水葬の日々

青夜 明

あまげ編

水面花の空論 第1話

 これはまだ、俺が小学生の頃の話だ。

 俺には二つ上の大好きな姉がいた。姉はいつも真っ直ぐな黒い目で、太陽のように笑っていた。

 腰までの長い黒髪に、邪魔だからと言って、頭上に小さなお団子を二つ結んでいる。赤とひまわりのチョーカーを首につけ、向日葵や太陽のような、黄色と橙の服を好んだ。

 姉の名は、天華樋葵あまげひまりと言う。


花純かすみ!』


 明るく俺の名を呼んでは、優しい手で俺を家から連れ出し、姉の好きな向日葵畑を他愛もなく歩く事がたまにあった。

 俺の家は揃って宗教に入っているのだが、元々は親に巻き込まれただけで、俺や姉は何も信じていない。なのに、親はいつも勧誘したり、教えを保ったりするのに必死だった。


『やらなきゃいけない』


 それが親の口癖だ。

 親はいつも苦しそうで、辛そうで、溜め息を吐いたり口喧嘩をしたりしていた。

 姉が理由をつけては俺と二人で出ていったが、俺は後ろ髪に引かれながら、親の口癖に疑問を抱いていたのだ。


 ある日のこと。

 家族四人で居間にいると、母親が麦茶を入れてくれた。姉と俺がいるソファーの前の小さなテーブルに、冷たいグラスが置かれる。母親は父親とテーブルに座り、何やら身を寄せあっては小声で会話をしていた。

 俺が麦茶を飲もうとする前に、姉が俺の分のグラスを持ち上げ、キッチンに向かう。どうしたのだろうとついていくと、姉は何故か麦茶を入れ直していた。


『花純、ずっと愛してるよ』


 そう言われても、幼い俺はまだ意図が読めない。ただ、愛の音が心地良く感じるだけだ。


『おれも愛してる』


 反復してみると、姉は嬉しそうにはにかみ、いつものように手を引いてソファーに座り直した。

 親は何事もない顔をして俺達を見つめてくる。姉がグラスを持ち上げ、親に首を傾げた。


『どうしたの?』


『そのお茶、宗教で一緒の雲村くもむらさんから貰ったのよ。高いお茶だから味わいなさいね』


『はーい!』


 姉が飲み、俺も口へ流し込む。満足そうに笑った父親もグラスを傾け、母親は目を閉じながら口に含んだ。


『うっ……』


 俺以外の手からグラスが落ちて、音を立てて床に弾ける。三人は突然喉を押さえ、苦しみ、蠢く。

 驚いた俺は咄嗟に姉へ手を伸ばしたが、冷たくなった手で突き飛ばされた。


『姉、ちゃ……っ……?』


 姉はそれでも、眩しく笑っていた。


 三人は血を吐くと倒れ、痙攣して、やがて動かなくなる。残されたのは絨毯に咲いた真っ赤な花と、世界に取り残された俺だけだった。


 ○ ○ ○


 毒死、らしい。

 警察によると、液体上の透明な毒が母親の手荷物から発見されたとのこと。姉が変えてくれなかったら、俺も死んでいただろう。

 だけど、姉ちゃん、あまりにも酷だ。

 眩しい笑顔が向けられないのも、優しい手が引いてくれないのも、決して揺れなかった目が見つめてくれないのも、強い響きの声が聞こえないのも、俺にとっては苦痛でしかない。

 俺は絶望に負けて、笑うことも泣くこともできなくなった。

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