第三章 賢者は美味しいと言わせたい③

 パティシエになるならないは、ひとまず保留しよう。少し巻きでいかないと、この調子だとホットケーキが完成するまでに日が暮れてしまう。


「たまごの次は何をするの?」


 そわそわと落ち着きなく、アグリが次のミッションを待っている。

 楽しんでもらえているようで何よりだ。


「次はね、牛乳を入れるから、卵と一緒に混ぜてもらおうかな」

「ばにゃらえっせんすは?」


 ばにゃらッ!!

 私は胸の上から心臓を鷲掴むようにして、不意打ちに膝をつくのをこらえた。

 隙あらば萌えを叩きこんでくる。アグリ……恐ろしい子。


「アグリ様、正しくは、バニラよ。それだとモスみたいになっているわ」

「ちょ、リヴさん、何を!?」

「しょっちゅう言っているじゃない。にゃーにゃーって」

「しょっちゅうは言ってにゃいッスよ!」

「ほらまた今も。アグリ様も言ってやって」

「にゃーん」

「いや、鳴き声じゃなくて」

「お嬢まで! 二人とも、ネコ扱いはやめてほしいッス!」

「はいはい、ごめんにゃさいね」

「んにゃあああああ!」


 こやつら、可愛すぎか。特に、アグリの「にゃーん」がヤバかった。

 もし、アグリがネコのコスプレをして、今みたいにネコの鳴き真似でもしたら。


 ……まずい。想像だけで致死量だ。でも、生で見たい。

 萌えすぎて吐血しそうになっていると、リヴちゃんが、私にジト目を向けてきた。


「また変なことを考えていそうな顔ね」

「今度、ネコ耳と尻尾を買ってこようと思います」

「あなたの思考回路はどうなっているの?」


 ショート寸前です。でも、この萌え空間に居合わせた幸運に、格別の感謝を。

 とはいえ、これ以上は命に関わるので、アグリの質問に戻ろう。


「バニラエッセンスもここで使うよ。香りつけのためだから、ほんの数滴ね」

「すごくあまいにおいがする。ちょっとなめてみたい」

「え、舐めるの? 甘くないよ?」

「あまくないの?」


 この香りから、そう思いがちだけど、バニラエッセンスに砂糖なんて使っていないからね。

 アグリは信じられないのか、意外そうな顔が戻らない。


「一口だけ試してみる?」


 十中八九、二度と舐めるものかと思うことになるだろうけど……。

 また過保護だなんだと言われるのもアレだし、何事も経験させてあげた方がいいか。


 アグリが頷いたので、小さな手の甲に、小瓶から一滴だけ垂らしてやった。

 すんすん、と香りを確かめた後、すぐに舌を出した。思い切りがいい。まだ甘味の可能性を捨てていないようだ。そうして、ぺろりと一舐め。


「ぴえっ」


 べえ、と舌を出したまま、アグリが苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。

 やっぱりそうなるよね。甘くないどころか、むしろ辛くすらあるもの。

 涙目になってしまったアグリに、コップに水を注いで飲ませてあげる。

 ごめんね。

 そんな顔すら可愛いと思ってしまった私を許してほしい。


「大丈夫?」

「ら、らいひょーぶ」

「目に映るもの、鼻に香るものが正しいとは限らない。一つ勉強になったね」

「うん。えへへ、にがかった」


 ほんと良い子。見ました? 魔物は悪だと決めつけているバロル教団の皆さん、ちょっとはウチの子を見習ってくれませんかね。無理か。あいつら頭固いから。


 アグリが人心地ついたところで、ミッション再開。

 ボウルに入った卵の殻を取り除いてやり、バニラエッセンス少々、サラダ油、牛乳を加えてから再びアグリにパス。


 アグリが持つと、ボウルも泡立て器も、全部がキングサイズに見える。

 それはそれで絵になるけど、やっぱり危なっかしいし、機会があれば、子供用の調理器具を探してみよう。そして私の誕生日に、手作りのクッキーか何かをプレゼントしてもらうのだ。綺麗なラッピングを丁寧に開けると、その中には『いつもありがとう。大好きだよ。ママ』と書かれたメッセージカードがががががが!!


「あなた、さっきとは比べ物にならないくらい酷い顔をしているわよ」

「姐さん、不気味ッス……」


 あらやだ。私ったら、はしたない。

 もふもふコンビにたしなめられ、アグリに見られる前に、緩みきった顔を消した。

 そんな私に気を取られることなく、アグリはボウルを小脇に抱えて固定し、泡立て器で卵を押し潰した。凄い集中力だ。手つきはおぼつかないが、一生懸命にカチャカチャと音を立て、時間をかけてしっかりと混ぜている。


「しょ、んしょ。……もっと?」

「どれどれ。うん、これくらいでいいかな」


 一仕事を終えたアグリが「……ぷひゅい」と短く息を吐いた。作業に疲れたというよりも、慣れないことに対する緊張でだろうね。ご苦労様。

 ああ、楽しいなー。娘と一緒にキッチンに立つ。こういうの、夢だったんだよね。


「姐さん、姐さん」

「幸せですが?」

「いや、訊いてないッス」


 モスくんの顔が、いつになく真剣みを帯びている。


「次の作業はオイラにやらせてもらえませんか? 名誉挽回のチャンスが欲しいッス」


 粉の量は多少減ってしまったけど、失敗ってほどじゃないのに。なんという責任感の強さ。

 この後の作業は、アグリが下準備してくれたものを、モスくんたちがふるいかけたボウルに投入。粉っぽさがなくなるまで混ぜ、生地を作るというものだ。

 そこまで難しい作業じゃない。――が、それがネコの手でやるとなると、話は別。


「構わないけど、大丈夫?」

「正直、不安はかなり大きいッス……。でも、雄には、やらなければいけない時があるんス。命を懸けてでも!」

「モスくん……」


 精悍な顔つきは、これから戦場に臨む兵士のように、覚悟を決めた男のそれだ。

 だけどその、命を懸けてでもやらなければいけない時? さすがに今じゃないと思うな。


「アタシはどうすればいいのかしら? 手持無沙汰だわ」

「オイラが先陣を切ります。もしものことがあれば、リヴさんに骨を拾ってほしいッス」

「普通に嫌なのだけど」

「それはつまり、死んでも任務を遂行しろってことッスね? 了解ッス。見ていてください。たとえ、この腕がもげようとも、命の炎が尽きる最期の一瞬まで――!!」

「食欲が失せるようなことをするなと言っているのよ。本当にやったら絶交するわ」

「適当なところで交代をお願いしますッス」

「そうなさい」


 二人の温度差がすごい。

 若干テンションを落としたモスくんが木ベラを手に取った。その安定とは程遠い持ち方は、高齢者ドライバーの助手席に座っているかのようにハラハラさせられる。掴むというよりも、合掌してなんとか柄を挟んでいるにすぎない。完璧は望めないだろう。

 それでも私は、モスくんの男気を汲んであげたい。


「それじゃ、モスくん、よろしくね」

「はいッス」


 卵、その他を溶いた牛乳を半分だけ粉に入れ、均一な固さになるまで混ぜてもらう。


「ダマは少しくらい残ってもいいから、切るようにして混ぜて」

「こ、こうッスか?」

「そうそう。いい感じだよ」


 モスくんは、そのミニマムサイズから想像もつかないほどの怪力の持ち主だ。気を抜けば、木ベラは簡単にへし折れ、手を滑らせれば、生地はボウルごと吹っ飛んでいくだろう。針穴に糸を通すような集中力と、繊細な力加減が要求されているに違いない。

 ある程度のダマがなくなったところで、残りの牛乳を投入。さらに混ぜる。


「にゃぐっ、にゃっ、ふっ」


 一搔き一搔きに全神経を注ぐ様は、本当に命を燃やしているかのような気迫を感じさせる。

 当然、体力の消耗も著しい。モスくんの腕が悲鳴を上げている。


「モスくん、そのへんで。そろそろリヴちゃんと交代しよう」

「あとちょっと……あとちょっとだけ……やらせてくださいッス。少しでもリヴさんの負担を減らしておきたいんス……」


 男らしすぎるよ。さしものリヴちゃんといえど、この姿には心を動されているに違いない。

 と思いきや、本人は暇そうに「くあ~」と大きな欠伸をしている。手強い。


「あっ、ぐ……っ!」


 ついに、本人の意思とは関係なく、モスくんの手から木ベラがこぼれて床に落ちた。


「……腕が……もう……。どうやら、ここまでみたいッス……」

「ありがとう。モスくんは休んで」


 その手で本当によくやってくれた。君の頑張りは、リヴちゃんも見ていてくれたはずだよ。


「次はアタシの番ね」

「不甲斐ないッス。オイラだけで終わらせられず、リヴさんの手を煩わせることに」

「手なんて使わないわ」


 どういう意味かと尋ねるより早く、リヴちゃんがボウルを覗き込むように、むっくりとした下顎を持ち上げた。宣言どおり、何も手に取ろうとしない。

 代わりに、周囲の魔素をボウルの中へと集めていき――……。


 ギュルルル!


 と、生地が勝手に、ハンドミキサーばりの勢いと回転で撹拌された。

 一瞬の出来事だった。さっきまでのモスくんの奮闘はなんだったの? というくらい。

 そっか、代掻きの時と同じ要領だね。


「このくらいでいいかしら?」

「あー、はい……。大変よろしいかと……」


 リヴちゃんの十八番である液体操作によって、ダマが完全に消え、生地がなめらかな状態になった。ここに溶かしたバターを入れて一混ぜする。これで焼くまでの下地は完成だ。

 これなら最初から…………。いや、みなまで言うまい。


「姐さん、オイラ、少し風に当たってきます……」

「あ、うん、お疲れ様」


 扉を押し開け、とぼとぼと外に出ていく。その背中には、言い知れぬ哀愁が漂っていた。

 恋路とは、かくも厳しい道のりなのか。頑張れ、モスくん。

 気を取り直しまして。


「ここからは火を使うから、一回目は私がやってみせるね」


 コンロのつまみを捻ると、プレート部分が熱でぼんやりと赤く光る。IH調理器と同じだ。火も無いのに中火というのも妙だけど、とにかく中火の出力でフライパンを熱する。

 充分に温まったら薄く油を引きまして、濡れた布巾の上に載せて冷ます。こうすることで、ホットケーキを焼くのにちょうどいい温度に調節することができる。常識かな?

 そうして再び弱火でフライパンを熱し、おたま一杯分の生地を流し込む。この時、高めから一気に落とすのがポイントだ。低いと綺麗な円形にならず、ムラができてしまう。


「いいにおい~」


 アグリのテンションも上がってきた。待ってね、もうすぐだから。

 蓋をして約三分。表面にプツプツと気泡が現れ、裏面がキツネ色になるまで焼く。

 そうしていよいよ、ホットケーキにおける一番の山場が訪れる。


「ここから引っくり返すよ。しっかり見ていてね」


 何百と繰り返してきたことだ。今では目を瞑っていたってできる。失敗するはずがない。

 そう思いつつも、何事にも絶対なんてありえないという不安が残っている。

 だけど、この一回は。

 アグリにとって、初めての一枚になる今回だけは、何がなんでも成功させてみせる。

 いざ。


 フライ返しの真ん中に生地を載せ、素早く手首を返す――


「せいやッ!!」


 ――のではなく。


 一気に腕を振り上げ、円盤状の生地を天井ぎりぎりまで放り投げた。

 アグリとリヴちゃんが、驚きに目を剥いた。


 衝撃で形を崩さないよう、膝と手首の関節をフルに使ってインパクトの瞬間に備える。

 必要なのは技術。そして、アグリにも言って聞かせている、失敗を恐れない勇気。

 ここで掴み取るのは、ホットケーキの生地だけにあらず。

 娘の笑顔。

 親の沽券。

 一つたりとて落とせない。


 様々な思いをフライパンに込め、落下地点で待ち構えた。

 さあ、落ちてこい。


「――――――ほっ!!」


 空中で引っくり返った生地を、寸分違わずフライパンの中心でキャッチ。

 いよし。

 いよぉーっし。

 これ以上はない成功に、思わずガッツポーズをとった。

 片面を焼くため、フライパンをコンロに戻したところでオーディエンスの反応をうかがう。


「す……すごい! すごーい!」


 呆気にとられていたアグリから、一拍遅れて割れんばかりの拍手が飛んできた。あまり声を荒らげたりしない子なので、この素直なリアクションは、百の賛辞よりも嬉しい。


「リヴちゃんも見ていてくれた?」

「見ていたけど、今の行為には何か意味があるのかしら?」

「アグリにカッコイイところを見せたかった」

「それだけ?」

「最優先事項じゃない?」

「愚問だったわね」


 この難所を乗り越えれば、もう恐るるに足らず。

 今度は蓋をせず、弱火で焼くこと二分。火がちゃんと通ったところで――


「はい、できあがり」


 テーブルに用意したお皿に盛り、こんがりと綺麗な焼き色に、ふわりと漂うバターの香りをまずは堪能してもらおう。形もふっくらフワフワ、上々な仕上がりだ。


「ふわぁぁ……」


 アグリの瞳が今日一番に輝いた。

 その顔が見られただけでも準備に長い時間をかけた甲斐があったというものだけど、自分の頑張りを褒めてやるのは、「おいしい」の一言を聞いてからにしよう。

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