれんがそんなの俺の知ったことじゃねえ」


 後藤の言葉と同時に真希の体が床に崩れ落ちた。


「ほおらな」


 後藤が満足げに笑う。そこにはもう、サラリーマンのようだった面影はなかった。

 温和だけれど残酷な……理解不能な表情の生き物がそこにはいた。


「脳ミソを鍛えられる人間はいない。もう少し人体の勉強をしような」


 後藤が真希の背中に足を乗せた。背骨からめきりと音がする。


「どうする?このまま死ぬ?」

「喜んで」

「すげえ即答。いいんだぜ?おまえらがこの街から出てけば。正直、俺、おまえのこと気に入ったからな。俺、命を大事にしない奴は大好きだ」

「うるさいわね。喜んでって言ってるでしょ。さっさと殺して」

「あー意味わかんね。助けてやるって言ってんの。普通の奴なら泣いて喜ぶとこよ?なんで殺せなんだよ」

「生きるのもどうでもいいの。意味がないの。私より強い奴に殺されるならその方がいい」

「ふうん。そういう奴ほど拷問すると命乞いするんだよな。拷問してから殺してほしい?言っとくけど俺そういうの大好きよ?」


 後藤の足が真希の背中をぐいぐいと踏みまわる。そのとき、真希のシャツが大きくめくれた。


「なんだこれおまえ」


 そこにあったのは無数の傷跡だった。まともな皮膚の面積の方が少ないくらいだ。

 

 ひきつれた切り傷の跡。

 大小さまざまな火傷の跡。

 そして肩甲骨のあたりには対になったアイロンらしきものを当てた跡。


「昔の傷」

「は?おまえみたいな女にここまでできるやついるわけ?俺様みたいなつよーい奴に負けたことがほかにもあるのか?」

「親」


 脳へのダメージが少し回復したのか、首をひねって真希は上を見上げる。

 その眼はもう、なにもない空っぽなものに戻っていた。


「親」という言葉を口にした時にさえ、何の感情も浮かんでいなかった。


「どっち」

「母親」

「あー女は容赦ねえからなあ……」


 それからしばらく後藤は無言で真希を見下ろしていた。


「死んでもいいんだな?」

「ええ」

「よし、意思確認」


 めこり、と今度は真希の首に後藤の靴がめり込む。

 頸椎が折れない絶妙のさじ加減だ。


「ほいいまおまえ死んだ。だから今からおまえは俺の犬な」

「犬?」

「そうだ。おまえに生きる意味をやるよ。これからおまえは俺の犬になって俺に従え。いい犬になれば欲しいものはなんでもやる。気が向いたら望みどおりに殺してやる」


 後藤が真希を助け起こす。

 そして、シャツを乱暴に引き裂いた。後藤の予想通り、真希は体の前面も無残な傷でいっぱいだった。

 後藤がニヤリと笑う。


「俺すげえ好きなんだよ。強くてイカレてるヤツ」


 後藤は真希の薄いなりに女性らしい乳房などには目もくれず、その下の赤黒く蟹のように盛り上がった大きな火傷の跡を夢中でなぞる。


「たまんねえ。なあ、犬?」


 それから、何で切ったのか、首筋の一直線の細い傷跡にも後藤は爪を立てた。

 鮮血がネックレスのように真希の胸元をしたたり落ちていく。


 それを見下ろす真希の視線がほんのすこし変化した。


 わずかな動揺と、戸惑いと、他者には信じられないことに、明確な喜び。


「ほら、返事しろよ。おまえは俺の犬だ。犬なんだから絶対服従な」

「はい」

「足りねえ」

「はい。私は後藤さんの犬です」

「よくできました。いい犬にはご褒美をやろう」


 後藤が真希をハグする。

 今まで真希を痛めつけることに使われていた後藤の両腕は、柔らかく真希の背に回った。

 その間、真希の腕は戸惑うようにうろうろと動いていた。


 それを感じて後藤はハ、と吹きだす。


「怖くねえよ。大丈夫だ。俺はおまえのかーちゃんじゃねえ」


 その一言を聞いた真希は長い息を吐いた。

 そして、後藤の背にぎゅっと腕を回す。


 ククッと後藤が笑った。


「いま、犬が調子に乗りそうなこと考えちまった」

「どんなこと?」

「犬には必要のねえこと」


 後藤がまた笑う。

 相変わらず、残酷な笑みだった。


「知りたい?」

「ええ」

「じゃあそのうち教えてやるよ」


 後藤の指がまた真希の胸元の傷跡をなぞる。

 それから真希の薬指へ食いちぎる勢いで噛みつく。


 皮がはぜ、赤い肉を見せながらだらだらと血を流すそれを見て、後藤は目を細める。

 真希の唇の端もわずかにゆるんでいた。


 真希も後藤の薬指に歯を立てる。

 歯の形をした赤いリングが後藤の指を彩った。


 無音の中、割れたガラス窓から差し込む光に埃が舞う。

 神父もいない、列席者もいない、けれどそれは確かに永遠の誓いに見えた。

 

 とても、歪んでは、いるけれど。


「いつ?」


 尋ねる真希に、後藤は真希に噛み破られた指の傷へ舌を這わせながら答える。


「今ある傷より、俺がたくさん傷をつけられたら」

「そうして。そしていつか私を殺してちょうだい」


 はじめて、真希が年相応の顔で嬉しそうに笑った。

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